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夏とわたしの始発駅

 これは良く似た顔したふたりの女性と、そしてわたしとのおはなしだ。ガール・ミーツ・ガール、あるいは、ガール・ミーツ・ウーマンと云ったところだろうか。夏の出会いは一瞬だ。一瞬だからまぶしくひかる。わたしは今でもあのひとたちのことをおぼえている。 

 暑い日が日一日と増え、やがて余すところなく、すっかり夏になった。
 わたしたちの大学は夏休み前に前期試験があるため、七月もかなり後半まで学校に行かなくてはならない。その分、夏休みが長いのかと思いきや、さにあらず、普通に九月あたまから授業が始まるから、学生からの評判はかなり悪い。ほかの大学はもっと夏休みがあって、のんびりしているのにやら、なんやら。
 もちろん、わたしだってそうおもう。休みが多いことに文句を云うひとはいないだろう。好き放題の夜更かしも、いつまでもできる朝寝も、自由自在な毎日が続けば日々是楽園だ。しかし、学校なんておおきな組織の前には結局誰も何も云えず、やっぱり夏休みが終われば眠そうな顔してみんな校門をくぐる。だってそういう学校を選んだんだもの。誰のせいにも出来ない。
 加えてわたしには、今年の夏はいつもの夏とは少し違う。大学四年生だ。卒業まであと一年を切った。来年の今頃は何をしてるだろう。卒業式の海老茶袴を脱いだらすぐに、黒か紺のスーツとか着て、社会人一年生として、世間に放り込まれる。それだって、エスカレーター式じゃない。卒業の先に就職場所が自動で待っているなんてことはない。みんながみんな、それぞれに手を伸ばして、模索している。今のこんなのは夏休みなんてものじゃない。就職戦線の最前線だ。
 院に行くことはとっくに選択肢から外れている。わたしには講師への登用も研究者への道も、いまはもうない。自分の専門職としての実力のなさはとっくにあきらかになっていたし、なにより潤沢ではないわが家の家計から、これ以上の出費をあと数年も強いるのは本望じゃない。では一体、どんな選択肢が手元に残っているのか。手っ取り早いのは、みんなと同じOLさんだ。今は世に云う好景気で、株価は上がりっぱなし、金利だって良い。国内の余剰金で大会社は海外企業を傘下にしたり、ビルごと買い取ったり、世界的名画を円の力で、ばんばん競り落としている。こんな時代だもの。会社は人材確保にやっきになって、わたしたちはつまり、黙っていても企業がほしがってくれる、売り手市場というわけだ。
 会社員かぁ、とわたしはおもう。二週間ほどの教育実習でも自分のスーツ姿に嘆息していたわたしだ。OLさんが務まるのかなんてあまりにも謎すぎる。それでなくても自分で自負する変わりものだ。常識外れの度が過ぎて、会社のひとつやふたつ、平気でつぶしてしまうような気がする。
 あるいは自分で会社を立ち上げるか。これなら上司もいないし先輩もいない。同期OLの陰湿ないじめにも巻き込まれないし、なにより自由そうだ。しかし、はて、わたしは一体なにを起業すれば良いのだろう。世に訴えかける大義名分が今のわたしになにがあるのか。もし仮にあったとして、実現までの計画力や行動力、付随するもろもろの現実的対応力が、わたしに備わっているのか。そしてじっと手を見る。ゆっくり首をふる。ひとには分相応ってある。先陣を切って、がむしゃらにやってゆくタイプでは、わたしは到底ない。親が会社でもやっていれば、家族経営でそのまま仕事を引き継ぐなんてこともあるだろうが、父親は普通にサラリーマンだ。一昔前なら家事手伝いみたいな肩書があり、花嫁修業と銘打って、無職の女の子でも市民権を得られたのだろうけれど、いまは平成で、九十年代も間近にせまり、女性だって管理職に登用されつつある時代だ。大学を出て、のんべんだらりとした生活をしていては、世間的にはかなり肩身が狭い。とりあえず結婚までは就職しとかなきゃ、と云う時代が今だ。腰かけ就職なんて、うまく云ったものだ。ちょっと座って、時が来たら後も見ず、もう未練なく離れてゆく。職場の花か、会社と云う名のお見合い場所か。なんにしても女のひとは、いつか結婚するし、結婚したら子供を産んで、家を守る。あぁ、ここでも売り手市場が。男の人たちの無数に伸ばされてくる触手が見えるようだ。さあさあ、よりどりみどり。どの女の子も今が売りだよ。いい娘には限りがあるよ。この娘なんか特にあなたにぴったりだ。にこにこ笑って、おしとやかにして、何の色にでも染まります。
 なんてことだ。いやだいやだ。
「じゃあ、ウチに面接にくればいいじゃない。店長にもそう云っとくし。茉希ちゃんなら仕事も慣れてるし、うってつけだよ」
 アルバイト先の女性副店長、仲村さんが云う。ここは地元の小田急線駅前、ロータリーすぐ脇にある本屋さんだ。菜原くんと最初に出会ったのもここで、あれは臨時雇いの棚卸し要員を募集していた時だった。四階建てビルの三階までを店舗にした中堅どころの書店チェーンで、そのバイトが縁で声をかけられ、そのまま週に三日ほど働き続けている。短期バイトを誘ってくれた女友だちをだしに使ってしまったようできまり悪いけれど、自分から望むでもなく、自然とそんな流れになってしまった。大学四年になってまでバイトを続けるって、一般的にどうなのだろう。しかし断る理由もないのでそのままでいる。
 夏になり、いつまでも就職活動に踏み切れないのにも飽きて、親の手前とりあえず形だけの、しかし全然乗り気じゃない、外資系ホテルの採用面接をしてきた帰り道だ。こんな気持ちの人間が採用される訳ない。集まった学生たちは真剣で、緊張感があり、それぞれの将来を見据えてそこにいた。気軽に世間話も出来ないような雰囲気だ。周りを見渡し、その空気になじもうと下手な演技で一生懸命就職学生のふりをした。その気もないのにまじめな顔をするのは気疲れがする。こういうのってきっと不遜だ。自分も含め、誰も彼もをだましているようで、二倍疲れる。個人面接が終わるころには、口も聞けないほどぐったりとした。いたずらにこころを病みに来たようなものだ。一体なにしてるんだろう、あたし。
 桜木町から小田急の駅に帰り、ぼーっとした気持ちで、特に考えもなく、吸い込まれるようにバイト先の本屋に入る。レジには仲村さんがいた。わたしより十歳ほど年上の、きりっとして眼鏡の似合う、格好の良い女性だ。支店では副店長の肩書で、裏方の事務作業の多い人だから滅多に接客はしないのに、きっと人手が足りていないんだろう、珍しくカウンターに立ち、お会計や販売予約の仕事をこなしている。自分のスーツ姿を見下ろして、少し肩身が狭くなる。
「汐崎さん」
 話しかけづらくて、しばらくカウンター周りをうろうろしていると、ようやく一区切りついたらしい仲村さんがわたしに声をかけてくる。わたしは上目づかいに彼女を見て、
「・・・っす」
 少し頭を下げ、会釈をする。
「え?なんて云ったの」
 仲村さんが不思議そうに、首をかしげる。
「・・・あの、お疲れさまっす」
「なに、汐崎さんどうした。いつにも増して元気ないよ」
「いや、なんか忙しそうだったんで。本当は今日あたし、出の日だったのに。なんかすいません」
「ああ、それね。じゃ、今からでもシフト入ってちょうだい。夜九時までだからね」
「そ、そうですよね、すいません、じゃ今から着替えてきますんで、仲村さんと交代しますっ」
 ヒヤッとして、慌ててそそくさと、店内奥の事務所に走っていこうとする。仲村さんは店内に遠慮した小声で笑って、
「嘘だよ、汐崎さん、ウソウソ」
 わたしの二の腕あたりをやわらかくつかむ。
「ほんの冗談だから、まともに受けとらないで。ふふ、ごめんね」
「・・・はぁ」
 意気地なく、わたしはしょんぼりする。仲村さんは大人の女性だ。お化粧も綺麗だし、話し方もきちんとして、背筋だってぴりっとまっすぐ伸びている。わたしなんか簡単に手玉にとってしまう。どんな突発的な事態にも慌てず、丁寧、冷静、正確に対応して、結果とどこおりなく仕事をこなしてしまう、そんな頭の切れ方にあこがれる。背丈だけはわたしの方が少し高いけれど、その存在感のせいで、いつも彼女を見上げているような気にさせられる。ほかの店員さんから聞いた話では学生の頃、世界的なミスコンで日本予選の上位にランクされたこともあったらしい。
