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vol.06 RobertCapa「崩れ落ち兵士」と「サイゴンの昼さがり」のアオザイの写真は、対極にある。

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このアオザイの写真と、そして沢木耕太郎がずっと追いかけている、ロバート・キャパの「崩れ落ちる兵士」と、とても重要な写真の本質があるような気がしている。
「アオザイ」と「崩れ落ちる兵士」は対極の写真だ。

「アオザイ」の写真の、作られた感、教科書どおりの安定した構図、光のグラデーション、ウォーキングのような歩幅、この決まりすぎ感は、美しいけどリアリティの欠如ともいえる。これが演出された写真かどうか、前後の写真を見ればわかる。この1コマが、異常で、あとの4コマは普通だ。

簡単に演出写真というが、演出写真を撮るときの最大の注意点は、フォルムではなくリアリティだ。だからもしアオザイの写真がセッティングされたものだとすると、このように「決まった」ポーズ、動きは基本選ばないと思う。本当に存在したかのように撮るのが、演出写真の基本だからだ。リアリティは未完成のほうが感じられる。

不思議なことに、この写真の周辺、プリント時のネガキャリア―のワクだと思える。さもオリジナルのフレーミングだと主張しているようだ。この枠はさまざまな写真で見ることができる。

キャパの写真は、ブレているし、構図もずれている。ただ、わざとずらしている感はない。動きのあるものをフレーミングする時の自然なずれだ。粒子の荒れた、モノクロームもリアリティがある。作られた感じがない。演出したとしても、倒れる瞬間などは、物理的な運動で、偶発的ともいえる。
今の時代なら、連写でいくらでも撮ることが可能だ。僕も銀塩時代は、連写することは、めったになかった。巻き上げがモータドライブで十分だ。手巻きはぶれやすい。
「崩れ落ちる兵士」の前後の写真を見ると、この写真はごく短い時間で撮られているように思える。写真を撮るための訓練中に、流れのなかで撮っている。いちいちポーズをつけているようには見えない。
この頃ムービーも撮っている。ムービーは、ドキュメンタリー映像でも、写真のような、非演出はほぼない。はじまりがあって、終わりがあるからだ。「用意スタート」「カット」
もうそれだけで演出だ。しかも編集で時間と空間を組み替えるモンタージュもある。被写体に許可を得たポートレイトや、商業的な写真は全て演出されている。

フィルム時代、たくさん撮ったスナップ写真を、覚えていることはまれだ。撮ったことは覚えていても、どんな風に写っているかは漠然としている。現像してコンタクトプリントを見て、引き伸ばしをする。そこではじめて自分が撮った写真を確認する。無意識で撮ったものもあるだろう。

キャパの「崩れ落ちる兵士」は、見るからに頭に銃が貫通した瞬間に見える。そして構図は、ずれ、微妙にブレている。そう「リアリティ」が存在しているのだ。それはキャパも言っている。完璧じゃないほうがリアルだと。
演出されたものだとしても、写真のリアリティは頑強に存在する。酒を飲めない俳優が、うまそうにビールを飲む。本当ではなくても、「そう見える」ことが、写真では重要なのだ。
「崩れ落ちる兵士」の異常性は、被写体を近距離(数メートル)から正面で捉えていることだ。
銃弾が飛びかう中で、このポジションで写真は撮れない。飛びかっていないからこのアングルで撮れるのだ。もしくはノーファインダーで偶然写る。
一枚の写真は、何も語っていない。一枚では時間の経過がないからだ。
でも前後の写真をみれば一目瞭然だ。
この写真が、偶然のスナップ、決定的瞬間であるのかはわからない。
演出しているかどうかもわからない。行動の演出は可能だ。だが、動きのなかでどのように写っているからは分からない。写真は真実を映すわけじゃない。目の前の出来事を偶発的に写すことは可能だ。

沢木耕太郎氏は、10年ぐらいまえに、この写真をゲルダ・タローが撮ったとNHKまで巻き込んで説いた。写真のフォーマットがブロニーサイズじゃなければ撮れないと言うのが根拠だ。
写真は、自由にトリミングできるし、オリジナルのネガがなければ、どこで、どのようにトリミングしたのかは絶対にわからない。
現代では、写真家はノートリミングでプリントすることが普通だが、昔は印画紙のフォーマットに合わせてトリミングすることが多かった。

単純に、2:3とか4:3とか正方形とか4:5とかは印刷やプリントをみただけじゃ決められない。いくらでも手を入れることが可能だ。
キャパがその日、
35㎜で撮った写真がかなり公開されている。それらの写真を並べてみると、背景の描写、遠景の写りかたが、「崩れ落ちる兵士」を含めて、同じカメラ同じ撮り方で撮っているロバート・キャパが想像できる。それは写りかたの問題だ。ゲルダタロー説はナンセンスに思える。彼女は、ローライフレックスではなく、コッホマン社製レフレックスコレレを使用していた。ブロニーフィルムを横送りする。ファインダー内は左右逆に映り、動きのあるものに適しているカメラではないない。

ロバートキャパが「崩れ落ちる兵士」をしかけたわけじゃない。しかけたのは編集者だろう。
22歳のハンガリー生まれの難民パスポートしかもっていないユダヤ人。
降ってきた栄光を、世界ナンバー1の戦争写真家という称号を、彼は否定しなかった。彼は事実、眼のまえの出来事を撮ったのであって、それは嘘でない。そしてその写真は、そのように見える奇跡だ。
そしてそのカッコつきの「栄光」は、本当にNO.1の戦争写真家であることをその後も撮っている。
ひとつは立場を喪失した、1944年シャルトルで撮った写真。

もうひとつは、Dデイの写真。

「崩れ落ちる兵士」だけでおわるのなら、RobertCapaは生まれていない。すぐに消えただろう。その後も、写真の歴史のなかに燦然と輝く写真を撮り続けたのだから、やはり「崩れ落ちる兵士」がRobertCapaを生んだのだ。

RobertCapaの著作権について





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