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09 日本滞在中、キャパの通訳をした、 金沢秀憲に会いにゆく!

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1954年カメラ毎日創刊2号 7月号
金沢秀憲からみたロバート・キャパ
金沢がこの記事を入稿したのは5月15日、
キャパは5月25日に地雷を踏み亡くなっている。

金沢秀憲キャパ1_1280
1954年 カメラ毎日7月号
金沢キャパ2_1280
1954年 カメラ毎日7月号
金沢キャパ31280
1954年 カメラ毎日7月号

1954年、カメラ毎日の創刊記念に招待したキャパの通訳として世話をしていた金沢秀憲。彼はもともとはニュースカメラマンだ。戦争中、上海、フィリピンと支局をめぐり、英語が堪能だった。そんな彼が出会ったロバートキャパはどんな人間だったのだろうか。

↓中央がキャパの通訳中の金沢秀憲氏

熱海?800
1954年 カメラ毎日7月号

50年後 2004年3月

福岡の老人ホームに入所しているとわかり金沢秀憲に会い行くことにした。金沢は、1912年(明治45年)1月8日生まれ。92歳。1954年当時42歳。
キャパも生きていれば90歳だ。(2004年時点)1954年当時40歳。
毎日新聞社側の情報では、金沢は高齢で体も弱り、ボケも入り取材はほとんど無理だろうと言われた。
実は奥さんが先にボケてしまい、面倒を見ることができないので、一緒に施設に入ることにした。
数年前、まだ頭がはっきりしている時に、毎日新聞社の写真部に昔の話を取材してほしいので来てほしいと連絡があった。
しかし誰も取材に行かなかったという。
半年ぐらい前に訪れた毎日の関係者は、金沢はすっかり弱っていて、すでにボケているという話だった。
僕は、金沢が書いたキャパの文章が膨大にあるので、
ただ引用するより生きているならコミュニケーションがとれなくても肉声を聞くことに意味を感じていた。それに僕がカメラマンだからだろうか。ポートレイトを、その姿を記録できれば十分だとも思えていた。

