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【特別対談】内田樹×鹿島茂 カール・マルクス『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』を読む (その1)

2019年9月14日、内田樹さんが館主を務める神戸市住吉の凱風館で、ALL REVIEWSのイベント「内田樹×鹿島茂、カール・マルクス『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』を読む」が開催されました。凱風館は合気道の道場、お二人も正座して対談。道場は、天井も高く、80名の人が入っても圧迫感のない作り。良い気に包まれた会場で、対談は終始和やかに進みます。
もっとも、課題本『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』は、当時の歴史情勢を知らないとかなり難解。そこは、歴史に詳しいお二人のこと、この本が書かれた歴史的背景を丁寧に説明してくださいます。特に、鹿島さんはナポレオン三世の伝記『怪帝ナポレオン三世 第二帝政全史』という著作があります。どんな風に話は展開していくのでしょうか?2回にわたってご紹介します。


マルクス渾身の同時代レポート『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』

今回の課題本、『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』は『共産党宣言』を発表したカール・マルクスが、アメリカに亡命したドイツ人のためにドイツ語で、フランスで起こっているクーデターを説明、論考した本。ブリュメール18日とは、ナポレオン・ボナパルトが第一統領となったクーデターの名前で、一般的にはフランス革命の終焉を意味する言葉。『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』とは皇帝ナポレオン一世の甥であるルイ・ボナパルト大統領がクーデターを起こし、皇帝ナポレオン三世となったことを、ブリュメール18日になぞらえたもの。ルイ・ボナパルトがクーデターを起こしたのは1851年12月2日、皇帝に即位したのが1852年12月2日。マルクスが本著初版を書いたのは1852年と、まさに同時代レポートです。この本が同時代レポートであるということを踏まえると、マルクスの論考の的確さがより光ります。


重要な年「1848年」

対談では、最初に、鹿島さんは1848年という年の重要性から説明します。1848年は19世紀の世界で、同時にいろいろな重要な出来事が起こった年。フランスでは2月革命、ドイツでは3月革命が起こります。そして、マルクス・エンゲルスが『共産党宣言』を発表した年です。さらに、鹿島さんはルイ・ボナパルトが皇帝に就任するまでの、フランス史のおさらいをします(表参照)。

鹿島さんが注目したのは、マルクスが、終始「ルイ・ボナパルト」と書いている事。「ナポレオン」はファーストネームであり、「ナポレオン」は皇帝の呼称。例えば、ルイ十六世は王位をはく奪され、処刑されたので「ルイ・カペ」として亡くなっています。ナポレオン三世を皇帝として認めたくないマルクスの姿勢が、「ルイ・ボナパルト」という呼称に現れています。
そして、本著で注目すべきは同時代で起こっていることを抽象化するマルクスの能力だといいます。マルクスの見方を他の時代に適用しても当てはまる抽象化能力はやはり見るべきものがあります。


内田さんは、二流の登場人物しかいないという前提で、書き抜くマルクスの姿勢に感銘を受けます。司馬遼太郎はノモンハン事件を書こうとした時、誰一人感情移入ができないことから、書くことを断念した。ルイ・ボナパルトがゴロツキのような人物で、登場人物が小悪党か茶坊主という人物群像を同時代の政治ドキュメントとして書き抜いたマルクスは文筆家として優れているといいます。クロード・レヴィ=ストロースは、まず、『ブリュメール18日』を読んでから、自分の論文にとりかかる習慣でした。内田さんはこの本は、繰り返し読むに値する本であると強調します。


マルクスはノリノリ?レトリックの宝庫

内田さんが感動したのはマルクスの表現手法。レトリックを多用するのはマルクスの特徴だが、それにしてもレトリックが多い。レトリックの多さはマルクスがノリノリである証拠と内田さんはいいます。付箋だらけの本から、内田さんが選んだレトリックはこちら。通常レトリックとは3回くらい繰り返すのですが、マルクスの場合際限がありません。

