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人生他動的

 インドへ行くことになった、その端緒を思い返すとき、私はいつも、まさにこの言葉だなあ、と言わざるを得なくなる。自分の力でゼロから切り開き、世の流れに逆らって生きる、そういう生き方もあるだろうが、それにしたって、何か物事を起こす為には、外部からもたらされる情報なり取っ掛かりなり、刺激なりが必要となるだろう。
 外部からの情報。あるいは、他者からの誘い。この場合は・・・・。どちらにせよ、端緒は他者からもたらされる。他から促されるのである。
 つまらぬ、禅問答めいたことをやってしまった。話の続きといこう。1988年4月。新年度最初のヒンディー語の講義。一人ポツンと教室にいる私の所に、あのクソ忌々しいS―本来なら、この男も教授と尊称?しなければならぬのであろうが、どうしてもそんな気にならぬ。ここは私の感情に素直に従いSと呼び捨てにする―がやってきた。
「・・・・」Sは、私が予想したごとく、苦虫を噛み潰したツラをして、私の目の前に立った。ちなみに、教室は40人くらいの収容が限界の教室であるが、教師用にしつらえたイスやテーブルは当然ある。それなのに、Sは私の目の前に立って、こうぬかしたのである。
「おい、1つ後ろの机に下がれ」
 テーブルは3人から4人が利用できる長テーブルである。イスも同じサイズに作られている長イスである。横には3つのテーブルとイスが並び、縦の列には5台、テーブルとイスのセットが配置されている。私は真ん中のイスに座っていたのである。
(なんだよ。そこの教師用のイスに座ればいいじゃねえか)私は心の内でSに向かってクレームをつけたが、声に出して言おうものなら、さっそく炎上になるであろう。しかたなく私は1つ後ろに下がった。Sは1番前にあったイスを引っ張って、どっかと腰を下ろし、私を睨みつけた。つまり、Sは黒板を背にした格好になり、テーブル1つを境界線にして相対峙することになった。但し、彼は私の真正面にいるわけではない。テーブルの幅は狭くて、50~60cmといったところだろう。真正面にいたのでは、2人分のノートや本はとても置けない。だから必然的にSは、私の斜め前に座ることになる。私はやや右にSを見る位置に座ることにした。鈴木健二氏は自著で、会社の上司と相対するときは、相手に対してやや右側にいた方が良い、人間は相手を見る時まず反射的に左に注意が行き、その直後、右に視点をずらす、その、ずらす過程でアタマが理性を働かせ、より理知的に合理的に思考するのだという意味のことを書いておられたが、この時の私は、鈴木氏の本の内容などアタマの中に思い浮かべてはいなかった。いなかったのだが、自然にこの位置に座り直したのである。鈴木氏の本はとうの昔に失くしてしまったから、その正確な内容を確かめたくてもできないのは残念である。もし読者の中で鈴木氏の本の愛読者がおられ、「そんなこと、どこにも書いてないぞ」とか「書いてあるけど、理由は違うよ」と思われるなら、指摘していただければありがたい。え?自分で本を読めって?面倒くさいからしたくないのである。
 仕切り直したSは苦虫をかみつぶしたままである。当然であろう。彼は私の事が気に入らないのだ。理由は簡単である。1年生~2年生のヒンディー語の講義で、私は彼の言うことを真面目にハイハイと聞かなかったからである。予習も復習も、ろくすっぽやっていなかったからである。そんな反抗的な、人を人とも思わぬような生意気な若造の相手をしなければならないなんて、しかも他には学生はいない。この若造1人しかいないなんて。ああクソだうんざりだ!と、これまでの経緯を知る公平な観察者なら誰もが思うだろう。
(さてさて。どんなことをほざくんだろうねえ)私も仏頂面を崩すことなく、相手を睨んだ。どっちもどっちである。
