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ポートレイト・イン・ジャズ(マイルス・デイヴィスと村上春樹)

どんな人生にも「失われた一日」がある。「これを境に自分の中で何かが変わってしまうことだろう。そしてたぶん、もう二度ともとの自分には戻れないだろう」と心に感じる日のことだ。

和田誠/村上春樹『ポートレイト・イン・ジャズ』新潮文庫 2004 102p

マイルス・デイヴィスの音楽について(「長年にわたってそのまわりに付着してしまっている」、「様々な記憶」(前掲書p7)も含め)書かれた最も素晴らしい文章のひとつは、このように始まる。
流石の村上春樹、イラストレイターの和田の言葉を借りれば、「楽曲解説ではなく、ジャズを聴く気分やジャズが持っている力をこんなに適格に文章にできる人を、ほかに知らない(前掲書p346)」

その日は、ずいぶん長く街を歩きまわっていた。ひとつの通りから次の通りへと、ひとつの時刻から次の時刻へと。よく知っているはずの街なのに、それは見覚えのない街みたいに見えた。

前掲書p102

語り手の青年(村上自身の「ずいぶん昔の話(前掲書p107)」)は、道に迷っている。進むべき道を求めて街をさまようが、どの通りも袋小路。街は彼に何も示さない。拒絶しているようだ。

心の底では(あるいは無意識のうちには)、彼は分かっているのだろう。開くべき「門」が目の前にあることを。それはカフカの『掟の門(Vor dem Gesetz, 1914)』のように彼を拒み続けるように見えながらも、本当は彼だけのために用意されたものだ。そして彼自身にも、この門を越える以外の道が残されていない。しかしそのためには屈強な門番を倒さねばならず、その先には次の門と、さらに屈強な門番が無限に控えているという。だから彼は門の存在を(恐らくは無意識に)無視し、他に抜け道がないかを探して、街をさ迷っているのだ。
しかし街は彼に何も示さない。彼はすでに門の向こうの新しい世界と新しい「掟」に属しつつあり、「こちらの世界」とのリンクは薄れている。ひどくよそよそしいのだ。

どこかに入って酒を一杯飲もうと思ったのは、あたりがすっかり暗くなってからだった。

前掲書p102

少し通りを歩いたところにあるジャズバーに入る。大きな通りから離れた路地裏の、こじんまりとした店。いわば街の中の「異界」のような空間に、彼は逃げこむ。あるいは童話のアリスのように、そこに吸い込まれる。

カウンターのスツールに座って、バーボン・ウイスキーをダブルで頼んだ。そして、「自分の中で何かが変わってしまうことだろう。もう二度ともとの自分には戻れないだろう」と思った。ウイスキーを喉の奥に流し込みながら、そう思った。

前掲書p104

他に客のいない静かなバーでひとり酒を飲む。
脳裏に浮かぶ「門」のイメージに付きまとわれながら。

「何か聴きたい音楽はありますか?」

若いバーテンダーは尋ねる。

そう言われてみると、たしかに何かが聴きたいような気もした。でもいったい僕は、ここでどんな音楽を聴けばいいのか? 僕は途方に暮れた。「『フォア・アンド・モア』」と、少し考えてから言った。

前掲書p104

聴きたい音楽。
この問いかけは、この「失われた一日」の、この「異界」において宿命的だった。返答次第では門番が旅人にくれる打擲にも、看守が死刑囚に与える最後の晩餐にも、扉を開くための鍵にもなるような。
そして語り手が選んだのは、『フォア・アンド・モア』だった。

それはまさに僕の求めていた音楽だった。今でもそう思う。そのときに聴くべき音楽は『フォア・アンド・モア』しかなかったんじゃないかと。

前掲書p105

その音楽は彼を拒絶もしなければ、安楽な死へと誘いかけもしない。かといって、絶対者からの啓示によって道が開かれるということもない。
これは自分自身を極度に追い詰めた者同士の、闘いの記録だった。

『フォア・アンド・モア』は、マイルス・デイヴィスがしばらくの停滞期の後に結成した「60年代クインテット」で行ったライブコンサートの録音である。
中山康樹『マイルス・デイヴィス ジャズを越えて』(講談社現代新書 2000)によれば、マイルスが新しいサウンドを作るためには、新しいメンバーとともに演奏をする必要があった。

極論すれば、それ以前のマイルスは、まず頭のなかで鳴っている未知のサウンドを具現化するべくミュージシャンを探し、起用していた。しかし、このクインテットにおいては、ミュージシャンの演奏そのものがマイルスの未知の領域へと連れ出し、その結果としてそこにサウンドがあるという、きわめて特異なパターンが生まれることになる。

