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月にかわってアマビエよ!part2

(前回の続き。読んでない方はpart1からお読みくださいね。)

まやかしのまやかし、イリュージョンのイリュージョン。そーゆものをアートだと仮定しますと、嘘っ子妖怪アマビエの嘘っ子コスプレしてるわたくしは「アート」に変化します。(やや強引)

宗教が始まってから人間は想像力で神を表現した偶像を作り、崇めるようになりました。これが「虚像の虚像」の最初のモデルです。

ちなみに宗教(キリスト教など)以前は洞窟に動物の絵を手型使って壁画描いてたよね。唾を水の代わりにして植物潰したのとかと混ぜて絵の具にしてたらしいよね。話が脱線しました。

現在のコンテンポラリーアートの流れはキリスト教とかユダヤ教とかが文明のベースとなっているといえるのでその「虚像」モデルの宗教画を原点として考えてみましょう。

例えば「生と死」を主なテーマとして制作するダミアン・ハーストのホルマリン漬けのサメ「生者の心における死の物理的不可能性」も人間の不確実性を表しており、神の存在を象徴する「神の虚像」が見え隠れするアート作品ともいえるかもしれませんね。

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ダミアン・ハースト 「生者の心における死の物理的不可能」1991

「死は常に生活と隣り合わせで、私たちの体は日々衰えています。しかし、人間は、医療、医薬に疑いのない信頼を持ち続けている。僕は“死”に対して深い執念を持っています。病的な意味ではなく、死は命を祝うことだと思います。」(Damien Hirst)


あとは技術手法の視点から見てみると日本画の「本歌取り」という手法も古典の作品から要素をちょこっとパクって新しい自分の作品を作るというもので、「虚像の虚像」といえます。日本画家の加山又蔵が俵山宗達にインスパイアされて描いたようなものですね。和歌の作成技法でも同じ様に「本歌取り」と言われて有名な歌の一句を自作の歌に取り込む手法として知られています。これらの手法は古いものの中から新しいものを作り出すという分かりやすい例です。

アート作品とはそれを鑑賞した人が自分勝手に解釈して良いものであり、本質的な主題は表には姿を見せないことが基本です。コンセプトもちろん大事です。しかし表現者がいくら「この作品はこーゆう意味があって~」と力説しても作品本体からアーティストの言葉がベラベラ出てくるわけではないので、作品のコンセプトの受け取り方は鑑賞する人の自由でもあります。作品の意味自分で想像し考えなくちゃいけないから、アート鑑賞ってマンガとか読むより疲れます。。

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有名な格言「秘すれば花なり」も似た意味あいかも。芸術の奥義として隠されているものの重要性を説いてます。

なんか、真面目にコンセプトを語るつもりが今回はアートの胡散臭さを露呈するような文章になってしまいました。

次回に続くよー。


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