「今日は就職活動だったんでしょう。ちょっと、新鮮だね。汐崎さんのスーツ姿なんて、見慣れない」
 仲村さんがきらり、と眼鏡のフレームを光らせて、わたしを上から下まで見回してくる。わたしは身体をきゅっと硬くして、たちまちこころは、まな板の上の鯉だ。
「あの・・・変ですか」
「変?どうして。全然ヘンじゃないよ。きちんとしてるじゃない。見違えたよ、汐崎さん」
 わたしのブレザーの肩からひじのあたりまでの輪郭を、つつ、と指でなぞる。
「汐崎さんも四年生だもんね。卒業して就職して、来年の今くらいには、すっかり社会人なんだろうね。なんか不思議」
 にこりとした表情に、わたしの良心が痛む。別に仲村さんに対してなにか、負い目がある訳ではない。でも不思議と彼女の前では、嘘のつけない子供みたいになってしまう。なんでも内心をさらけだしてしまいたくなる。こういうところが、一人っ子の弱点だろうか。普段はそんなことないのに、ひとりっきりでも全然生きていけるのに、誰か気心の知れた、特別なひとの前では、ちいさな女の子に戻ってしまう。甘えたがりだ。寄りかかってしまったりして。自分が恥ずかしい。
「どうだったの。今日の就職活動」
 わたしはあたりにお客さんがいないのを確認して、ここしばらくの自分の煩悶と今日の体たらくとを、彼女に打ち明ける。そして、先ほどの仲村さんの台詞になる。
 くるりとカールさせた前髪の奥から、思慮ぶかい瞳で仲村さんはわたしの顔を見つめる。軽く、ほのかなお化粧の香りがわたしの鼻先をくすぐる。「じゃあ、ウチに面接にくればいいじゃない。店長にもそう云っとくし。茉希ちゃんなら仕事も慣れてるし、うってつけだよ」
「あの、でも、ここって正社員、募集してましたっけ。あんまりそういう掲示、店で見ないような・・・」
「そりゃあ、店頭にはそんなの貼らないわよ。でも各大学の就職課とか職安には募集、かけてるの。なんでも本部の方で来年、定年退職が結構出るらしくてね。あと歴史書コーナーの規模をもっと広げたいとか、骨董を売りたいとか、これを機に各店舗の改装を考えてるみたい。ほら、今って景気いいでしょ。それに乗っかりたいみたいよ。わたしから見たら、おじさんっぽい感覚だけど」
「・・・へぇ、そうなんですね」
「店長には人事担当にうまく根回ししとくよう、わたしから云っとくから。約束は出来ないけど、このお店に配属されるようにヤツのお尻、叩いとくわ」
 ぱちりとウィンクする。美人がいたずらっぽい表情をすると、そのギャップにどきりとさせられる。
 ヤツ、と云うのは店長のことだ。少し太り気味の、下がった眉をした、いつも困り顔で笑っているような表情をしている。性格も見た目通りに鷹揚として、のんびりと、とぼけたところの多い人だから、いつでも仲村さんの尻に敷かれている。しかしこの正反対のような二人のバランスが、現実にはうまく作用して、店は回っている。都内に展開する店舗の中では、仲村さんが副店長になってから、一度も売り上げトップの座を明け渡さないらしい。店長と仲村さんはそれとなく、互いにないものを補完して、ざっくばらんな物言いのなかにも、相手の良さを引き立たせようとする工夫があって、それがわたしにはここち良い。面倒くさがりのわたしが、一年半もバイトを続けていられるのも、そんな環境に因るところが大だ。
 しかし、ここを就職先にしようなんて、今の今までみじんも思わなかった。仲村さんの提案に、思わずひるまずにはいられない。
「あの・・・少し考えてもいいですか」
 わたしはおずおずと云う。無意識に手が動いて、両手を洗うようなかたちにもじもじとする。
「お話はありがたいんですけど、そういうことあまり考えたことなくって。・・・あの、もちろん、嫌だとか、そんなんじゃなくて、えーと、なんて云ったら良いか」
「分かった、分かった」
 仲村さんがわたしの頭を軽くやさしく、ぽん、と叩く。すっきりとした、切れ長の目がやわらかくほほ笑んだ。
「別に今返事してとか、どうこうじゃないから。ゆっくり考えてから、また云ってきて。あ、でも店長じゃダメだよ、あの人、そんな話聞いたらもう決まり、みたいな気持ちになって、勝手に先走っちゃうから。分かるでしょ」
 わたしはなんでも早合点の傾向のある店長の性質を思い出し、勝手にその時の姿を想像しておかしくなる。
「確かに・・・そうかも」
 ふふ、と目を合わせ、女二人で笑いあう。店長には悪いけれど、こういう時に男の人って役に立つ。
「じゃあ、店長には内緒で」とわたしは自分の唇に人差し指をあて、内緒の合図をする。
「わたしたちの秘密ね」と、仲村さんも同じ仕草をして、すらりと細く長い指を唇にあてがう。
「この店、みんな、汐崎さんの味方だから。特に・・・わたしはね」
 もう一度ぽんぽんとわたしの頭をなぜるようにして叩き、それからさっと表情を変え、レジ前にやって来たお客さんと向かい合い、接客をはじめる。
 仲村さん、好きだなぁとわたしはおもう。わたしもいつかこういう大人の女のひとになれるだろうか。なれたらいいな。今はまだ全然だけど。
 本の並べ替えをしていた他の店員さんにも、目だけ合わせてあいさつをして、わたしは外に出る。七月の夕方はまだ明るい。ラムネの瓶みたいなくすんだ青色をした空が、建物の間に見え隠れした。生ぬるい空気がのどに張りつき、吸っても吸っても息苦しい。食べ物屋さんの匂いと車の排気臭がぐちゃぐちゃに混ざって、わたしに押し寄せる。夏だな、とわたしはおもう。首筋に汗がにじみだす。一歩ずつ夏の膜を破るようにして、わたしは人ごみの中にまぎれ込む。

 鈴野さんと最初に会ったときにはびっくりした。彼女には失礼だけど、あれ、とおもい、しばらく目が離せなくなった。わたしの視線に気づいた彼女は、特にけげんな顔をするでもなく、あっけらかんとしてわたしに微笑んだ。
「ん?どしたん」
 彼女は机の上の資料と筆記具を手際よくバッグにしまっていた手を止めて、少し前かがみな姿勢のままわたしに云った。
「なんかあったん?」
 わざとな訳がないから、きっとうっかりしているのだろう、スキッパーのブラウスのボタンが二つも外され、前かがみだから余計に胸の奥が覗けた。わたしはおもわず、ぱっと目をそむける。
「ううん、別に。なんでもない」
「ふうん、あっそう」
 しかし、わたしの目を奪ったのは彼女の胸の白い肉ではない。
「ね、確かあんた。汐崎さんって云うんでしょ」
「・・・うん」
 わたしは曖昧に返事をし、自分のシャツのボタンに手をやり、何度も留める仕草をして、彼女の開きすぎの胸元を気づかせようとする。あ、と思わず出た声とともに彼女は、自分のブラウスを見下ろして、ボタンをひとつ留める。あぶない、あぶない、と軽い口調で、そんなに困った風でもなくわたしに笑いかける。
「ねぇ、結構見えちゃってた」
「そう・・・かな・・・。どうだろ。そんなでもないかな、いや、ちょっと見えちゃってたかな・・・」
「いやぁ、ヤバない、入社試験の面接でボタン開けたままなんて、これやっちゃったな」
 どうりで面接のおじさん、あたしのここ、ジロジロ見てくるとおもったわ、とブラウスの胸元をぱたぱたさせて、無邪気に笑う。
「ま、別にいいんやけど。どうしてもここの会社じゃなきゃダメってわけでもないしな。それに」と、わたしの前に立ちふさがるようにして、面と向かう。
「ね、汐崎さん。あんたも同じでしょ。あんたも別にどうでもいいやって、おもってない?就職活動なんてしたないなぁって空気、結構出てたで」
 わたしより少し背の高い彼女を見上げ、今度はまじまじと凝視してまた驚く。
 これって、あのひとだ。
 わたしのバイト先の副店長、仲村さんに、彼女はうりふたつだった。