ブルジョワジーはサーベルを神に祭り上げた。サーベルが彼らを支配する。彼らは革命的新聞を全滅させた。彼ら自身の新聞が全滅させられる。彼らは民衆の集会を警察の監視下においた。彼らのサロンが警察の監視下におかれる。彼らは民主派の国民衛兵を解散した。彼ら自身の国民衛兵が解散させられる。彼らは戒厳令を布告した。彼らに対して戒厳令が布告される。彼らは軍事委員会によって陪審員を押しのけた。彼らの陪審員が軍事委員会によって押しのけられる。彼らは民衆教育を坊主に従属させた。坊主が彼らを自分自身の教育に従属させた…。

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    付箋だらけの本を読む内田さん。内田さんもノリノリでした。


鹿島さんも、この本は過去の名言の引用が多いといいます。例えば、イソップの寓話から出た

「ここがロードス島だ、ここで跳べ」

本書に触発された鹿島さんや同時代の学生は、誰かが自慢話をすると、必ず「ここがロードス島だ」といったそうです。余談ですが、AKB48のアルバムにも「ここがロドスだ、ここで跳べ」というタイトルがありました。


在米ドイツ人がターゲットー読者は「ありがとう!マルクス」

内田さんがあげるこの本の特徴は、ターゲットとなる読者がはっきりしていること。この本はそもそも、ロンドン在住のマルクスが、アメリカに渡ったドイツ移民向けに新聞記事として連載したものです。序文に書いてあるとおり、在ニューヨークのドイツ人ヴァイデマイヤーの依頼により、在米ドイツ人に対し、フランスで起こっている保守反動の動きを説明してほしいという依頼があり書かれたもの。


当時、ドイツは1848年の革命が失敗し、多くの自由主義者がアメリカに亡命していました。アメリカは、後にホームステッド法(1862年制定。アメリカの未開発の土地160エーカーを無償で払い下げる制度)の前身となる21才以上で5年間定住すれば160エーカーの土地がもらえるという制度が始まろうとしており、ドイツ人には理想の国という認識も広まっていました。マルクス自身テキサスへの移住を考えていたそうです。


1848年の革命失敗を機にアメリカに移住したドイツ人はフォーティーエイターと呼ばれ、多くは高学歴者でした。彼らは、欧州の情勢にも大変興味があったのですが、フランスで起こっていることは奇々怪々でした。フランスは、折角、普通選挙を実施し、議会制民主主義への道を歩みだしたのに、なぜ独裁政権を支持するのか?
そもそも、ルイ・ボナパルトは、亡命から帰国し、議員となりましたが、世評は「バカ」、それがあっという間に大統領に当選、さらに議会に対しクーデターを起こし、皇帝になってしまうという状況は、亡命ドイツ人には理解しがたいことでした。
そのような複雑な出来事を、マルクスは快刀乱麻で斬っていきます。その時代にはマルクスに匹敵するジャーナリストがアメリカにいるはずはありません。同時代のドイツ人であれば「ありがとう、マルクス。よくわかりました」と感謝するに違いないと内田さんはいいます。
マルクスの文章はこの時代のアメリカにも大きな影響を与えました。南北戦争の北軍の主力部隊は特にマルクスの影響を色濃く受けています。本を出版したヴァイデマイヤーは北軍の大佐でした。時代を理解するには、各国史だけを見ていてはだめだと内田さんはいいます。ここからみるとドイツ革命、ここから見ると南北戦争といった複眼的な見方が必要です。マルクスとリンカーンが同時代であるというのは忘れがちです。


鹿島さんは、アメリカのドイツ移民がアメリカ文化に大きな影響を与えたことを指摘します。移民は数だけで測ると見誤ります。アメリカの文豪、アーサー・ミラーやヘンリー・ミラーはいずれもドイツ人の「ミュラー」さんの子孫。ドイツのフォーティーエイターは政治亡命者で高学歴。たとえアメリカで良い職につけなくても、教育熱心なので、子孫は高学歴となり、文化の担い手のような職に就いていきます。
また、この時代のアメリカはいろいろな国から亡命者を受け入れており、アメリカに亡命したフランス人にはフ―リエの弟子のビクトール・コンシデランがいます。コンシデランはテキサスに理想郷を作ろうとしました。


マルクスはナポレオン三世を理解できない?

