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誰だって病気になる

2023年7月、東京の西新宿に建つ大学病院の病棟で、これを書き始めた。
特に何を伝えたいというわけではないが、いまを記録しておくことが必要に思えたので、思うままに書き留めている。

ここは病棟のデイルーム。
患者が自由に本を読んだり、仕事をしたり、見舞客と談話したりする開かれたスペースには、日常ではお互い交わることがないであろう様々な人がいた。

50代前後の女性は、ずっと仕事の電話で交渉ごとに向き合う。PCを見ながら「これは面倒だ」と呟きながら、コーヒーショップの紙カップを片手にずっと仕事をしている。旅行代理店の仕事だろうか、どうやら調整ごとが多いらしい。そして誰かに任せるわけにいかないのか、とにかく目の前の仕事に一生懸命なのがわかる。踏ん張って生きているのだろう(彼女は4人部屋の同室で、病名はわからないが3ヶ月に1度は数日の入院を繰り返していることがわかった)。
奥のテーブルには数名の男子校生のグループがいた。昨日も遊びに来ていたと思う。仲間の1人が入院したのをお見舞いに来ているのだろう。机には何本もペットボトルが並んで、お菓子でも食べながら笑いあう。そこだけが学校の一角で休み時間に語り合うような雰囲気、病気の湿った匂いも感じさせない底抜けの明るさを帯びていた。少し眩しい。誰にでも、あの頃にはこんな時間があったことを思い出させる。
父が入院中なのか、娘と奥様が見舞う姿もある。父らしき男性は、いつも通りの口調で2人に語りかける。現れた主治医の先生から話を聞いた後、「頭の良さそうな先生だよね」とポロッと語る父に空気は和む。一定の秩序がある家庭の空気を感じる、穏やかな親子だった。この家族にも、おそらく父の病気は一つの非日常な出来事だったのだろうと想像する。

「病」を共通項に、ここに集まった人たち。集まったからといって、大円団でお互いの素性を語り合うことはしないし、決して交わることはないが、なぜだろう、「人は時に病気になるものだ、私だってあなただって」と教えてくれる。50代のキャリアウーマンだって、底抜けに明るい男子校生だって、穏やかなお父さんだって、時にみんな病気になる。
入院する前まで、なぜ私だけ?私が何か悪いことをした?食べたものが悪かった?日常生活が乱れていた?私の体が他の何かに脅かされる恐怖と、健康で当たり前の幸福に満たされた世界から取り残された孤立感。ずっとそんな気持ちを抱えていたけれど、病棟にいると、心は少し穏やかになった。
私が病気になったのは特別じゃない。そう思える空間だった。
そして私の体のがんは、2日前に取り除かれた。

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