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生物とは「流動の局所的希薄化」 (ALife Book Club 3-5)

こんにちは。Alternative Machine Inc.の小島です。
メイヤスー『減算と縮約』の第五回をお届けします。
今回は減算モデルからでてきた生命観、「流動の局所的希薄化」についてお話します。
(前回までがまだの方は、こちら(#1, #2, #3, #4)からぜひ!)

ついに『減算と縮約』最終回となります。
知覚のモデルとして始まった減算(と縮約)モデルでしたが、最終的に生物の定義へと進んでいきます。今日はこの生物の定義「流動の局所的希薄化」を中心にお話します。

生物は「流動の局所的希薄化」

前回メイヤスーの減算モデルについてお話しました。ここでの中心的な概念的道具が「遮断」でした。これは普通の物質的な性質や相互作用である「流動」にたいしてそれを(非決定論的に)せき止めるもので、これによって減算が生じるのでした。
(そして、遮断は生成であることと、遮断によって生じる潜在的なものを遅延という考えで実装する、といった話もありました。)

さて、ここから生物はどのように考えられるでしょうか?
メイヤスーが導き出したのは遮断によって囲まれた輪っか状の構造です。

遮断で囲まれている、ということはこれは流動が入り込みにくい領域になっていて、メイヤスーはこれを「流動の局所的希薄化」と名付けました。

これは、知覚を減算モデルとしたこと、そして生物はひとまとまりのものである、ということを考えると自然な定義といえそうです。

「有機体」とは違った見方

ただしここで重要なのは、この「流動の局所的希薄化」という見方が、生物の抽象的な定義になっているということです。つまり、どういう部品でできているかとか、どのような器官で構成されているかというような、いわば生物学的な定義とは違っています。これに関連するところをちょっと引用してみます。

もし希薄化の生成がなければ、生物の素材、つまり、生物の場所を構成する物質についてしか考えられないことになるだろう。すると、希薄化の素材は考えられても、希薄化が何であるかは考えられないことになる。つまり、生物は有機体として考えられても、希薄化としては考えられないだろう。

メイヤスー『減算と縮約』(青土社)

ちょっと難しいですが、「物質(ないしは有機体)」と「希薄化」が対比されているということに注目してください。これはこれまでみてきた、「流動」と「遮断」の対比と対応しています。

流動だけの世界というのは、自然法則でただ時間発展していくもので、それとは異なるものを導入するには「遮断」が必要です。
よって生物に対して、物理現象とは異なる見方を(このフレームワークで)導入するために、「遮断」的なものである「希薄化」を考えることが必要なのです。
(さらに、ここでは生物を自由意志を持つ存在として考えたいということで、こうすることがより必須となっています。)
この無機的な生命観から、本書ではドゥルーズの「器官なき身体」へと接続されて議論されることになります。

「有機体」ではなく「希薄化」としてみることでより抽象的な生命観に至っており、このあたりも人工生命の世界観との近さを感じてしまいます。

二種類の生命的生成と「死に方」

生命は「流動」ではなく、「遮断」として捉えるというのがメイヤスーの見方です。でも、だからといって「遮断」がすべて生命になるわけではありません「遮断」のなかでも、生命的な特徴をもつものがあるはずです。

よって、メイヤスーは生命的特徴を持つ遮断のことを生命的生成とよび、これには二種類あると論じていきます。(以前お話したように「遮断」は「生成」に対応しているのでした。)
まとめるとこの二種類です。

能動的生成:遮断による環の不連続拡大、無関心(「愚劣」)の減少
反動的生成:遮断による環の不連続減少、無関心(「愚劣」)の拡大

能動的生成は、遮断でできた輪っかを広げていく、つまりより外の流動を取り入れようとするもので、外界への関心を高めるものです。
一方の反動的生成は、輪っかをより閉じていく方向になっており、外の流動をより閉ざす方向であり、無関心さ(メイヤスーはこれを「愚劣」と読んでいます)を高めるものです。

生物が生存するためには、より外界の情報を取り入れたほうがよいはずで、それには能動的生成が適しています
それなのに、なぜ反動的生成があるか、というのがつづいてメイヤスーがたてた問いです。そしてその答えはそれぞれに対応する二種類の死に方にあると論じます。

一つ目は、反動的な死です。これは反動的生成を突き詰めていった結果として生じるもので、輪っかがどんどん縮小されて消えていく、という死に方です。外からの流動がどんどんなくなっていくので、死は無に向かうものという普通のイメージに近いものと言えます。

そして二つ目がクリエイティブな死です。こちらは逆に能動的な生成がすすんだ結果として生じるものです。輪っかがどんどん拡大されていき、開きすぎてもはや輪っかが維持できない、というイメージです。この場合は流動がどんどん増えていくので、無にむかうというよりもより騒がしくなっていく(「無限の狂気」)ような死に方です。そして、これをふせぐためにこそ反動的な生成があるのだ、というのがメイヤスーの結論となっています。

この輪っかが広がることで死に至るという描像、物質的に考えると細胞膜が壊れることで死に至る、というようにも見えますが、あくまでもここでの議論はそれより抽象的なレベルでされている(「流動」ではなく「遮断」)ことに注意が必要です。ある種、情報的に開きすぎることが死の原因となるということで、これは新しい描像になっているように思います。

まとめ

ということで、このへんで『減算と縮約』の解説は終わりにしようと思います。知覚から生命とは何かにまで向かうということで、かなり人工生命でのモチベーションと重なる内容になっていることが再確認できました。

そのうえで、なにか新しい知見をもたらしうるか、ということですが、そのキーになっているのはやはり減算モデルであり、それが含む遮断、生成、局所的希薄化といった概念でしょう。

減算モデルを考えることで、知覚における生成、ないしは新しさは外からやって来るという見方を強調することになります。生命の特徴として挙げられるオープンエンド性を考える上でもこれは参考になるかもしれません。また、減算においてはまず身体による減算がおこるとされ、ここで無限の流動が有限になるのですが、このような見方と(ルンバをつくった)ブルックスなどの身体性認知の考えかたの接続も良いように思いました。

「遮断」というより抽象的なレイヤーによる生命の議論も興味深いものでした。特に、最終的に自由意志を導入するために「遮断」の環によって生命が定義することになるのですが、決定論的な物理観のもとでどう自由意志を導入するかというのは科学にとっても重要な問題でありつづけています。(たとえば、自由意志を認めるなら、素粒子にも認めないといけないという議論もあったりします。)
本書のように、最終的に非決定論的なプロセスである遮断を持ち込まないといけなかったというのはこの問題についても示唆的ではと思いました。

それではこれで『減算と縮約』解説を終わりにします。長々とお付き合いいただきありがとうございました!
(この『減算と縮約』についてはこちらからさまざまな研究者の論考が読めます。おすすめです!)

次回からは、ベイトソン『天使のおそれ』を取り上げる予定です。ぜひ、引き続きご覧ください!


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