「おまえ、知ってるだろう。本学で海外研修の制度があるのは」
 いきなり想定外なテーマを持ち出され、私は返答に窮した。
 我が大学に、いろいろ海外での研修制度があるのは、漠然とだが知っていた。長ければ1年から、短いものなら春や夏の休暇を利用した、場所も時期も様々に異なる研修があった。
「研修の中でも、まあ今度の夏休みを使った研修。これが一番利用しやすいよな。な、そうだろ?」
 そうだろ?と言われても、私にはどう返答してよいのやら計りかねた。だから黙っていた。
「俺が一番力を入れたいと思うのは、各語学クラス主体で動く夏季の語学研修だ。あれなら予算も少なくて済むし、長期研修のように相手の国の提携大学とコンタクトを取らんでも済むしな」
 当時、我が大学が提携を結んでいる海外の大学は、たかが知れていた。カナダとアジアに2校か3校か、そんなレヴェルだったはずだ。歴史だけは古かった我が大学だが、対外的な実績という点においては、東京〇大学とは比べくもないほどの淋しきものであったから、海外の大学でまともに相手をしてくれる所は極めて限られていた。しかし我が大学としてはもっとハクをつけたかった。というわけで、海外の提携校を通さない、我が大学の方で勝手かつ私的な、研修と名乗ってはいるが、実質観光と言うべき行事が計画された。現地での語学の授業は行なうこともあればやらないこともあり、これはその時の海外事情や各語学担当教師の裁量に任されていて、基本的な研修(厳密には観光!)計画は当該学生に全て放任であった。研修費もその年によってまるきり変わった。何とも杜撰(ずさん)な研修(観光)制度なのであった。
「俺んとこのヒンディー語は、もう何年も試験に受かってねえんだよ。まったく!なさけねえよなあ。お前の先輩たちは真面目さが足りん。人がせっかく指導してやっているというのに」Sは、一人で勝手にぷりぷりしている。
何年も試験に、ということは、毎年ヒンディー語のクラスで試験を受ける奴がいるのか。そいつは殊勝なことだ。ただ、このSの指導の下ではまともな語学力も、いや学的情熱も養われやしないだろう。我が総長は新任教師に対して誠実に指導してやってくれと言っているそうだが、どうもSは誠実、イコール、脅し上げると解釈しているらしい。この男のクラスからはおそらく半永久的に試験に合格する奴は出まい。知らぬが花、とは言い得て妙なものだ。しかし、この研修自体も実に怪しいものだ。よその国に行っても、後ろ盾が何もない、大学側は関知しないなんて、怠慢もいいところではないか。
「今年はなんとしても、俺のクラスから合格者を出してえんだよな」
 Sが何故こんなことをほざいたのか。当時は私も迂闊者でわからなかったが、今ならわかる。彼もハクをつけたかったのである。自分の受け持っている語学のクラスから海外研修を受ける熱意ある学生を育てたというハクを、学内で確立させたかったのだ。人間の行動のきっかけは、常に自愛心から生じる。相手の事を慮って、なんていうことも、時にはあるだろうが、それですら、その根底には自愛心が潜んでいるのだ。こんないいことをしてやったから、相手から感謝されたぜ、上司からも良く指導したとほめられた、来年は昇給だ、もしかしたら新しいポストもあてがってくれるかもしれんぞ、やったぜ、皆からもチヤホヤされる。気分はサイコー、というわけである。
「おまえ、今度の試験を受けろ」
(・・・・へ?)想定外な、ムチャ振りである。受けるか?ならわかる。しかし単刀直入に受けろとは、横暴も甚だしい。
「ただなあ。本学からの支給は少ないんだよなあ。割り振られるのは今年全部で40万なんだぜ。去年は2人行ったんだよな。どこだったかは忘れたけどよ。1人で40万だったら、けっこういい旅できるけどなあ」Sは、私がもう試験に合格し、インド行が決まったかのように勝手気ままに喋りまくっている。
