ポートレイト・イン・ジャズ(マイルス・デイヴィスと村上春樹)
マイルス・デイヴィスの音楽について(「長年にわたってそのまわりに付着してしまっている」、「様々な記憶」(前掲書p7)も含め)書かれた最も素晴らしい文章のひとつは、このように始まる。
流石の村上春樹、イラストレイターの和田の言葉を借りれば、「楽曲解説ではなく、ジャズを聴く気分やジャズが持っている力をこんなに適格に文章にできる人を、ほかに知らない(前掲書p346)」
語り手の青年(村上自身の「ずいぶん昔の話(前掲書p107)」)は、道に迷っている。進むべき道を求めて街をさまようが、どの通りも袋小路。街は彼に何も示さない。拒絶しているようだ。
心の底では(あるいは無意識のうちには)、彼は分かっているのだろう。開くべき「門」が目の前にあることを。それはカフカの『掟の門(Vor dem Gesetz, 1914)』のように彼を拒み続けるように見えながらも、本当は彼だけのために用意されたものだ。そして彼自身にも、この門を越える以外の道が残されていない。しかしそのためには屈強な門番を倒さねばならず、その先には次の門と、さらに屈強な門番が無限に控えているという。だから彼は門の存在を(恐らくは無意識に)無視し、他に抜け道がないかを探して、街をさ迷っているのだ。
しかし街は彼に何も示さない。彼はすでに門の向こうの新しい世界と新しい「掟」に属しつつあり、「こちらの世界」とのリンクは薄れている。ひどくよそよそしいのだ。
少し通りを歩いたところにあるジャズバーに入る。大きな通りから離れた路地裏の、こじんまりとした店。いわば街の中の「異界」のような空間に、彼は逃げこむ。あるいは童話のアリスのように、そこに吸い込まれる。
他に客のいない静かなバーでひとり酒を飲む。
脳裏に浮かぶ「門」のイメージに付きまとわれながら。
「何か聴きたい音楽はありますか?」
若いバーテンダーは尋ねる。
聴きたい音楽。
この問いかけは、この「失われた一日」の、この「異界」において宿命的だった。返答次第では門番が旅人にくれる打擲にも、看守が死刑囚に与える最後の晩餐にも、扉を開くための鍵にもなるような。
そして語り手が選んだのは、『フォア・アンド・モア』だった。
その音楽は彼を拒絶もしなければ、安楽な死へと誘いかけもしない。かといって、絶対者からの啓示によって道が開かれるということもない。
これは自分自身を極度に追い詰めた者同士の、闘いの記録だった。
『フォア・アンド・モア』は、マイルス・デイヴィスがしばらくの停滞期の後に結成した「60年代クインテット」で行ったライブコンサートの録音である。
中山康樹『マイルス・デイヴィス ジャズを越えて』(講談社現代新書 2000)によれば、マイルスが新しいサウンドを作るためには、新しいメンバーとともに演奏をする必要があった。
つまり奇しくも語り手は、自分同様にある境目を越えて未知の領域に向かおうとするマイルス・デイヴィスの音楽を、それもライブ盤というもっとも生々しいフォーマットで、求めていたのだった。
村上春樹のテキストに戻ろう。
かなり長く引用したが、実際にこのレコーディング(特に最初の二曲《ソー・ホワット(So What)》《ウォーキン(Walkin’)》)を聴けば、これ以上に適格な表現はないと僕は思う。
厳密なベンヤミン信者には叱られるかもしれないが、マイルスの(そして優れた演奏家すべての)録音には確かな「いま/ここ」感、「アウラ」というものが宿っていると、僕は思う。そして『フォア・アンド・モア』のようなライブ録音ならば、そのアウラはことさら顕著に、リスナーの五感に襲いかかるだろう。
「異様なばかりに速く」、「パワフルな大胆なドラミング」でテンポを刻むリズムパートと、それに煽られるトランペットとサックスの飛び散る汗。その匂いと熱気がこちらにも伝わってきて、飲み終えたオンザロックの氷すら打ち砕き、溶かしてしまうような気さえする。
トニーのドラミングにあおられたマイルスはとてつもない音数で高低の全音域に「魔術の楔」をたたき込み、それを足がかりに他の楽器が輪をかけて激しいソロを展開していく。どこまでも「サディスティック」に。
例えば一曲目《ソー・ホワット》のオリジナルは1959年の『カインド・オブ・ブルー』という名盤で、これは今でもジャズ史上に残る名演と言われるパフォーマンスだけれど、その時のマイルスは空間を活かしたゆったりとした叙情的な演奏だった。サックスのジョン・コルトレーン、ピアノのビル・エヴァンスも素晴らしい。
しかしマイルスは、最高傑作と呼び声の高い過去の名演に安住しなかった。「どこまでも前進」するしかない彼は、『フォア・アンド・モア』では「どこかとてつもないところ」に向かい「疾走」する。「彼は何も求めず、何も与えない。そこには求められるべき共感もなく、与えるべき癒しもない。そこにあるのは、純粋な意味でのひとつの「行為」だけだ」。それはただのオナニープレイではなくてもっとストイックな、「祈り」や「瞑想」に近いものなのだろう。どこまでも個人的で自己完結的でありながら、他者を「サディスティック」に突き動かさざるをえないような。
それは共感でも癒しでもない。
安楽な死でも、神の救いでもない。
常に何かに突き動かされ、新たな世界に踏み出さざるをえない僕らのための、ひとつのカタルシス(浄化)なのだろう。
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