鹿島さんはマルクスがナポレオン三世を理解できなかったのではないかと解説します。マルクスの考えの根源は、ヘーゲルの弁証法をもとにした唯物弁証法。マルクスはフランスの右派と左派の対立は理解し、どのようにアウフヘーベン(止揚)していくのか観察していたところ、ナポレオン三世というゴロツキがトンビが油揚げをさらうように出てきてしまった。その変なことを理解するために書いたのがこの本ではないかと鹿島さんは解釈します。


一方、ナポレオン三世の伝記も書いている鹿島さんは、ナポレオン三世にかなり同情的で好意も持っています。 鹿島さん曰く、「ナポレオン三世は何をやりたかったかわからない人」。歴史家のアラン・プレシスは「第二帝政は非常にわかりやすい、ナポレオン三世がいなければ。」といっています。ナポレオン三世はどうもパリを改造し、清潔な、近代的な都市にするということ以外、やりたいことがなかったのではないか。実際、1853年にセーヌ県知事に就任したオスマンは、まずナポレオン三世に呼ばれ、都市計画を示す赤線や青線が引かれたパリの地図を見せられ、パリの改造を命ぜられたということを、自ら記録しています。
ナポレオン三世が都市改造に熱心だったというのには理由があります。ナポレオン三世は二度投獄されたのですが、二回目の投獄の時、獄中でサン・シモンやプルードンの書物を勉強します。サン・シモン主義の基本となるのは、ヒト・モノ・アイディアを循環させ、循環により、経済成長を図ることです。
ナポレオン三世が政権をとったとき、ブレーン(経済顧問)となったのは、サン・シモン主義者のミシェル・シュバリエとフレデリック・ル=プレ。
またユダヤ人の銀行家が経済の中心をなし、金融や鉄道を牛耳ることになります。第二帝政はフランスの歴史の中でユダヤ人が最高権力に近づいた時代です。 この時代の、ユダヤ人を代表するのは、フランスに鉄道を敷設したぺレール兄弟やロスチャイルド家など。ぺレール兄弟とロスチャイルド家はその後バトルをすることになるのですが、このようにバトルがあるのは、ダイナミズムの証左で、活気のある時代であったといえます。


ナポレオン三世はサン・シモン主義を実践した人でもあります。鹿島さんは、パリの街を歩いていた時、モンマルトルの近くのロシュアール通りで、「シテ・ナポレオン」という建物にぶつかります。「シテ・ナポレオン」はナポレオン三世が建てた世界最古の労働者のための団地です。それまで、労働者はシテ島の劣悪な環境に住んでいました。それを、共同浴場や共同洗濯場が整った集合住宅に移したものです。鹿島さん曰く、昔の東大の駒場寮のようなたたずまい。
当時、労働者には贅沢といわれた住宅を建てたように、ナポレオン三世は理想主義者で、労働組合も認めます。
マルクスは『ブリュメール18日』の中でナポレオン三世を大バカ者といっていますが、実はある種の愛情を感じていたのではないかと、鹿島さんは推測します。
実際、マルクスがフランスを見るとき、嫌いなのはティエールに代表される商業ブルジョアジー、それから王党派、プチブル(プチ・ブルジョワジー)。
そして、プチブルの下にいるのがルンペン・プロレタリアートで、マルクスがもっとも憎しみを持ってみているのが、ルンペン・プロレタリアート。なぜ嫌いかというと自分がルンペン・プロレタリアートの階級出身だから。ルンペン・プロレタリアートはルイ・ボナパルトが政権に就いたとき、これに乗じて権力にのっかろうとした。ルンペン・プロレタリアートの一団は、ルイ・ナポレオンが権力を持ったとき、演説会場に行き、最後に「ナポレオン万歳、皇帝万歳」と叫ぶ、「万歳団」のようなものを組織した。マルクスには、ルンペン・プロレタリアートに対して近親憎悪のようなものがあったんじゃないかと鹿島さんは推測します。(その2 に続く)

【この記事を書いた人】 くるくる

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【追記】そらさん写真提供ありがとうございました


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