 十年前の仲村さんならきっとこんな風だろう。細おもてな顔と、切れ長な目と、彫刻刀で彫ったような鋭く高い鼻のかたちや、線の細い身体のライン。頭のかたちが似ているからそうなるのだろうか、髪型まで良く似ている。前髪は残したまま、後ろでひとつにまとめ、くるっとひねって大きいバレッタで止めている。カーラーを使った前髪の極端なカーブまで、まるで本人そのものだ。どうしてこんな子が出来上がってしまったんだろう。タイムマシンで仲村さんが過去からやって来たようだ。わたしと同年代の頃の仲村さんがこうして目の前に再現されると、ある種、感動的ですらある。例えは悪いけれど、絶滅した古代生物を目の当たりにしたような、あり得ない奇跡を見させられている気になった。
 しかし仲村さんと違うところは、この子はちょっと、・・・いやかなり、自由奔放で大胆なタイプらしい。わたしは少し気圧されながら、彼女の立派に張り出した胸部に目をやらずにはいられない。
 前の就職試験から二週間ほどたっていた。その外資系ホテルからは当然というべきか、採用見送りの連絡が届いていた。予想できたとは云え、それでも落第と云うのは気持ちの良いものではない。仲村さんから書店への採用紹介をしてもらってはいたけれど、新たな会社への応募書類はとっくに送っていたから、気が重いながらも、面接のため品川の湾岸エリアまでやってきた。はじめて名前を聞く会社だ。調べると大手食品会社の系列企業らしい。雑居ビルのワンフロアをオフィスにした、三十人ほどの規模の会社だ。そこではわたし以外に五人ほどの女子学生が集まっていた。仲村さんに似た彼女、鈴野さんもその中の一人だった。一通りの試験が済み、あとは解散という段になって、控室に最後まで残っていたわたしは、そこで初めて彼女の顔を見て、驚かされた。
 しかし、そんなにはっきりと態度に出ていただろうか。そこまで露骨に就職試験を軽んじてはいなかったはずだけど。
「あー、でもそういうのって自分じゃ分からないもんちゃう?本当の気持ちなほど隠せないし、素直におもてに出てくるもんとおもうよ」
「まぁ、・・・そうなのかな。そうなのかも知れないけど」
「でも、安心してよ。茉希ちゃんだけじゃないし、あたしも一緒だから。きっとふたりして不合格、決定やから」
 早くも下の名前呼びして、にこりと、わたしの背中をぽん、と叩く。なんで慰められているようになっているのか、今いちよく分からない。
 会社から出て、ふたり並んで品川の駅まで歩いてゆく。このあたりは今急ピッチで進められている開発区域で、今はやりの、いわゆる湾岸地区の最たる場所だ。ちょっと前まで倉庫ばかりが立ち並んでいる町だったのが、商業ビルが建ち、モノレールに沿うようにして開発がどんどん進められている。ここもあと数年後、九十年代に入ったら、それまでとはかけ離れた近未来的な街になるんだろう。東京ってどん欲だ。発展していくのに終わりがない。
「それにしても東京って、めっちゃ暑ない。あたしの地元もたいがいやけど、ここまでじゃないわ。なんていうの、こう、ぶわっと熱気が壁になってこっちにくる」
「うーん、夏はどこでもこんなもんじゃないかな。でも、その感じはわかる。車とか店が多いからかな。排気ガスとか室外機とか、色んな暑さが固まって、束になってやって来るんだよね」
「いやあ、東京のこの暑さはちょっと違うわ、あたし、もうちょっと我慢できん」と云って、黒のスーツの上着をぱっと脱ぐ。太陽のひかりの下、さらされたシャツの白色が、わたしの目を鋭く射る。
「あ、しまったぁ、シャツの下にキャミ着とくんだったわ」
「えー、ちょっと大丈夫、下、透けたりしない」
「いや、するでしょ、めっちゃしそう」
 自分のシャツを前後左右と、きょろきょろ見下ろす。胸元をつまんで引っ張り、中をのぞきこみながら、
「ま、ええわぁ。今日はサービス・デーにしとく」
 確かに後ろから見ると、下着の色がぼんやりと浮かんで見える。参ったなぁ、とわたしはおもう。性格や性質はかけ離れているのに、仲村さんの顔でこういうことをやられると、心臓がどきどきしてくる。本当の仲村さんは若い時でもこんなことはしなかったはずだ。本当ならありえない、別人格の仲村さんが目の前にいるようで、ちょっと背徳感に襲われ、悶々としてくる。
「茉希ちゃん、あんまり見んといて」
 くるりと振り返り、謎のような笑みを浮かべる。
「あんた、意外とむっつりやんな」
 そして、はははっ、と上を向いてあっけらかんと笑う。わたしはたちまち赤面してくるのが分かった。ただでさえ暑いのに、身体の中はもっと熱くなった。
 駅までの道中、鈴野さんはほぼひとりでしゃべり続けた。初対面のわたしたちだが、そんなことお構いなしだ。彼女は自分のことや、最近起こった身の回りのことなど息も継がず語って聞かせた。一つの話が別の話に派生し、そこからさらに別の物語が生まれ、どこまでもとめどなく、話は進んだ。ダムの決壊のようだ。あるいはマシンガンの連続射撃のようだ。こういう子はなかなか友だちにいなかったから、少し呆れ、一方で大いに感心した。わたしは彼女に似合うような、気の利いた返答も出来ず、なんとなく曖昧にうなづいて、じっと聞き役にまわるだけだ。なんとなく、顔を直視できない。見たらきっと身体が固まってしまう。また笑われたらどうしよう、とかおもう。
「じゃあ、決定な、茉希ちゃん」
「・・・え?なんだっけ」
「なんだっけじゃ、ないよ。今から海行くよ、海。江ノ電、乗りにいこ」
 あれ、いつのまにそんな話になったのだろう。全然覚えてない。
「お互い二十一歳の夏は一度っきりやん。おもいで、作っていかな」
 わたしを見て、無邪気に笑う。くるっと振り向いて、後も見ず、もう向こうへ踊るように歩いて行ってしまう。わたしははっとして、おもわず呼吸がとまった。品川駅はお昼どきの混雑で、構内は外とは違う空気によどんで、むっとしていたが、鈴野さんのまわりにだけ、その瞬間には涼しい風が吹いた。あたらしい夏のひかりが彼女から発せられた。わたしとはちがうひとだ。わたしには持っていないものを持っている。特に気どらず、自然のままなのに、しかしそれが彼女を内部から輝かせた。
 わたしは頭をぶるっと振り、我に返ると、今日のこれからのスケジュールをおもい出す。いや、おもうまでもなく、なんの予定もない。学校もない、バイトもない。男の子との約束だってない。海かぁ、海だって。なんか青春みたいだ。ちょっとわたしには似合わないイベントだけれど。
 東京駅まで出て、東海道線に乗り換える。あとは藤沢までは黙っていても到着する。藤沢から江ノ電に乗ると云うのが、鈴野さんなりのこだわりのようだ。電車内は冷房が効いて、一気に汗が引いてゆく。お昼前後のこの時間帯に、乗客はまばらだ。年齢層は高く、ぱっと見て、わたしたちが一番年少に見える。折角海まで行く旅なのに、リクルートスーツなのがいたたまれない。
「なぁ、なんかあたしら、学校さぼってどこかに遊びに行こうとしてる感じ、しない」
「うん、今あたしもそうおもってた。このスーツのせいかなぁ。これ、制服とどこか似てるから」
「ほんまやな、制服だわ、確かにこれ」と鈴野さんは脱いだまま、ずっと手に持っていた夏用のジャケットをぱたぱた、と膝の上で上下させる。
「全然、あたしには似あわん。制服って嫌いやったわぁ。なんていうの、学校にとらわれてる奴隷みたいにおもってな。セーラー服で、長いスカートとかずるずる引きずったりしてなぁ。最近はでも、そんなんちゃうんやろ。高校生とか、わざと制服着たりするんが流行りなんやろ」
「そうなの。知らないけど」
「いや、そうらしい。女子高生とか云ってな、日曜日とかにもわざと制服着て街中歩いたりすんねんて。つまりな、そういう需要があるみたい」
「そういう需要って、なに」
 わたしは首をかしげる。
「女の子に対する需要って云ったら、ひとつしかないやん。なんて云ったかな、・・・あの、そうロリコン。ロリータコンプレックスとか云うらしい。若い女の子を極端に好きな男連中がおんねんて。そういうの相手にすると、モテるらしいよ。わざわざ制服着たりして、気ぃ引いたりするんやて」