中山康樹『マイルス・デイヴィス ジャズを越えて』講談社現代新書 2000, p107

つまり奇しくも語り手は、自分同様にある境目を越えて未知の領域に向かおうとするマイルス・デイヴィスの音楽を、それもライブ盤というもっとも生々しいフォーマットで、求めていたのだった。

村上春樹のテキストに戻ろう。

『フォア・アンド・モア』の中でのマイルズの演奏は、深く痛烈である。彼の設定したテンポは異様なばかりに速く、ほとんど喧嘩腰と言ってもいいくらいだ。トニー・ウィリアムズの刻む、白い三日月のように怜悧なリズムを背後に受けながら、マイルズはその魔術の楔を、空間の目につく限りの隙間に容赦なくたたき込んでいく。彼は何も求めず、何も与えない。そこには求められるべき共感もなく、与えるべき癒しもない。そこにあるのは、純粋な意味でのひとつの「行為」だけだ。

和田誠/村上春樹『ポートレイト・イン・ジャズ』新潮文庫 2004, p105-106

かなり長く引用したが、実際にこのレコーディング(特に最初の二曲《ソー・ホワット(So What)》《ウォーキン(Walkin’)》)を聴けば、これ以上に適格な表現はないと僕は思う。

トニーのパワフルかつ大胆なドラミングにあおられて、マイルスがここまで過激なソロを展開した例はなく、その二人のサディスティックに突き進む姿は素晴らしい。この演奏を聴いていると、マイルスが“ジャズ”という成層圏を突き抜け、もはやどこまでも前進していくしかなかったことを痛感させられる。実際《ソー・ホワット》のオリジナル・ヴァージョンからわずか五年、ここでの《ソー・ホワット》は再演の域を越えて、どこかとてつもないところに向かっているような疾走感がある。

中山康樹『マイルス・デイヴィス ジャズを越えて』講談社現代新書 2000, p109

 厳密なベンヤミン信者には叱られるかもしれないが、マイルスの(そして優れた演奏家すべての)録音には確かな「いま/ここ」感、「アウラ」というものが宿っていると、僕は思う。そして『フォア・アンド・モア』のようなライブ録音ならば、そのアウラはことさら顕著に、リスナーの五感に襲いかかるだろう。
「異様なばかりに速く」、「パワフルな大胆なドラミング」でテンポを刻むリズムパートと、それに煽られるトランペットとサックスの飛び散る汗。その匂いと熱気がこちらにも伝わってきて、飲み終えたオンザロックの氷すら打ち砕き、溶かしてしまうような気さえする。
トニーのドラミングにあおられたマイルスはとてつもない音数で高低の全音域に「魔術の楔」をたたき込み、それを足がかりに他の楽器が輪をかけて激しいソロを展開していく。どこまでも「サディスティック」に。

例えば一曲目《ソー・ホワット》のオリジナルは1959年の『カインド・オブ・ブルー』という名盤で、これは今でもジャズ史上に残る名演と言われるパフォーマンスだけれど、その時のマイルスは空間を活かしたゆったりとした叙情的な演奏だった。サックスのジョン・コルトレーン、ピアノのビル・エヴァンスも素晴らしい。

しかしマイルスは、最高傑作と呼び声の高い過去の名演に安住しなかった。「どこまでも前進」するしかない彼は、『フォア・アンド・モア』では「どこかとてつもないところ」に向かい「疾走」する。「彼は何も求めず、何も与えない。そこには求められるべき共感もなく、与えるべき癒しもない。そこにあるのは、純粋な意味でのひとつの「行為」だけだ」。それはただのオナニープレイではなくてもっとストイックな、「祈り」や「瞑想」に近いものなのだろう。どこまでも個人的で自己完結的でありながら、他者を「サディスティック」に突き動かさざるをえないような。

「ウォーキン」を聴きながら(それはマイルズが録音した中ではいちばんハードで攻撃的な「ウォーキン」だ)、自分が今、身体の中に何の痛みも感じていないことを知った。少なくともしばらくのあいだ、マイルズがとり憑かれたようにそこで何かを切り裂いているあいだ、僕は無感覚でいられるのだ。

和田誠/村上春樹『ポートレイト・イン・ジャズ』新潮文庫 2004, p106

それは共感でも癒しでもない。
安楽な死でも、神の救いでもない。
常に何かに突き動かされ、新たな世界に踏み出さざるをえない僕らのための、ひとつのカタルシス(浄化)なのだろう。

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