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"うつ病"になれなかったかつての私へ

扉を開けるとアロマの香りがした。  

入るとふかふかのソファーが待っている。 

オルゴールの音楽を聴きながら、デトックスウォーターを飲んで待つ。 

ここには「癒し」が敷き詰められていた。 

しばらくすると僕の名前が呼ばれる。

 優しそうに微笑むその眼差しが苦しい。 

「今日はどうされましたか?」と聞かれる。

 どうされたかわからないから来たにもかかわらず。 

「とにかく苦しい」と僕が応えると、“質問票”と書かれた紙が渡される。

 僕はその質問にチェックをつけて渡す。

 「大丈夫です。うつ病ではないようです。」と言われる。

 どうやら僕は“大丈夫”らしい。

 今にも死にそうで、ない気力を振り絞って来た僕は“問題”ではないらしい。 

私が“問題”であるのかないのか、なぜ私が決めることができないのだろう。 

私のこの苦しみはどこへ向かえば良いのだろう。

 ない言葉を振り絞って自分の苦しみを僕は話す。 

ここは病院であって、カウンセリングではないと言われる。

 そして、苦しみを「癒す」薬が渡される。 

苦しみは「癒されるもの」とどうやら決まっているらしい。

 苦しみをどうしたいのか、私が決めることはどうやらできないらしい。

 再び僕はふかふかのソファーに腰掛け、デトックスウォーターを飲む。

 ハーブの香りがむせ返るようだった。

 僕は家に帰ってベッドに突っ伏す。 

きっと僕は明日も苦しいのだろうと思いながら、今日を寝過ごす。 

そんなかつての僕のとある1日。


 結局、あの日の僕はどうして欲しかったのだろう。 

きっと、まずは「どうされたのか」一緒に考えて欲しかった。

 今の苦しみが「どうされた」から生まれ出たのかをただ知りたかった。

 そして、何が“問題”なのかを一緒に考えて欲しかった。

 客観的にそれが“問題”かどうかではなく、私が何を“問題”だと思っているのか、それを言葉にし、何が“問題”をつくりだしているのか知りたかった。 

そして最後に、その“問題”にどう関わるか一緒に考えて欲しかった。

 私はその“問題”を「癒したい」のか、「消したい」のか、「向き合いたい」のか、「受け止めたい」のか、他にも数多存在するあり方のどれを選びとるのか、考えたかった。 

 ただ、それだけだったのだと思う。

 しんどい渦中にいる時、人はそれを語り得なくなる。

 “正しい”ことを言っているかわからない言葉を受け止めるより、客観的に“正しい”データを受け止める方が“正しい”のかもしれない。

 けれど、きっと、当人の中に願いはある。言葉はある。

 “正しさ”から漏れ出る大切なことがきっとある。 

その事実をどうか忘れないでほしい。 

その漏れ出る何かに耳を傾けることができるのならば、きっと明日も何も変わらないのだとしても希望を持つことができるはずだから。

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