 ロリータ、という小説があるのはもちろん知っている。いや、読んだことだってある。ナボコフと云うロシアの作家の小説だ。少女への性愛を題材にしたもので、背徳的ではあるが、それが今のこの八十年代後半の日本の風潮とどう絡んでくるのか、よく分からない。
「ちょっと前に、女子大生って、流行ったやん。深夜テレビとかにたくさん出て、可愛い洋服着て、笑ったり喋ったりしてたやん」
「そう・・・だっけ、そうなのかな」
 わたしには今の時代のトレンディなものって実はよく分かっていない。「そうそう、多分その続きで次の流行りが女子高生ってことなんやないかな。よく知らんけど。でもそんな子供みたいなのを好きな大人の男っていうのも、かなり気持ち悪いな。制服とか未成年とかわざわざそんなん好きになるって、やっぱどっかイカレてるわ。精神病理的に考えたら、なんかしらあるのかもしれないけど、例えば満たされないこころの欲求願望を幼い女の子に転化して、自己実現を図ってるとか」
 なんか難しい話になってきた。われわれのリクルートスーツの件はそうしてどんどん忘れられ、鈴野さんはまた一人であてもない話を続ける。
 幾つか川を越え、電車は都心から離れてゆく。横浜を過ぎたあたりから郊外感がぐっと増し、緑に濃く染まった低い山々があちこちに見られるようになる。空の色が真っ青だ。どこまでも突き抜けて、あんな遠いところにまで夏がある。ふいに子供時代の夏休みのきもちが戻ってきた。意味もなくわくわくする感じ。特に素晴らしい予定がある訳でもないのに、これからのお休みに期待したりする。電車の音、窓を流れる景色、隣に知り合ったばかりの女の子がいて、わたしは今のわたしじゃない気持ちにさせられる。すうーっとこころが透きとおり、わたしの存在が希薄になる。ここにいるのに、ここにいないわたしが、この瞬間のわたしを懐かしんでいる。たった今のこの時間が、夏休みというフィルターを通過して、時間の流れを無視して、思い出になろうとしている。あるいはとっくの昔に無くした過去が、今という現在を上書きして、この時間を侵食しているみたいだ。わたしはどちらにもいて、どちらにもいない。鉄の轍、白いプラットホーム、窓の外は今年の夏。
「なあ、茉希ちゃんって少し変わってるよな」と鈴野さんは云う。
 藤沢から江ノ電に乗り、観光客めいた気持ちで海まで来た。波打ち際に近い防波堤にのぼると、目の前の景色に気がせいせいした。仁王立ちのようにして立つ鈴野さんに潮風が強く吹き、白いブラウスを身体にぴったりと貼りつける。
「え、あたし。変わってないでしょ。普通だよ、フツー」
 鈴野さんの隣にしゃがみこみ、彼女を見上げながら、わたしは云う。
「いや、変わってる」
 きっぱり断言された。
「変わりもんじゃなきゃ、今日出会ったはじめての人間と、わざわざ電車に乗って海まで来ないって」
 わたしはしゃがんだまま考える。はじめて云われたことではないけれど、こんなときの答えはいつも同じだ。
「うーん、いや、やっぱり普通だよ。あたしは普通に、自分のおもうようにしてるだけだから」
「そこよ。そこが茉希ちゃんらしいとこやねんな。自分に無自覚なところ。ほら、酔っぱらいだって自分のこと、酔っぱらってるとは云わんやろ」
「酔っぱらい?」とわたしは云う。風がさらに強く吹き、ますます鈴野さんの胸の輪郭があらわになる。
 彼女はわたしを見下ろし、少し慌てた感じで、舌をぺろっとだす。
「いや、ごめん、それ言葉の綾や。酔っぱらいってあたしのお父んのことやった。ロクでもない酔っぱらいやねん。べろんべろんに酔っぱらってるのに、いつも俺は酔っぱらってへんぞって、うちのこと怒るねん。それ、思いだしてた」
 わたしはじっと彼女を見つめる。すらりとした身体つきをしている。シャツの白と、タイトスカートの黒が余計にそのスタイルを引き締めて見せる。後ろで結んだ髪の毛先だけが、ひらひらと潮風をうけて揺れている。わたしは少しずつ、彼女を見る目がそれまでとは変わりつつあった。
「ねえ、鈴野さん。鈴野さんって関西出身だよね。でも東京で就職活動するんだ。なんか実家に戻りたくないように見える。話聞いてると、家とちょっと距離があるって云うか。なんか理由、あるの」
 鈴野さんはちょっと驚いたようにわたしをじっと見る。今はじめて、わたしという存在を発見したように、改めてこちらを見つめた。
「あはは、茉希ちゃん、やっぱりあんた、ちょっと違うわ。なかなか鋭いとこ、突いてくるな。実はな、そこがあたしの難しいところやねん」と云って、わたしの肩のあたりを指でつん、とつついてくる。それから急に声のトーンを変えて、
「ほら、茉希ちゃん、見てみ。なんと海の家、開業してんで」と、明るく無邪気に叫ぶ。
「あたし、かき氷とか食べたい。あと焼きそばとか焼きもろこしな」
 鈴野さんが子供っぽい足取りで防波堤から浜辺へ下りてゆく。浜辺は夏休みの海水浴客でにぎわい、今日は晴れているからさらに色とりどりのパラソルの花が開いた。水着や水辺での軽装ばかりの中、リクルートスーツのわたしたちはかなり場違いだ。砂浜の入り口で意気地なく立ち止まるわたしに、鈴野さんは笑って手を差し出してくる。ぎゅっと手をつかみ、無茶なちからで、わたしを引っ張ってゆく。
「好きなものなんでも食べてええよ」
「本当。やった」
「ただし、あんたのおごりな」
「えー」
 不安定な足元の砂浜にパンプスの足がとられ、おもわず転びそうになる。鈴野さんが素早く振り向いてわたしを抱きとめる。彼女の首のあたりに柑橘系の香りが爽やかに弾け、思わずその香りに陶然となる。が、それに気づかれぬよう、わたしは何事もないように目を伏せたまま、「ありがとう」と小さく云った。
 イチゴとレモンのかき氷をそれぞれ注文し、二人で焼きそばを分けあって食べた。波と少したわむれ、ガラス石を拾ったりしているうち、やがて午後もゆっくり深まった。二人並んで歩く浜辺に、長い夕なぎのときがきた。少しずつ空気の色が薄くなってゆく。海の奥行きが増してゆき、波のひだがあんな遠くの方まで見渡せた。海水浴客は帰り支度をすまし、パラソルは閉じられ、夏の一日がようやく終わろうとしていた。そんな矢先、
「茉希ちゃん、ちょっとヤバいかもしれん」
 鈴野さんはしゃがんで、ショルダーバッグの中を探りながら真剣な声で云う。
「なに。どうしたの」
 わたしは彼女と、彼女の黒のショルダーバッグを上から見下ろす。
「鍵がない」
「え」
「アパートの鍵が見つからん」
「本当」
「ほら、どこにも見当たらん」と、わたしにバッグの中を開いて、見せつけてくる。中にはハンカチや筆記具、お化粧道具などが雑然と放り込まれている。
「ね?ないでしょ」
「うーん、まぁ、その中にはないようだけど」
「でしょ?きっと、どっかで落としたんちゃうかな」
「でも、いったいどこで落としたの。最後はいつ、その鍵、見たの」
「えー、最後って云ったら、・・・朝に玄関の鍵かけたときかな。それから鍵、一度も使ってへんし」
「・・・あの、そりゃ、そうだとおもうよ。しかし、一日の一番最初に見たきりって云うと、どこでなくしたか、なかなか難しいね」
「いや、きっとここら辺で落としたような気がする。何回かバッグ開けたやん。お手洗いの時とか、氷買った時とか。バッグ開けて、ハンカチやお財布、出したから。えーどないしよ」
 鈴野さんは眉を下げ、少しだけ困った表情になる。何度もバッグの中を探ったり、あたりをきょろきょろ見渡したりする。
「鈴野さん、深呼吸、深呼吸。大丈夫、あたしも探してあげるから」
 わたしは云いながら、彼女の背に手を回し、一緒に深呼吸をくりかえす「とにかく寄ったところ、探してみよう」
 わたしたちは刻一刻と夕方が深まってゆくなか、防波堤のきわ、海の家のまわり、公衆トイレの近辺など、今まで立ち寄った場所をおさらいするようにさがしたが、いっこうに見つからない。ただでさえ砂浜で、ものを落とせばすぐまぎれてしまうような環境だ。観光客も多い。いたずらごころで、拾って持っていってしまうひとがいたとしてもおかしくない。おおげさだけれど、無限にある砂粒のなかから、たったひとつを選んで拾い上げるような作業だ。
