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vol.01 演出したファッション写真か、それともスナップか?  フィクションかリアルか。

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このアオザイの写真の初出は、1994年の暮れ、かつて存在したユニークな車評論誌「NAVI」の別冊「OP」創刊号のベトナム特集号がはじまりだ。
発表当時から皆、モデルを使った、セッティングしたファッション写真だと思っていたようだ。僕が偶然撮ったスナップだとういうと、皆一様に驚いた。
そのなかで、一番極端な反応をしたのは、作家の沢木耕太郎氏だった。そのことを僕が知るのはずっとあと、2004年僕が「ロバート・キャパ最期の日」を上梓したころだった。講談社から「国道一号線を北上せよ」が出版されて初めて知った。講談社のフラウで連載していたことは知っていたが、僕のことに触れていることは知らなかった。
実はそのことも僕と沢木耕太郎はクロスして。
僕は最初「ロバート・キャパ最期の日」は講談社に持ち込んでした。ところが、沢木さんの「国道一号線」と被るので断られた経緯がある。結局僕のキャパの本は東京書籍から出版された。

沢木は僕の世代にとっては、なんといっても「深夜特急」だ。前の世代の藤原新也「インド放浪」に続く、バックパッカーの神的バイブルだった。

1980年代後半、沢木耕太郎が突然ロバート・キャパ研究家、リチャード・ウイーランの「キャパ」の伝記の翻訳を始めた。その顛末はたしか「SWITCH」誌で知っていた。そこには伝説キャパではなく、素顔のキャパが存在していた。ウイーランをより、沢木はさらに深く「崩れ落ちる兵士」の真贋を語られている。

1994年に初めて僕はベトナムを訪れた。
行く前はまったく期待をしていなかった。今でいえば北朝鮮のような、世界から孤立した国だったからだ。
フランスやアメリカとの戦争に勝利はしたものの、貧しく悲惨で破壊されつくされた国だと思っていたからだ。
そんな僕が、ベトナムに惹かれ、それまで経験したことのない執着を感じたのはなぜなんだろう。

僕は篠山紀信氏のアシスタントを経て、1975年フリーランスのカメラマンとして独立した。
最初の数年は雑誌を中心に、師匠がそうだったので自然とさまざまなジャンルに挑戦した。実際は、歌手や女優、タレントを撮ることが多かった。
その後ファッション写真、広告に進む。CMもやり、NUDEもドキュメンタリーとなんでもやった。
フリーになり10年、
1985年頃になると、自分が何をやりたいのかわからなくなっていた。
22歳でアシスタントになった時、24才でフリーになるつもりだった。いろいろ事情があってフリーになったのは26才だった。いまでは十分若いけれど、そのころとしては決して早いほうではないので焦りがあった。

仕事を初めて知ったことは、広告はビジネスであり、あくまで広告とは、フィクションだということだ。

エディトリアル(雑誌)はリアルだ。
ファッションや芸能グラビアを含めたそれがどんなにエンターティメントだとしても、エディトリアルは、リアルな日常の発露、現実の表現、ジャーナリズムに近いものだった。
広告のように、写真や映像、イラスト、言葉、コピーなどを屈指して、「商品」売るために、まるでを現代アートのようにコンセプトを論理的に構築し、宣伝する。
その表現は、ジャーナリズムとは根本的な違っていた。
今のSNS誕生以前は、広告は独占的な位置にあった。僕が写真学生のころは、「商業写真」と呼ばれていた、それが「広告写真」、アドバタイジングと呼ばれるころになると、テレビメディアと連携して強大な権力を持っていった。

広告は共同制作だ。ボスは僕より年上のアートディレクターが多かった。何かを期待されていたが、僕にはよくわかっていなかった。フィクションを求められていたがしっくりこなかった。その上、僕は年上の男たちと仕事をすることが不得意だった。
アシスタント時代、師匠が広告の仕事にまったく興味のない時代だったので、フリーになるまで、アートディレクターやコピーライターの仕事をリアルには理解していなかった。なにしろ師匠は、コピーも構成も、全部自分でやってしまう。
30代になり、広告の作法を知るのは、同世代と仕事をするようになってからだ。
広告の醍醐味は、お金だ。ギャラがいいのは当然として、何より、大きなお金を預かった命をかけた誰かがいるというスリルな仕事だ。
たった100円の価格の商品を、何億もかけて宣伝する。そんなことに命ががかかっている。成功するか失敗するか、真剣で、必死な人が中心にいる、フィクションとしてのスリルだ。アートディレクターやプロデューサーはそういう人たちが多かった。
広告カメラマンはチームのなかの、その力点の強弱はあるがそのなかのひとりなのだろう。
エディトリアルは違う。その責任は、カメラマンが多くを担っていた。
何しろ広告は匿名(業界内で知られている)だ。
エディトリアルは、撮影者の名前が記されている。だからだめなら馘。かわりはいくらでもいる。もし失敗しても、決定的なことではなければ、一週間、1ケ月おとなしくしていればいいともいえる。運がよければ何度かチャンスは与えられるだろう。
正直、雑誌の編集長とよくトラブった。かわいくないんだろうな。あまり好かれなかった。年上のアートディレクターにもあまりすかれなかった。

連載vol.02 に続く 1985年 ニコンサロン新宿京王プラザで写真展を開催した。

サイゴンの昼下がり オリジナルプリントを販売しています。

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このマガジンは、ノンフィクション「ロバート・キャパ最期の日」の本文と本には載せられなかった写真など、きめ細かく紹介してゆきます。少なくても20回ぐらいのマガジンになるので、まとめ買いのほうがお得です。

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