みんな「同じように違う」が腹落ちするとき、違いは面倒くさくない
書けば書くほど…自分ってコマカイ!
書けば書くほど、些細なことにこだわる自分を発見する。
自分って細かいなあ、とため息。
そうそう、私って細かいんだよね、と頷く。
そりゃそうだ。
私は〝繊細さん〟なのだから。
それだけはない…
そんな自分と向き合うなんて面倒くさい!と時々思う。
繊細さんな一面を持っていたりすると、自分と向き合うというのは簡単なことではないし、手間暇かかるとつくづく思うのだ。
世の中の学校は夏休みに入るタイミング。
「夏休みの宿題」っていう言葉を耳にして、子どもだけでなく、大人にも、というか、誰しも人生を通して宿題があるな。
ふと、そう思った。
自分と向き合うこと、理解すること、が人生の宿題のひとつだとしたら、繊細さんの場合は、そこがテーマの宿題が多くて、その量に圧倒されてしまうかもしれない。
そんなことを考えた。
自己理解の宿題が多い繊細さん
たくさんの自己理解の宿題を背負った人。
それが私?
そう考えると、自分でも背負っていること自体が嫌になる。
周りからみてもなんだか大変そうに見えるかもしれない。
手元にある宿題が大変そうに見えると、ますます実際に手をつけるのが遅くなり、進めていれば起こらなかった面倒な体験がさらに増えていくばかりになる。
なんか夏休みの宿題みたい。
他の、繊細さんじゃない人は、全く別の種類の宿題があるかもしれない。
だから違う中身の宿題同士を比べることはきっとあまり意味がない。
自分が成長するための課題をいただいた。そう思って取り組むのがいい。
嫌にならないよう色んな工夫しながら。
子どもの頃、特に小中学校に通っていたころは、いわゆる宿題や課題というのは皆一律同じものだった。それでかなり多くのことが評価された。
ひとりひとりみんな違って、自分が自分の成長のためにやらなくてはならない宿題があるのに。
もともと背負っているものが異なるのに、取り組むべきことが違うのに、とにかく同じものをやるというのは、人によってタイミングによって、苦痛だし負担だと思う。
私が子どもの頃に感じた、なんとも言えない縛られた感じや息苦しさの一部は、そこからきていたかもしれない。
みんな同じに違うなら、違いは面倒くさくない
みんな同じ?
みんな違う?
私は、みんな同じように違う、と思っている。
多分学校に入るずっと前から。
ずっと思っていることなのに、周りと違う自分を見つけたとき、いつのまにか面倒くささを感じるようになってしまっていた。
この〝面倒くさい〟という感覚はどこからきているだろう?
みんなと違ってなんで自分だけ?
目の前のわかりやすい他の人と比較して、損してる、時間がかかっている、という焦りや不安からきているかもしれない。
同じ評価軸にさらされる時間が長かったから、みんな同じように違うことに心の底から納得していなかったかもしれない。
本当に腹落ちたしたら…
自分の繊細な部分と向き合う面倒くささは湧いてこないはず。
だって、繊細さの発見と理解の連続は、自分の宿題を順調にこなしていることに等しいのだから。
みんな同じように違うがもっと尊重されるなら…
みんながそれぞれ自分を知ること伸ばすことに夢中になるだろうに。
そして、そんな世の中では無用な争いなんて起こらないだろうに。
結局私は、学校に入るずいぶん前からそうだったように、人とただ争ったり競うのが本当に好きではないらしい。
そしてそんな自分には、きっとまだまだ自己理解の宿題がたくさんある。
たまに面倒くさいとはやっぱり思うけれど、同時にそれでいいとも思う。
そんな自分をただ寛容に受け止めるのが何より大切だから。
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