「でも、20万あれば、行と帰りの飛行機代はカバーできる。エアー・インディアのエコノミーを使え。インド政府観光局に掛け合えば、割り引いてくれるぞ。インドで旅する間のカネは、ま、お前何とかしろ」
 私があっけに取られている間、Sはこう締めくくった。
「よし決まりだ。今年はお前だ。試験の日程は来週教える。あとな。筆記試験の他に面接とレポート提出も課される。一応研修だからな。インドで何を研究するか、そのテーマも本学に伝えなければいかん。来週までにそのテーマを考えておけ」
 Sは「今日はこれで終了」と、講義もしないでさっさと帰って行ってしまった。私は独り、取り残された。
「おいおい、ふざけてやがる。いきなり今度の夏は一人インドかよ。こっちの意見は完全無視かよ。冗談じゃねえや。ここはファシズム国家か?俺はインドなんか行きたくねえや。そりゃ、ビートルズゆかりの国だから第2語学の希望に〇したが、それは第2希望だったんだぜ。本心はドイツ語だったんだ。まあ、じゃあドイツに行けと言われても困るんだが。インドって、どんな国だ?ナマステとか言って、乞食がいっぱいいて、ちょっと油断したら身ぐるみはがされて、道端には野良牛とかの糞が転がっていて臭くって、埃が舞い上がって、気温は確か40度とか50度とかになるんだよな。そのくせ7月とか8月は雨もジャンジャン降る。高温多湿の極みだ。言葉だって通じない。ヒンディー語?喋れるわけがないだろう。俺の講義への参加態度を見ればいい。成績だってボロボロだ。インドでは英語も通じるだって?いやいや、英検の試験内容を一目見ただけで怖気をふるって受けようとしなかったくらいのヘタレだぜ俺は。右も左もわからないところに放り出されて、どうすりゃいいってんだよ。くそったれ。断ってやる・・・・」私は独り、教室でアタマの中をぐるぐる回しながらSへの罵詈雑言をひねり出していたが、ふと、「待てよ」と立ち止まった。
「夏か。毎年夏は―」私は大学1年生と2年生の時の夏を思い出していた。
 当時、私は近所のうどん屋でバイトをしていたのだが、大学が長期休暇になると自然客も増える。一方の私は講義がないから暇だろうというわけで、バイトのシフトをたんまりあてがわれていた。1週間に6日。昼の12時から夜の12時まで、12時間ぶっ通しの労働を強いられた。正規の社員もいたが、奴等はここぞとばかりノンビリ夕方やってきたり、途中で退勤したりして目一杯怠けるのであった。うどん屋の勤務環境は劣悪で、モラハラ・パワハラは当たり前のように行なわれていた。私は辞めたくてならなかったのだけれど、辞めれば本やレコードを買うカネが稼げなくなるわけで、仕方なしに働いていた。「どうせ夏休みは遊び惚けるだけだろ?」うどん屋の奴輩はせせら笑ってほざくのであった。私の方は毎日が戦場のような忙しさで、奴輩に口応えする余裕もなかった。インドに夏休みの間旅をしていれば、このうどん屋に丁稚奉公の如き労働をしなくて済む。もちろんバイト代は入ってこない。しかし内心うどん屋で働くことにウンザリしていた私は、格好のエスケープ先が見つかったと思った。奴輩には大学が斡旋した研修に参加すると大義名分を言えばいい。このクソ忙しいときにとひんしゅくを買うであろうが、構いやしない。何しろこちらは遊びに行くのではない。実際は遊びだろうが。
   そしてもう一つ。私がエスケープしたい場所があった。
「俺の家。夏の間だけ、離れていられる」