「茉希ちゃん、ごめんなぁ」
 鈴野さんがちょっと弱気な声で云う。
「もう夜になってしまいそう。今日はあきらめよ。ありがとなぁ」
「ううん、全然いいけど。でもなかなか見つからないね。鈴野さん、今日はどうするの。鍵無かったら、部屋に入れないんじゃ」
「それな。けど、管理会社に訳云えば、たぶん、マスターキーからコピーしてくれるんちゃうかな。あるいは最悪、ドアノブごと交換とか」
「うーん、たぶんそうなっちゃうのかな。お金かかっちゃうね」
「お金で済むんなら、それでいいよ。でもそれも、今日は無理やんな。なんだかんだ五時過ぎてしまった」
 鈴野さんが腕時計を見て、それから空を見上げる。夏だからまだ日はあるけれど、夜が近づいてきているのに間違いはない。時間にせかされ、気持ちばかりあせったこんな状況で捜索を続けるのは、いたずらに身も心も消耗するだけだ。わたしはしおらしくなってしまった鈴野さんの顔をじっと見つめ、意を決して云った。
「鈴野さん、今晩、どっか泊まろっか」
「へ」
「また出直して戻ってくるのも、面倒でしょ。だったら今日はこのあたりで泊ってさ、明日あさイチで探してみよう」
「いや、茉希ちゃん、どしたん。あたしのことやん。茉希ちゃんまで巻き込んだら、申し訳ない」
「そんなこと云ったら、もうとっくに巻き込まれてるよ。鎌倉まで連れてこられちゃったんだし。それに・・・あたしが見つけられなかった、責任もあるし」
「そんなん、茉希ちゃんに責任なんてないよ。これって全然あたしのせいで」
「いや」と、わたしはムキになって、彼女のことばをさえぎった。
「あたしが見つけてあげる。今日は駄目だったけど、明日はどうにかしてあげる。ね、それでいいでしょ」
 鈴野さんはまくしたてるわたしにあっけにとられ、少し目をぱちくりして黙っていたのから、急にぷっと吹きだして笑いだす。
「本当、あんた、変わりもんやなぁ。やっぱりあたしの目に狂いはなかった。じゃどっか泊ろか。女ふたり、枕並べて、臨海学校の続きやな」と、いたずらそうな目をして、ほほ笑んだ。
 平日だし、有名な土地柄だから、空いてるホテルなんてどこにでもあるだろうとおもっていたら、そんなことはなかった。やっぱり夏休みだ。人気観光地だ。泊りに来るひとなんてきっと山ほどいるんだろう。目につくホテルや宿屋に飛びこんでも、空き室はどこにも見つからなかった。かと云って、高級ホテルや旅館に泊まれるほど、経済状態が豊かなわけじゃない。分相応ってものがある。鎌倉駅の観光案内所で宿の紹介をお願いしたけれど、そこでもすぐさま解決と云うわけにはいかなかった。窓口のお姉さんは何本も電話をかけ、問い合わせてくれたものの、結果ははかばかしくはなかった。そのうちすっかり外は暗くなり、海辺の町は夜にすっぽり包まれた。孤独感がいや増して、鈴野さんがいなければ、きっとわたしは涙目になっていたんじゃないかとおもう。
「なかなかうまくいかないな」と鈴野さんは、もういっそ開き直ったようなあっけらかんとした口調で、耳元にささやいてきた。
「きっと町中のお宿、ぜんぶ貸切られたんとちがう?」
「もう、それならそれでいいよ。そしたら浜辺で寝る」
「ほんまか」
「鈴野さんと砂のなかに潜って、顔だけ出して寝るから」
「あはは、いいなぁ、砂風呂みたいでおもしろそう」
 結局、連絡してくれた宿はみんな満室ということで、さすがに窓口のひとも気の毒そうな顔になっていた。丸顔に、あごのラインで毛先をそろえた、ふんわりとしたボブが特徴の人のよさそうなお姉さんだ。左側だけ髪を耳にかけ、金色の細い鎖のイヤリングをのぞかせている。
「これ、あまり良くないんだけど」とお姉さんは窓口から身を乗り出し、こっそりと云う感じでわたしたちに話しかける。
「わたしの姉夫婦がやっている民宿が長谷にあるんだけど、そこならきっと空いてるとおもう。本当は親族の施設を紹介しちゃ不公平になるから遠慮してって上からは云われてるんだけど・・・今回は仕方ないよね。合宿の学生さんとか中心にとっている宿だから、ちょっとにぎやかかもしれないけど、そこなら紹介できるとおもう」
 彼女の云う通り、民宿にはちょうど空きがあり、運動部の団体が入っていてもよければ、と云うことで、お世話になることになった。バスと徒歩と、三十分ほどでその民宿にたどり着いた。高台の崖の際にあり、いかにも団体客が客層の中心らしい、飾り気のない、朴訥とした雰囲気の建物だった。通された部屋は六畳の和室で、洗面台などの付帯設備はなにもなく、薄い木製の扉を開けると、四角い空間だけがぽんとあらわれた。部屋まで案内してくれた女性(このひとが姉なのかもしれない)が云うには、部屋の窓からは遠くに海が見えることもある、とのことだ。まわりくどい云い方だけれど、周囲に生えた樹木の、その茂り具合によって、景色が異なるらしく、ということは盛夏の今くらいは、一番景色が見えづらいのかもしれない。なんにしても今は夜で、真っ暗で、海がどちらの方向かも分からない。窓を開けて耳をすませても、波の音なんかどこからも聞こえてこない。ただ、合宿の団体客らしい、女の子のはしゃいだ声が近在でこだまするだけだ。
「団体さんな、埼玉の女子高のバドミントン部なんだって」
 夜の黒に塗られた窓ガラスに手をかけ、わたしに振り向いて鈴野さんが云う。わたしは少しおどろいて、
「え、いつの間にそんな情報仕入れたの」と首をかしげる。
「ははは、あたし、そういうのは得意なんだ。てか、さっきお手洗いさがすつもりで、てこてこ歩いてたら、なぜか大浴場にたどり着いてな。知らんふりして仲間の顔して、脱衣所に忍びこんでん。そこでちょっと高校生と話してな、そしたらそうなんやて」
「鈴野さん、それはなんか軽犯罪のにおいがするなぁ。のぞき行為で下手したら補導もんじゃない」
「いやいや、女同士やん、ついてるもん一緒やん、向こうだってさばさばして、堂々と歩いてたで」
「鈴野さんはでも、仲間じゃないでしょ。もうやめてよ」
「ははは、茉希ちゃんは気にしぃやな。でな、その高校、めっちゃ強いんだって。インハイ優勝とか狙える部活らしい。汗と努力と友情って、ちょっと青春っぽくてな、なんかおばさん涙出てきたわ」
「おばさんって、・・・そんな年変わらないでしょ。そんなこと云ったら、あたしまでおばさんみたいじゃん。まだ二十一なんですけど?」
「茉希ちゃんも女子高生んとこ、行ってみ。もう若さがちがう、愕然としちゃうから。もううちら、あんな風には戻られへんって実感したわぁ」
 そうかなぁ、とわたしは窓に向かう彼女の横顔を見ながらおもう。鼻のかたちもあごのラインも、きりっとして綺麗だ。今はTシャツを着て(これら着替えは駅前の百貨店であらかじめ仕入れてきた)、首筋があらわになり、その女の子らしい細い線に見とれてしまう。高校生とはもう違うのかもしれないけれど、それとは別の、ちがう美しさがあるのに、と声には出さずおもった。
 今日の団体客はその埼玉の女子高校だけらしかった。部屋にいても聞こえてくる嬌声は女子のもので、どうやら男子はいないらしい。飛び込み客の分際でえり好みをするのもなんだけれど、もし男子がいたとしたらもう少し緊張したとおもう。なんとなくほっとする。
 長い一日のおわりだ。布団を押入れから自分で引きずり出し、北枕にしないように試行錯誤しながら、鈴野さんと並んで横になる。寝転がると、気づかぬうちにずい分疲れていたことを知る。少し伸びをしたはずが、どんどん長くなり、しまいには、うーっと云う声まで出て、身体の節々を伸ばせる限界まで伸ばした。鈴野さんは笑って、猫の伸びみたいやな、と云った。身体を伸ばすのがこんなに快楽とは知らなかった。布団の上に大の字になり、天井を見あげる。少し目がまわるようなふわふわとしたかんじがする。天井の木目が渦巻いて、景色が勝手に回転しているような感覚がある。アルコールを飲みすぎたときのようだ。視点を一ヵ所に固定できない。気づくと朦朧として、目は開いているのになにも見ていない曖昧なかんじになる。
