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春を謳う

桜の開花発表もあり、いよいよ春本番といった感じですかね。
春はいろいろなことの区切りでもあります。
今週は例年なら入学式や入社式などがあって、新たなスタートに向けて人々が心踊らせる日でもあります。
春になると脳裏をよぎる歌もあって。
♪ 重いコートを脱いで出かけませんか? ♪と歌った歌は、まさしく春のリスタートを応援してくれているのですからね。笑

日本には春を詠った唄歌が古来からたくさんあります。
その感性というか、日本人の季節感のセンスは特に素晴らしいと思うのです。折々に繰り広げられる季節への繊細な向き合い方は、嫋やかな日本人のアイデンティティに密接に結びついていて、その有りようはかつて詠まれた唄歌を眺めてみるとよくわかるものです。

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春の唄歌をいくつか拾ってみました。

春と言えばやっぱりこれでしょうか。笑

   春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山際、少しあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。

ご存知『枕草子』の一節ですね。
訳すとこんな感じですかね。
「春は明け方がいい感じ。だんだん白んでいくと、山際の空が少し明るくなって、紫がかった雲が細くたなびいているのがものすごく素敵だね。」
まさに春のぼんやりとした明け方の良さを詠った一節ですね。

春というと気分が高揚するものです。
長く辛かった寒い季節がようやく去り、
暖かい陽射しが生命に活力を与えてくれるのを感じ始めます。
四季がある国ならではの春の愛し方が、日本の古典にはたくさん息づいています。

   三月三日は、うらうらとのどかに照りたる。桃の花の今咲き始むる。

同じ『枕草子』の一節。
「三月三日の節供は、うららかにのんびり日が照っているのがいいですね。桃の花がまさに咲き始めるのも趣きがあってね」

何気ない日常に目を向ける感性が、ちゃんと春の訪れを発見してそれが普通でいい感じなんだと詠っているわけです。

『万葉集』はそんな春を詠う節の宝庫でもあります。
しかも『万葉集』は『枕草子』よりも陰のニュアンスをひとことひとことに込められているような感じなので、短い一節でも、直訳がなかなか難しいという感じです。
例えばこれ。

   いはばしる垂水の上のさわらびの 萌え出づる春になりにけるかも

「しぶきをあげながら岩の上を流れる水がキラキラ光っている。水音も清々しい滝のほとりに ほら、早蕨が芽を出しているよ。あぁもう春だ。待ちに待った春がとうとうやってきたねぇ」
これは万葉学者の犬養孝さんの訳ですが、まさにそういう感じになるのではないかと思わせる見事な訳だと感じます。

   春の野に霞たなびきうらがなし この夕光にうぐいす鳴くも

これも有名な春の歌。
「春の野原に霞がでてきて悲しく感じるよ。夕暮れの光の中で鶯(うぐいす)が鳴いているよ。」
春だ!という高揚感とは真逆の感性。
春の夕暮れの淋しさに、春を告げるはずの鶯の声が淋しさを助長してるぜ!みたいな。w

   春の苑(その)紅(くれない)にほふ桃の花 下てる道に出で立つをとめ

「春。庭には桃の花が満開になっています。そのピンクの美しい桃の花に夕日が映えてとてもきれいです。そしてその桃の花にみとれるべっぴんさん」
べっぴん乙女は女学生かご淑女か。(万葉の時代に女学生はないか w)
なんとも春の美しい一瞬を詠った歌ですね。

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こうして見ると、春を詠った唄歌は、春を謳う唄歌でもあって。
長い冬を越えてきた旅人はいつの時代も春を謳いながら歩を踏み出すのです。
春にはそういう意味があるのですからね。
なので春は毎年「今年こそいいことがあるんじゃないか」という錯覚を覚えさせてくれます。
その錯覚は実はとっても大事。
いいことを絶対的に期待出来るかどうかは、日々の有りようが大きく関わってるような気もしますし、未来を期待するポジティブな心根の状態というのは、日々を生きてゆくための人間力に関わる大きな問題ですからね。
今はのっぴきならない色々なことが巻き起こっていて、日々不安の中で過ごしてるような春の只中ですが、意識的にでも、春は希望と大志を抱いて迎えたいと思います。笑

まあでも一番しっくりくるのはこれだと毎年思うんですけどね。

   春眠暁を覚えず。(孟浩然「春暁」)

現代のこと。花粉症でそれどころじゃないかも知れませんけれども。w

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こんなご時世ですから。
どんちゃん花見は自粛しても、空いてる場所で花を愛でることや春を謳うことはしていたいものですね。w


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