「人は『悪』を成す自由があるのか?」①

もう5年も前になるだろうか、当時よく行っていたカラオケスナックのマスターに誘われて、お店の常連客の住職のお寺の勉強会に行ったことがある。
浄土真宗で、マスターの実家が檀家になっているお寺だ。
仏教には興味があったし、勉強会の後に飲むのが楽しみでもあったから、軽い気持ちで参加した。実を言えば、マスターの妹さんと知り合ったばかりで、仲良くなりたかったのもある。

勉強会といっても専門的な難しいものではなく、平易な言葉で親鸞上人の教えを解説し、お経をみんなで唱え、最後にお焼香をあげるというような流れだった。お焼香の作法が分からなくて、妹さんに教わりながら見よう見まねでやってみたくらいだ。

勉強会が終わったのが3時半くらいで、お寺から駅の近くまで歩いて「親睦会」の会場まで向かった。カラオケスナックはまだ開ける時間ではなかったので、別の飲み屋で食事をし、いい時間になったらスナックに移動する運びだ。

5月中頃の、柔らかな春雨が肌を濡らす午後だった。歩く途中、信号待ちしながら雨宿りする軒下で、寒がる彼女の肩に自分のシャツを脱いでかける。

「こんな派手な花柄より、こっちがいいわ」

笑いながら彼女は、道路脇の花壇に沿って横に歩き出した。
すでに信号は変わっていて、みんなは対岸に渡っている。
僕はTシャツの剥き出しの腕に肌寒さを感じながら、彼女の少し後ろを歩いていた。

二人が店に着いた時、他のメンバーはもう瓶ビールを開け始めていた。
焼き物を出す店で、七輪にも火が点いている。
店先から少し外に突き出ていて、七輪の熱気を、雨よけのビニールシートの隙間からの涼しい風が程よく冷ましてくれた。

「人は、『悪』を行うことは出来るのでしょうか?」

飲みながら勉強会の話をしていて、頭によぎった疑問を、ふと口にしていた。

「悪人正機」という考え方がある。
「悪人」こそ、阿弥陀仏の力(「本願」「他力本願」)によって救われるべきである、というものだ。

善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世の人つねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。
— 『歎異抄』第3章

しかし一方で、阿弥陀仏は無量光仏、無量寿仏とも呼ばれ、すごく乱暴にいうと、僕らが生きている世界は仏の御心のままに動いていて、僕らが何を考え、何をするかさえも、仏の御心のままだというのだ。

雀一羽落ちるのも神の摂理。
There is special providence in the fall of a sparrow. 
-『ハムレット』第五幕第二場(小田島雄志訳)

キリスト教圏の言説ではあるが、シェイクスピア劇のこの台詞は、仏教の世界観と通じる部分が少しある。

さて、となれば人は、「悪」を行う「自由」はあるのだろうか?
「私」が「自由意志」で行ったと思い込んでいても、実は仏の御心のままに動かされているかもしれないのに?

「悪」の定義の問題は確かにある。
「人の定めた『悪』」か、「仏の定めた『悪』」か、だ。

そのゆゑは、自力作善の人は、ひとへに他力をたのむこころ欠けたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。
- 『歎異抄』第3章

「自力作善の人」=「善人」は、自分の力で「善」を成そうとするあまり「他力」=阿弥陀仏に頼もうとしない。だから救われることがない。
言い換えれば、「自力」を過信するという「邪念」、善を成そうという「欲」「我執」こそ「煩悩」であり、「悪」ということだ。

煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。
- 『歎異抄』第3章

「善」を成そうという「自力本願」こそ思い上がり(古代ギリシャでいう“ Ὕβρις, Hybris”「傲慢」はかなり近いかもしれない)、すなわち「煩悩」である。そうした「煩悩」にまみれた自分自身を自覚し、ひたすら「他力」にすがること、これが必要と説いている、と読むことができる。

人は務めている間は、迷うに極ったものだからな。
Es irrt der Mensch, solang er strebt.
-『ファウスト』天上の序言

ファウスト博士の「悲劇」を思い起こさせる思想だ。
「煩悩」にまみれて生きる「悪人」に自覚を促し、自らを悟り仏にすがった時に救われる、というのだから。

しかし、だ。
「自力」を恃むこの「煩悩」すら仏の御心というならば、それは本当に「悪」なのだろうか?


「人は『悪』を成す自由があるのか?」

ワガママだったけれど優しかった彼女を傷つけ離れた今、自分自身の『悪』と未だに向き合えないでいる。

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