 いったい何時くらいになったのだろう。ある時点からぱったりと女子高生たちの声が途絶えた。消灯の時間になったのかもしれない。インハイに出るくらいの強豪校だから、そういう点はしっかりしていそうだ。静けさに気づくと、急速に夜が深まった気がする。
「なんやかんや、今日は色々あったなぁ」と鈴野さんがわたしの隣で、やはり天井を見あげながら云う。「会社の面接してたんなんて、もうずい分昔のことみたい」
「本当だね。というか、そんなことすっかり忘れてた」
「えー、豪胆やなぁ、茉希ちゃんは。・・・それで自分、どうするん」
「どうするって、なにが」
「ひゃあ、えらい軽いなぁ。つまり、あんたの未来のこと。これから卒業してどうするん?ってこと」
「えーと、まぁ、まずは就職かな・・・。どこかにはすべりこまないとね。アルバイターってわけにもいかないだろうし」
「それにしては、もう今日の会社の面接のことも忘れてるくらいやし、少しあんたつかみどころないわぁ。本気で就職する気ぃ、ある?」
「本当の本当で云えば、好きな勉強だけしていたい。就職なんてしたくない。でもそれじゃ、お金にならないし暮らせない。じゃあやっぱり働かざるをえないでしょ」
「なら、その好きな勉強に精だしたらええんちゃうん。茉希ちゃんの専攻、なんなのか知らんけど、例えば院にいくとかな。研究室に入ったり」
 そんなことは分かっている。今さら鈴野さんに云われなくても、もう何百回も考えた。しかしわたしは好きな勉強を仕事にはしたくないし、能力的にも出来ないと分かってしまった。あの子の顔が思い浮かぶ。あの子はたぶん、こういうことには躊躇しない。好きなことを単純に突き詰めて、それで未来の職につながることを疑問にもおもわない。そしてきっとそれは実現されるだろう。菜原くんの前にいると、わたしはちっぽけだ。しかし彼に非はもちろんない。彼がいなかったとしても、いつかわたしは自分の限界に気づかされたとおもう。それならば、菜原くんがいてくれてよかった。彼がわたしの甘っちょろい研究者意識を粉々にしてくれて、それでよかったとおもう。他の誰か見知らぬひとでなく。
 わたしの沈黙をなんとおもったか、鈴野さんは声の表情を変え、「ねえねえ、あのな」と明るく云う。身体をごろんと横にして、こちらに向き直る気配がある。
「なあ、茉希ちゃん。茉希ちゃんって好きな男子とかおるん」
 一瞬、どきっ、とした。そして、この子もかぁ、とおもう。こういうのってすごい女子的だ。おなじ部屋にふたりで寝て、非日常の空気のなか恋について語ったりするなんて、いかにも女子たちがやりそうなことだ。わたしは鈴野さんもやっぱりそうなんだ、とおもう。彼女はそういう話はしないとおもっていた。ほんの今日、出会ったばかりのひとだけれど、このひとはありきたりじゃないとおもい、わたしは勝手にそれに期待していた。少なくともわたしにはその手の話題はふってこないと、理由もなく決めつけていた。わたしのこころに夜のブルーが少し混じりこんだ。
「あのな、うちはな、好きなひと、いるんだ」
 特にわたしの返答を期待したわけではなさそうだ。それはそれでちょっと拍子抜けする。
 電気消すね、と云って鈴野さんは、そそくさと和風の吊り下げ照明のひもを引っ張り、黄色いナツメ球の灯りだけにする。
「そのひとって、実は・・・あたしの父親」
「ふうん・・・って、え?」
「ははは、びっくりした?」
 自嘲的に笑い、しかしずいぶん衝撃的なことを簡単に云ってくる。えらい軽い、なんてわたしには云うくせに、自分だってずいぶん大変なことを気軽に告白して、ちょっとよく分からない。
「あたし、自分の父親のことが好きになってしまった」
 どっちの方向にはなしが進むのか不透明で、わたしはなにも云えない。自分のことのように、急に胸がどきどきしてきた。父親って、なんだっけ。父親ってお父さんことだっただろうか。好きになるって、お父さんを?
「と云ってもな、あたしとは血のつながってないひとだから。昼間に云った、酔っぱらいのお父んとは違う、なんて云うん、継父って云うやつ。ままちち、やな」
 鈴野さんはまたあお向けになり、右手を開いて天井に向けてまっすぐ伸ばす。細いきれいなかたちの腕が、黄色い灯りの中にシルエットになり、不思議な植物のように直立した。 
「あたしの家な、十年前、家庭内暴力で本当のお父んと離婚してん。それから五年経って、母親、新しいお父んと再婚したんやけど、母親って云ってもまだ三十九歳やねんで。十八のとき、あたしを産んだから、まだそんな年。うちが云うのもなんやけど、見た目悪ないから、モテるほうではあったらしい。で、水商売の接客で知り合った今の継父と出会って、再婚したんだけど」
 鈴野さんはため息をひとつ、つく。伸ばした右手が突然ちからを失い、音を立てて布団の上に倒された
「そのひとのことをあたしは好きになってしまった。お母んの新しい旦那な。でも・・・お父んやで。遺伝子は別だけど、戸籍上は父親やん。今の日本じゃそんな関係認められてない。まさに禁断の恋や」
「でも、それっていつから気づいてたの。その・・・継父のひとのこと、好きだって云うのは」
「大学に入ってからかな。こっちで一人暮らしはじめて、しばらくしてから継父さんがうちのアパートひとりで訪ねて来て、その時やな。そのとき、あたし分かってしまってん。そういう空気ってあるやん。なんかちょっと・・・男女の妙な空気。継父さん、そういう雰囲気かもしだしてきてな。なんかそこで、あたしもはっとしたと云うか。実家暮らしで二年間一緒にいたときから、もしかしたら自分の中にはあったのかも知らんけど、あ、うちひょっとしてこのおっちゃんのこと、好きなんかもって、そのアパートでようやく気がついた」
 聞くと、彼女の継父はイギリスやアメリカからの輸入品を扱う、友人数人と立ち上げた会社の経営者で、語学が堪能なところを生かし、日本ではまだ輸入されていない現地のお菓子や雑貨を仲介する仕事でまずまずの収益をだしていた。鈴野さんの母親とは、彼女の働く三宮のバーで知り合った。経営者のママに次いだ二番手、いわゆるちいママと云う立場で、店の切り盛りを実際にまかされるほど機転が利き、如才なく、よく働いた。町中のスナックと少し違うのは、女性がホールのソファに座って接待するのではなく、馬蹄型に据えられたバーカウンターの内側で、バーテンダー兼ホステスさんの役割をスタイリッシュなかたちで受け持っていた。客層もどちらかといえば若く、知識層や起業に成功した人々が多く、他にはちょっとない雰囲気の、昔ながらと今風なものの折衷的な意匠の店は、なかなかの繁盛を見せていた。  
 継父に見染められた母親は、間もなく彼に求婚され、結婚することになる。彼の年齢は母親よりもさらに三つ下で、学生の頃は、ラグビーの選手として鳴らしたこともあり、筋肉質の、スーツの上からもそれと分かる、肉厚でがっしりとした身体つきをしていた。新しい家族を加え、鈴野さんと彼女の母親とは三人で、新たな生活を元町で始めることとなる。鈴野さんが高二から高三にかけての出来事だ。継父は戸籍上父親と云うことになっていたが、まだ三十一歳か二歳の若さで、鈴野さんと並ぶと兄妹にも間違えられかねないほどだった。
「まだこのとき、自分のきもちに気づいてなくて良かった」と、鈴野さんは云った。
「もし気づいちゃってたら、ヤバない。とても一つ屋根の下、一緒に暮らしてなんていけない」
 鈴野さんが市ヶ谷にある大学に入学が決まったのと同じ年、継父は会社の事業拡大のためと銘打ち、東京に営業所を開設した。実際に常駐し、運営するのは創業メンバーのひとりだったが、経営者である彼も月に二、三度は出張し、東京に宿泊する習慣が生まれた。そんな際にはかならず、彼は鈴野さんのアパートを訪ね、一人暮らしの様子をうかがう決まりになっていた。母親は、神戸からめったに東京に行けないから、彼のそんな配慮を歓迎こそすれ、なにかを疑うような要素はみじんもなかった。
