見出し画像

学校に行くことは、はるかに原始的で、魔術的で‥

以前、落合陽一さんがNHKの「ズームバック×オチアイ」でイヴァン・イリイチのコンヴィヴィアリティについて紹介されていた。(下記noteに少しまとめております)

イヴァン・イリイチの「脱学校の社会」を学生時代に読んだことを思い出し、再読することにした。けっこう好きな本だった。

ただ当時は「脱学校の社会」という概念が理解はするものの、実現にはいささかぶっとんでいるんじゃないか‥と感じた。

当時、発行から30年経ても本書のように学校と社会の関係は改善されておらず、これは叶うことのない理念なのではないかと本を読み終えた。

今回再読する際に思っていたのは、今この変動の時代ならばテクノロジーを活用しつつ、「脱学校の社会」も実現可能なのではないかという期待だった。

この「脱学校の社会」は単なる学校批判ではない。
消費社会と貧困に対して学校が生み出す問題を指摘し、それに代わる「人間と環境との間に新しい様式の教育的関係」を作り出すことを訴えている。

この新しい様式を育てるためには、成長に対する態度、学習に有効な道具、および日常生活の質と構造とが同時に変革されなければならないであろう。

落合さんが紹介されていたイリイチの「コンヴィヴィアリティ」という概念。

キーワード
コンヴィヴィアリティ(自立共生)
共に助け合い、社会と緩やかに繋がる

この「脱学校の社会」でも根底にある理念のようだ。再読で初めてそれに気づいたけど、そこをスルーしてた当時は色々掴み損なってる気がする。

身近な学校というテーマだけれど、それが「社会の構造の中でいかに成立しているか」というのは、中にいるだけでは気づけないものだわ。
そして、自分が無意識のうちに「学校化」された価値判断をしていることにゾッとしたりした。

なかなかタフな読書になったので、まとめはまた改めて。

お読みいただきありがとうございます。
ちょっと混乱した文章でごめんなさい。
(いつもか‥。)

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?