 当時、私が暮らしていた武蔵野の実家の空気は、冷えに冷え切っていた。父は勤続数十年の、職場ではそれなりのポストに勤めていて、稼ぎも相当あったのだが、毎月、父は自分の稼ぎから自分が決めただけのカネを母に渡し、自分の給料明細は母に見せなかった。これで今月は持たせろ、というわけである。母にはそれが不満でならなかった。父がどれくらい稼いでいるか、同じ職場に勤めていたことがあり、職場でも顔なじみがたくさんいた母にはおおよそ判っていたから、毎月渡される金額が不釣り合いなほどに少ないことは自明であった。父は父で、自分の稼いだカネの扱いを決して母に任せようとはしなかった。父は母の事をまるで信用していなかった。彼は金遣いの荒い男であった。母に何の相談もなくいきなり車を買ったり、高価な家電や百科事典やら美術全集やらを買い込んだりした。これらの物品は全て、彼の職場での取引先が扱っている商品なのであった。彼は自分の営業成績を挙げたくて、相手の商品を私的に買い、代わりに自分に対する受けを良くしようと努めたのである。それだけではなかった。彼は出張だとか接待ゴルフだとか口実をつけては、しょっちゅう外泊をした。たぶん半分くらいは本当に仕事であったのだろうが、もう半分は全く違う目的であった。もう引退してずいぶんと経ってから、彼は私に、藪から棒にこう言ったことがある。「男には甲斐性がいるものだ。いざとなれば、女だって、食ってしまえばよい」しかし、私は母を不憫には思えなかった。父が母にサイフを預けたがらなかったのも一理あったのである。彼女も、特に若い時分には隠れて相当に遊んでいたのだ。そして、どう見てもくだらないとしか言いようのない物品を通販で買い込んでいた。2人には共通した、あの時代に生きていた日本人特有と言っていいかもしれない性向を有していた。それは、モノをたくさん持つことが仕合せになるのだと信じ込んでいたことであった。そして、モノをたくさん持つためにはたくさんカネを儲けなければならない、カネを儲けるためには大きな、名の知れた企業に入らなければならない、企業の中でより高い肩書を得なければならないと固く信じていたことであった。母は加えて、そういう稼ぎの良い男にくっついてぬくぬくすることが、女の甲斐性だと信じて疑わなかった。似た者同士であった父と母は、カネの事で、自分たちの遊びの事で、私が幼い頃しょっちゅう言い争いをした。やがてどこまでも平行線をたどる言い争いに疲れたのか、互いに目と目を合わせなくなった。父が外泊をしようが、母は何も言わなくなった。父が恵んでくれるカネの額にはやはり不満たらたらであったが、暮らしに困るほどひどくはなかったから、我慢するほうを選んだのであった。母は、自分のストレスを私に向けて発散をした。私に当たり散らし、学校の成績が悪いと罵り、私の聴いているレコード1枚にも、読んでいる本1冊にもケチをつけた。ケチをつけるのは母だけではなかった。父もまた、私の読んでいる本を馬鹿にした。「お前の読んでいる本は、全くカネ儲けにならない、出世の役に立たない」との一点張りであった。そのくせ、彼らはそれらの本の内容など、まるで理解していないのであった。単に、今の日本経済に貢献する内容でないから、たとえば株を儲けるとか、商売のハウツーものでないとか、それだけの理由で、退けたのである。彼らは、私の行動規範をことごとく否定した。「お前の育て方を、失敗した」彼らは一再ならずそう言った。私は、彼らの元を、早いうちに逃走したいと希わずにはいられなかった。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの「アイム・ウェイティング・フォー・ザ・マン」を聴きながら、早く誰か、俺をここから連れ出してくれないか、そんな待ち人が現れないかなと、私は歯ぎしりしていたのであった。
「・・・・夏の間だけでも、抜け出せる」
 私は顔を上げた。あのクソッたれたバイト先を、いや何よりも我が家を、一時でもいい、おさらばできる。夏の間、たった2ヶ月弱だが、独りになれる。これぞ召命と言えるのではないか。
「行ってやろうじゃないか。インドへ」
 我が大学時代おそらくは最大のアメイジング・ジャーニー―多分に情けないジャーニーだったが―の序曲が、このとき奏されたのであった。