 しかし、実際にそれは起こった。鈴野さんの云う、継父との間にただよった男女の妙な空気と、そしてそれをきっかけに鈴野さんが彼へのきもちに気づいてしまう、そんな関係性だ。
「と云っても、茉希ちゃん、継父さんとはその・・・まだそんな関係とかになってないから。のっぴきならない関係には、まだな。そこはいくらあたしでもさすがに考えちゃうわ。あのひとがアパートに来たら、ふたりしておしゃべりしたり、外食行ったり、お小遣いもらう程度で終わってるんだから。むこうもちょっと、・・・探り探りと云うか、そんなかんじ」
 少し言葉をにごす彼女を見て、このふたり、まったくなんの進展もない関係だとは、ちょっとおもえない。本人は云わないけれど、なんかしら秘密めいた行為があったんじゃないかと、想像してしまう。ものごとの善悪はいったん置いて、うーん、この子はやっぱりすごい、とおもう。普通じゃないことをさらりと云ってのける。こんな話、漫画だけのことかとおもっていた。普通に恋の話がされるのかとおもったわたしが甘かった。大変な出来事だ。しかし鈴野さん、このひとなら確かにそんな事件を起こしてもおかしくない。こういうひとってやっぱりいるんだ。知らない世界を見せつけられ、自分でも良く分からない感動があった。わたしはおずおずと、おっかなびっくりに、
「それ、お母さんは知ってるの。その、鈴野さんとお父さんとの関係って」
「まさか。あたしからは絶対そんなこと云われへん。そんなん告白したら、すぐ実家に帰らされて、たちまち首絞められるわ。耳の穴からすっと手を入れられて、三半規管揺さぶられちゃうわ」
 おおこわ、と云って、自分で自分を抱きしめる素振りをして見せる。
「でもさ、お父さんはどういうつもりなんだろう。お母さんもいるのに、鈴野さんにそういう気持ち、見せるって云うのは。なんかヘンだよ」
「なぁ茉希ちゃん、そこが男の本性につながってる部分やねん」
 鈴野さんがわたしに振り向いて、じっとこちらを見つめながら云う。
「茉希ちゃんはまだ可愛くて、良く分からないかも知れないけど、男はハンターやねん」
「ハンター?」
「そう、狩猟民族。いつでも、なんかを狩っておかんと気が済まない人種ってやつ。うち、顔が母親に良く似ているらしい。昔の若いころの写真とか見ると、あたしでも確かにそうかもなぁっておもうくらいには、似ている。たぶん、あの継父さんはな、今よりもっと若い頃のお母んの姿を、あたしに投影してるんだとおもう。今日電車でした話、覚えてるやろ。女子高生の話。男は基本、そんな若い娘が好きなんやな。健康で子供をこれからまだ産める、体力的にも見た目にも若く、充実した個体につい、惹かれてしまう。もう遺伝子レベルでそうなってる。だからあたしの継父さんは、どっちも欲しがってるんだとおもう。愛情的には確かにお母んが好きなんかもしれん。でもその一方で、お母んと同じ顔した若いあたしを前にすると、こっちもええなぁとおもうんだと、想像してる。男って、いっつもそんな自己矛盾をかかえてる、救いようのない、本能優先の変態やねん。・・・なあんて云って」
 見悶えるようにして、わたしの肩あたりに、自分の顔を押しつけてくる。
「それでもだめなんや。そう理屈付けして、客観的に見て、冷静になろうとしても、それとは別に自分の感情ってもんが、追いついてきぃひん。男ってそういうもんやってカテゴライズしても、やっぱうち、あのひとのこと、好きってことは変わらん。ははは、参るわ」
 半分ヤケのように笑い、わたしの肩に顔をうずめて、じっと動かなくなる。
「茉希ちゃん、うちのこと、嫌いになった?」
 眠ったのかな、とおもったら違った。しばらくたってから鈴野さんが云った。
「なぁ、気持ち悪いよな。継父さんとは云え、お父んのこと、好きになったなんて、よう云わんわ。こんなこと云うの、茉希ちゃんが最初で最後かも」
「いや、別に。嫌いにはならないよ。と云うか、さすが鈴野さんだなぁとおもって、感心してた」
「へ、感心?」
「感心じゃなかったら、えーと、感服?感服つかまつりました・・・とか。いや、よくわかんない」
「感服つかまつったって、なに、いつの時代?ははは、茉希ちゃん、自分、おかしいなあ」
 黄色い灯りの中、顔が赤くなったのを見られないのがさいわいだ。確かに、普通にしたらとんでもない事件だ。わたしには荷が重すぎて、まともに考えられもしないことだけれど、鈴野さんはわたしとはちがう。あるいは今後もっとこじれて、泥沼化してしまうかも知れないが、きっと思いもよらない手段で結末をつけてしまうだろうとおもう。わたしがそれを知る機会があるのか否か、まだ分からないけれど。
「茉希ちゃん、ごめんな」と小声で鈴野さんが云う。わたしはそっと起き上がり、照明のひもをひっぱり、部屋を暗くする。薄いカーテンから青白い光りが漏れ、たぶん月がのぼってきているのだ。
「茉希ちゃん、ごめんな」と鈴野さんはもう一回つぶやく。わたしが聞き返す間もなく、すぐに軽い寝息が聞こえてきた。
 夢を見た。
 菜原くんの夢だ。
 夢で彼とわたしは兄妹(あるいは姉弟)ということになっていた。血のつながったわたしたちが、そのなかでは実は恋人どうしと云う設定になっていた。鈴野さんの話に影響されたらしい、絵に描いたような禁断の恋だ。わたしたちは夢の中で、不思議もなく、愛し合った。プラトニックな恋ではない。現実をこえて、わたしと菜原くんはなにかの呪いのように身体と身体で愛し合った。背徳感はない。罪悪とすらおもわない。わたしたちは単純に求め合うまま、その欲求に従って、行為した。
 その中でわたしは自分のお腹の中に、不思議な金属めいたものが芽生えたのを感じた。なにか硬いものだ。そしてひやっとして冷たい印象がある。自分では取り出しようもなく、じっと内部に潜ませていかなければならないものだ。これが自分にとって必要なものだと云うのは分かった。しかしその正体は分からない。わたしは自分のお腹を両手で包む。お腹に芽生えた硬い何かは、その手に反応するように、ゆっくり動き出す。鼓動のような収縮運動だ。菜原くんとはきょうだいの関係で、ふたりでこれを育もうとする。夢の中で、現実以上にわたしは菜原くんを愛し、彼もまたわたしを求め、重なった。わたしたちはお互いがなにを生み、大事にしようとしているのか分からないまま、何度も何度も来ては引くその波の繰り返しの中に、身をゆだねていた。
「鈴野さん、上着」
 朝が来た。まだ寝ぼけている彼女を、揺り起こすようにしてわたしは云った。
「ね、上着のポケット、見せて」
 訳のわからない顔をしている。それでも鈴野さんは立ちあがり、リクルートスーツのジャケットをハンガーから外して手繰り寄せる。
「外側じゃない、内側のポケットだよ。そう、お腹のあたりのそこ」
 鈴野さんが手を入れると、「あれっ」と声をあげる。鍵が彼女の指につままれ、現れた。
 昨日、失くしたと云って、さんざん探したアパートの鍵だ。わたしには確信があった。
「不思議やな。でもどうしてこんなところに」
「鈴野さん、鍵はずっと、ここにあったんだよ」
 わたしは鈴野さんに向き合い、云った。
「ただ分からなかっただけ。見えなくてもずっと鈴野さんは、自分の鍵を持ってた」
 わたしは彼女の手の上に乗せられた鍵にそっと触れる。キャラクターの小さなフィギュアと鈴が、鍵の柄の部分に綺麗な編みひもで結ばれている。
「ね、わたし約束守ったでしょ。鍵は見つかった」
 わたしは鈴野さんに小さく微笑んだ。

 バイト先の本屋さんへの、エスカレーター式な採用試験は、ほんの休憩時間中にかたづいた。全然そんな準備も、こころづもりもなかったのに、休憩中に突然事務所に呼びだされ、部屋に入ると、普段は見ないおじさんがいる。あれ、と思うと、それが実は採用担当の社員さんで、その場でいくつか簡単な質問がされ、問われるがままに答えると、それでもうすべては終了となった。髪はぼさぼさで、ほぼノーメイク、生地の疲れた制服を着て、あとから考えると加点される部分はほぼないんじゃないかと考えていたら、後日、店長から入社内定だと知らされ、ちょっと恐縮した。普段なら、もうちょっと身だしなみもちゃんとして、身ぎれいにしていたのに、よりによっていちばん手を抜いたシフトの日に、本社から採用担当が来るだなんて、だまされたようだ。逆にわざと意地悪されたんじゃないかと、いぶかしんだりもした。しかし結果は結果だ。真実はいつもひとつしかない。大学の後期がはじまるちょっと前、まだ夏やすみ中にわたしは書店への就職を手に入れた。
