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バイバイの先に

シャワーを浴びながら、着替えながら、髪を乾かしながら、ベッドに横になりながら、伸ばした指先で空を掴んでは、長いこと癖だった仕草が意味をなさなくなったことに気付いた。

そうか、わたし、髪を切ったんだ。

惰性でずるずると髪を伸ばしている人に対して、ほんの少し、ほんと少しだけ、なんだかなあと感じていたけれど、いざ自分の髪に鋏が入るとなると話は別で、しゃき、しゃき、しゃき、という音を聞いた時、猛烈な寂しさに襲われてしまった。

わたしが軽視していた行為は、ちょっとした覚悟がいる行為だったらしい。

そりゃそうだ。この5年間ずっとロングヘアーを貫いてきたんだ。アイデンティティーと言っても過言ではない。そんなにきちんとケアをして来たわけではないかもしれないけれど、トリートメント帰りのツヤツヤサラサラな髪を触る度に愛おしく感じて、幸せな気持ちになっていたんだ。名残惜しいに決まっている。

とはいえ今更待って欲しいとは言えず、いたしかたなく膝の上で開いた興味もない雑誌に目を落とすと、ショートヘアーのモデルが肩の力を抜いて綺麗に笑っていた。

わたしも、あなたみたいに笑えるだろうか。

別れは寂しい。どんなに強がったってやはり寂しい。

それは乗り馴れた車を売る時も、お財布を買い替える時も、似合わなくなったワンピースを人に譲る時も、冷蔵庫で傷ませてしまったお野菜を捨てる時も、保護した猫を里親に出す時も、Twitterで人にフォローを外された時も、仲の良かった友人と疎遠になった時も、実家から自宅に戻る時も、近しい人が亡くなった時も、きっと、愛していた人と繋いでいた手を離す時も。

それでも、自分を洗練してゆくために、自分の周りを洗練されたものにしてゆくために、より素敵な人生を送るために、別れが必要なこともある。

そして、そうなったからには別れたものに対して執着せず、今の自分の元に残ったものを愛し、守り、時には武器にし、生きてゆくことが大切だ。

それはどんな類の別れにも、同じことが言えると思う。

今はとりあえず、自分や自分の周りに慣れ、伸ばした指先で空を掴むこともなくなり、肩の力を抜いて笑えるようになる日を待とう。

誰かみたいな笑顔ではなく、わたしはわたしの笑顔で。

だってせっかく、こんなに身軽なのだから。


30cm近く切られた髪がゴミのように掃かれてゆくのを視界の端で捉えて、口の中でこっそり、「バイバイ」と言った。

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