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「死ぬ気になりゃ何でもできるだろ?」って簡単に言ってしまう自称成功者の心理②

人と自分が同じと思うことは悪いことではないが…

 前回の記事では、アイデンティティの確立ができていない人々が日々、不安に過ごし、自らの存在意義すら希薄なまま人生を半ば漂流しているということを書かせていただきました。
 
 実際、好きでそういう状態を選んでいるのではないのですよ。誰しもが生まれてから、いわゆる社会人と呼ばれる年齢になるまでに、順風満帆であったかというと、そうではないと思います。
 時代は日々、利便性の向上を目指して、時短が美徳のように、それに適した機能を持つ製品や設備に、すべてが置き換えられていっています。アップデートという、言葉さえも便利なものが出てきて、そう言えば、大概のことは許される風潮、そう「日々、更新、向上」の象徴のように、この言葉はメディアでも日常生活でもはびこっているように見える。
 すべてがスピードレーンの上で展開される緊迫感のある決勝戦のように、毎日、ほとんどの人が無意識に競争に参加させられ、生産性を上げる、行動に意味をもたせる、時間を節約する、そんなことに意識を費やす日々を流されている。
 その激流を泳ぎきれなかった者は、こんなに豊かさに繁栄した時代の澱みに滞留して、スピードレーンを行くせわしない人々から、軽蔑をされているかのように見える。
 「可哀想に」「運が悪かったな」「ああはなりたくない」そんな言葉を躊躇なく感想として投げかけていく。
 ここで、アイデンティティがない、つまり自分の強みや特徴はおろか、自分が何のためにここにいて、何をする存在なのかもわからないというのは、澱みにハマった時、抜け出せなくなる可能性が高いと感じる。
 心の推進力が極端に少ないのだ。巻き込まれてしまった事態から、大切なものを奪われ、その上、ある程度の年齢になったら、一人前の生産性を獲得しろ、こんな横暴な状態に、すでに疲弊した彼らには、あまりにも虚無なフィールドになっている。
 生きていく明確な理由さえ見つけられないのに、人生の目標を持て、などと言われても、とっかかりさえ思い浮かばないのだ。

ネットで見た「東横キッズ」

 ご存知の方もいるでしょう。日本最大の歓楽街の片隅に、集まっている少年少女のことである。
 ウィキペディアには、彼らはそこに
「たむろ」している…と書かれている。
 たむろ…ネガティブな表現に見える。そりゃあ健全な存在ではないかもしれない。ネットの冷酷なところは、一度、ネガティブな烙印を押されれば、そのイメージはガソリンに日をつけたように爆散する。
 では、あなたは彼らが何故、あのような場所にたどり着くことになったのか、想像がつくか?
 わからなくても仕方ないことだと思う。彼らのような経験はなかなかできるものではない。しかし、そうだからと言って彼ら自身は、社会の悪でも、世界の無駄でも決してないはずだ。
 この言葉に反論や反感があるならば、あなたもまたスピードレーンで競争させられているネズミなのだ。
 無駄なく賢く生きて、効率的に収入を得て、幸福を追求していきたい、と必死に思っている存在の一人に過ぎない。SNSに、あたかも充実した毎日を送るものとして切り貼りし、他人の投稿と自分の投稿を比べて、優劣を自己基準で決め、勝った負けたと悔しがっているだけだ。
 では、あなた達から見たら、東横キッズは、あなたの価値観から外れているから論外なのか?
 そんなことは決してない。彼らも、あなた方と同じく「幸福を追求したい」のだ。
 結局、どこに置かれていても、その人なりの問題があり、そこに抗って、なんとかうまいこと行っているように見せたいのだ。
 人であれば、あたりまえなのだ。

 だが、アイデンティティを失ったものは、人と比べるための「自分自身」すら、はっきりしていないのだ。
 これはとても深刻でありながら、見過ごされている問題であると私はとても感じる。

 では、どうやって、自分を見つけていけばいいのだ?

 それには、時間が必要だ。

次回に続きます。

私が今、表現できる限界を見ていただけたら幸いです。ご期待に応える努力を惜しみません。よろしくお願いいたします。