 いろいろと悩んだ結果ではあるけれど、こんなあっけなくていいのかな、とおもわなくもない。他人の状況は良く知らないけれど、色々会社見学したり、セミナーを受けたり、夏の日差しの下、街から街へ移動し続け、みんな大変そうだ。一方、受ける必要もない試験を二社も受け、わざわざストレスのたまるようなことをした挙句、結局慣れ親しんだバイト先へ就職だなんて、ある意味幸運だ。そしてある意味、無節操だともおもう。最近はやりの歌みたいだけれど、川の流れのように、わたしを取り巻く状況に身をゆだねていたら自然とこうなった、と云うかんじだ。しかし、これ以上の結末をいまのわたしは思いつけない。来年にはきっと、新卒の書店員として、どこか店舗のフロアに立っているんだなとおもう。
「でも、茉希ちゃん。最初は、みんなそうよ」と、仲村さんは云う。事務所で最近導入された各店舗をオンラインでつなぐパソコンを前にして、わたしに振り返る。
「特に普通の会社員はね。自分でなにかを選んだようで、でも本当には選べない部分っていうのもあって、結局与えられた中で自己発露をしていくしかない」
 もともと目指すものがあり、その中で試行錯誤するなら、それも良いだろう。でもわたしは、そこまでも行ってない。もともと夢なんか見れない性格なんじゃないかとおもい、なんとなくがっかりしてしまう。
「わたしね、茉希ちゃんとこれから一緒に働けるとおもうと、うれしいの。来年からは同じ土俵で、対等の立場で、働くわけでしょう。きっとなにかあたらしいことのはじまりだとおもう。わたしにとっても、もちろん、会社にとっても。それに期待しちゃ、だめかな?」
「そんな・・・畏れ多いって云うか。わたしなんか、こんな小娘なのに」
「いいじゃない、小娘で。小娘、うらやましいなぁ。わたしにもあったなぁ、小娘だったとき。そうだ茉希ちゃん。じゃあ、まだ会社に夢が見れないなら、わたしが茉希ちゃんに対して夢を見せてもらうって云うのはどうかな?わたしのために茉希ちゃんが、そばにいてくれるの。今の、このときでしか出来ないこと、わたしに見せてくれない。それでお互い、良い関係になるの。どう?」
 仲村さんは首をかしげて、少し不敵に、にやりと笑う。
「実はね、茉希ちゃん。わたしは次の人事で店長になる。いや、なるように今から工作している。わたし、普通の会社員では絶対終わりたくない。この書店を舞台にして、これまでのイメージとはまったく違う本屋のモデルを作っていきたい。作家さんを巻き込んだイベントだったり、マスメディアとのタイアップだったり、根本的な書籍の売り方改革だったり。これまでしようともしなかったクロスオーバーな展開ができるとおもってる。・・・びっくりした?」
 わたしはきょとんとして、仲村さんの顔を見つめる。
「そのプロジェクトに、茉希ちゃん、あなたも加わってほしい。そしてゆくゆくは、私自身が立ちあげた・・・って、これはまだ先の話ね。今はまず、わたしを信じて、一緒にいて欲しい。わたしには、あなたが必要」
 わたしは突然の話にぽかんと口を開ける。しかし、仲村さんの云っている意味はよく分かった。
 会社とか、社会ってわたしにはまだよく分からない。漠然としたおおきいものが目の前に立ちふさがって、しかしその正体は謎のままだ。そんなものへの貢献なんてまるきり、霞をつかむようなはなしだ。現実味がない。別次元のことのようにおもう。でもそれが仲村さんのためになら・・・なにかしてあげたい。大きなことはまだ出来ないけれど、いつかきっと役に立つような人間だと思われたい。それがわたしや会社のためでなくても構わない。同じ土俵だなんて、本当はおこがましい。しかし少しでもそこから同じ景色が見えると良いな、とおもう。わたしは仲村さんを見る。今日は髪を下ろしていつもより若く、女の子めいて見える。わたしはふと誰かをおもいだす。
「仲村さん、わたしで良ければ・・・じゃあ来年からひとつ、よろしくお願いします」
 わたしはぺこりと一礼する。その下げた頭を、ぽんぽんと仲村さんがやさしくなでる。軽い、鈴のような笑い声がした。

 仲村さんに似た女の子、鈴野さんとは、あれきり会っていない。
 鎌倉から東京駅まで戻り、駅の構内の古びた喫茶店でお茶をして別れたのが、彼女を見た最後になった。
「茉希ちゃん、ちゃんと就職できたら教えてな」
 彼女の前にはメロンフロートの背の高いグラスが置かれていた。緑色の炭酸水とそこに浮かぶバニラアイス、むやみと真っ赤なチェリーとで、夏の人工楽園がそこに生まれた。
「そうだね、連絡する。鈴野さんも、就活頑張って。それと・・・えーと、なんかいろいろ」
 鈴野さんは、はははっと顔を仰向けてわらう。
「本当、面倒くさいよな。でもひとを好きになるのは、自分でも止められん。これからどうなるのか、あたしにもわからないけど、好きになったこと、うち後悔したないんよ」
 わたしはなにも云えず、ただ困ったように微笑んだ。結局その話題から離れて、「鍵も忘れずにね。今度は失くさないように」
「ほんまにな。折角茉希ちゃんに見つけてもらったん、大事にせんと」
 喫茶店で別れ、わたしたちは構内の別々のホームに向かった。わたしたちは人ごみに紛れ、あっという間に離れてゆく。
 おかしな二日間だった。その日初めて出会った女の子と鎌倉までゆき、夏の海を見て一泊して帰るなんて、ちょっとした冒険だ。
 わたしは中央線のホームに立ち、漠然と反対側のホームや、人の流れを見ていた。ちらっと腕時計を見る。まだお昼前だ。さてこれからどうしよう、家にまっすぐ帰ろうかなどと考えていると、なにかがこころにひっかかった。いや、ちがう。なんか忘れている。眉間にしわよせて考えて、そしてはっとなる。
 鈴野さんのことだ。
 彼女と、互いの連絡先を交換するのを、すっかり忘れていた。
 もうすっかり馴染んだ同士とおもっていたから、改めて電話番号を教えあうなんて、すっかり頭から抜けていた。
 あれ、ちょっと待って。わたしはきびすを返し、来た道順を戻ろうとする。いや無理だ。こんな人ごみに、しかもどの路線に乗るのかも知らない彼女を見つけるのなんて、不可能に近い。なにか手がかりはないかと考えるけれど、漠然としたものしか思い浮かばない。
 多分、神戸に実家がある。
 多分、大学は市ヶ谷にある。
 多分、どこかアパートに一人暮らししている。
 多分ばっかりで、全然役に立たない。昨日面接を受けた会社に彼女のことを問い合わせることも考えたが、そう簡単に他人の情報を教えてはくれないだろう。
 この狭くひろい東京に放り出され、わたしたちはすぐ近くにいるようで、しかし限りなく遠く離れた。
 わたしはためいきをつく。最後の最後で、まだ冒険譚のつづきがあった。なんともしまらない、間の抜けたつづきだ。しかし・・・こういうのもわたしたちらしいと云えば、そうかもしれない。鈴野さんもきっと今頃どこかで苦笑いしているにちがいない。
「あちゃあ、茉希ちゃんやってしまったな。ほんま、そういうところ、あの子にはある。けど生きてればまたどっかで会えるやろ。とりあえず、今日のところはお別れやなぁ」
 折り返しの中央線快速がホームに入ってくる。夏休みに入り、どこかへ遊びにいくのだろう若い子たちがあちこちにたむろしている。普段大人ばかりの駅に色鮮やかさが増し、景色も明るく見える。ここが始発の駅だ。みんなここから散らばって、いろんな場所へゆく。わたしは帰ってきたはずなのに、もうどこかへ旅立つような、不思議な高揚感に包まれていた。

 

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