2004年3月8日 月曜日 福岡

地下鉄に乗り、福岡、西新駅からタクシーで30分、佐賀県の県境に近い場所にある養老院につくと昼食を終えた金沢が、車椅子を職員に押されてやってきた。
背は曲がりやせていてちょこんと車椅子に座っている。
僕のことを毎日新聞の人間だと思い目を輝かせ「部署はどこだとか?」「誰々は知っているか?」とか何度も聞かれた。
僕が強く否定するとそれまで車椅子から乗り出していたからだが、背にもたれ、視線が壁のほうに泳いでしまった。
僕は彼のためにも一瞬、嘘をついたほうが、取材がやりやすいかなと思ったができなかった。
「君は、こんなところまで、何しに来たんだ?」
僕は、金沢に何度も大きな声で、
「ロバート・キャパ」と言った。
しかし彼は「知らない」と取りつくしまがない。
耳が遠いのかもしれないと思い、耳元でどなったが、
やはり「知らない」と首を横にふり、
毎日新聞から聞いてきたとおりまったく空振りだったなと、
暗澹たる気持ちだった。
僕がいつまでも「ロバート・キャパ」と繰り返していると
しだいに金沢は不機嫌になった。
僕たちは自動販売機とテレビが置いてある、
殺風景なホールの簡素なテーブルに並んで座っていた。
僕は自動販売機で買った、ミルクティを二つテーブルに置いていた。
金沢は車椅子に座りながら僕が東京で買ったヨックモックのクッキーを食べている。
そして「これはうまい」と言った。
「こういうのはこんな田舎にはない」と言った。
僕はキャパの写真集を見せた。
金沢は老眼鏡を胸ポケットからだして写真集をテーブルに置いたまま、少し振るえる手でゆっくりとみた。
そして少し驚いて、「これはどこからでているのか?」と聞いた。
キャパの写真集はたくさんありますよ、というと、
「キャパなんて誰も興味を持っていないんだよ」と返した。
そんなことはないと、反論しても僕の言い分は聞いてはくれなかった。
僕は何をどうやって聞き出せばよいのか途方にくれながら、分厚いフィールドノートをめくった。
そして真っ白なページに大きな字で金沢秀憲と書きとめた
僕はまだなにも書くことのない、ページをぼんやりと眺めていた。
すると横に座る金沢は、のぞきこみ僕の名前じゃないかと言った。
なんで僕の名前も知っているのか、と聞く?
金沢秀憲は本名ではないからだ。彼の本名は金澤喜男だ。
施設では、若い介護の女の子に「よしおちゃん」と呼ばれていた。
彼は懐かしそうに自分の名前を何回も口の中で読んだ。
僕は、初めて彼から反応があったことで、
当時のカメラ毎日や毎日グラフのさまざまな記事や資料を広げ、
そこに書いてある金沢秀憲という文字を指差した。
「これは全部金沢さんが書いたものでしょう?」
というと、誇らしげに「そうだ」と答えた。
そして自分が書いた記事を一生懸命読んでいる。
僕はひらめき、雑記帳をだして、質問を紙に書くことにした。
すると金沢はそれを何度も丹念に読み、少しずつ答えてくれた。
彼は耳からの理解力は衰えていても、
文字を読解する能力は少しも衰えていなかった。
しかし開口一番、金沢は、
「ロバート・キャパのことなんて、調べても、なんにもならないよ。無駄だから、やめなさい!」
と大声を上げた。その言い方は、声が裏返るほど大きな声だった。
金澤はたんたんと話すことはできなかった。
言葉をひとつひとつ区切って、力を込めて話した。
僕は、会うまで金沢は、キャパのことが大好きで、この話題になると喜ぶと思っていた。ところが金沢は
「キャパは、写真の技術も、理論もない、ただのいい男だったよ」
と言った。
「だから、僕の話を聞いても、無駄だよ、言うことは、何にもないよ」という。
僕は予想に反してキャパの話題を喜ばない金沢の顔を見た。
金沢は続けた。
「だいたい、ロバート・キャパのことなんて、誰も知らなかったよ。唯一、伊奈信夫(写真評論家)ぐらいだったかな、キャパをよく知っていたのは」
キャパが来日した当時日本で、どのくらい知られていたかは不明だが、写真関係者のごく一部の人以外誰も知らなかったというのは本当かもしれない。
招待した毎日新聞はなんとかもりあげようと努力したが、金沢に言わせると、社内の協力体制も全面協力からは程遠かった、という。
新雑誌たちあげのプロモーションに、
欧米の有名カメラマンを連れてきたぐらいの理解だったという。
毎日新聞社のカメラマンのなかでもロバート・キャパを知っているものは少なかったという。
当時二十六歳、金沢の写大の後輩でもある写真部に入ったばかりの米津孝は、ロバート・キャパが来ていることは知っているがそれほどの興味はなかったという。
後に彼はベトナム戦争時代サイゴンに駐在し、
一ノ瀬泰造がヘリコプターから降りる瞬間のポートレイトを撮っている。
ベトナム戦争で多くの写真を撮った報道カメラマン石川文洋はまだ十六歳だった。そのころ毎日新聞社で給仕をしていた。そのときはキャパのことをまったく知らなかったという。
キャパを知ったのはその数年後に出版された「ちょっとピンぼけ」を読んでからだ。
カメラ毎日の創刊号には、キャパの写真がモノクロ4ページで紹介されている。しかしまだ日本で知られていないキャパを紹介するには、かなり不親切
な写真だった。
戦争の写真が一枚もなく、話題になったピカソの写真もない。いったいどういう意図でそれらの写真を掲載したのかわからないが、よい写真かもしれないが、キャパの写真のなかでも際立った写真ではない。それはすでに世界的な写真家として認知されていると思っている、マグナム側の思い込みかもしれない。
しかし日本はキャパの立場から言えば、敵国だ。それは僕は1998年にキャパの死の場所に花でも手向けようと思った時、2004年、今年のキャパ取材のおりにも、キャパのことを知っているのは、ドイツに留学していた、ベトナム写真家協会の会長だけだった。同じように、1954年の日本の写真界も敵国のカメラマンを知らないのは当然だったのだろう。キャパを有名にした戦争の写真のことはよく知らず、ライフ誌で活躍するマグナム会長として招待たの
だろう。
ただ時代背景から考えると、戦後十年近くたち、日本はようやく復興しまだ
戦争アレルギーのようなものがあった。戦争を思い出させるものなんてみたくないといった配慮もあったかもしれない。
しかしながらキャパの代表的な戦争写真を紹介することもなく、マグナム会長といった肩書きだけでどうやって読者に共感してもらうつもりだったのだろうか。
養老院の食堂で金沢は、一言一言声を張り上げ、創刊号のキャパの特集が、読者たちにまったく響かなかったと言った。反応がなかったのだ。。そして二号目の、発売されたときはすでにキャパは地雷に倒れていたが、キャパが日本で撮った写真の読者の評価も低かった。
キャパが亡くなったあと編集した三号目でようやくキャパのことを認識したようだが、日本で撮った写真は8月号にも載ったがやはり読者の反応が芳しくない。
当時の日本のアマチュアカメラマンにとってキャパの撮影スタイルと写真は、理解できなかったようだ。
まるで現代のカメラマンのような、何気ない日常をストレートに撮るキャパの作品や撮影スタイルはまったくアマチュアには共感されず、反応もなかった。
キャパの死によって、5月3日から予定されていた九州や東北を行脚するスケジュールは急遽キャンセルになりカメラ毎日のもくろみは大きくはずれた。
金沢はキャパの招待は失敗に終わったと言った。
そして1952年に出版された「決定的瞬間」(TheDecisiveMoment)
が話題のアンリ・カルティエ=ブレッソンを呼べばよかったという。
ただ毎日新聞は、インドシナで撮ったキャパの写真を世界で最初に使う権利をもち、早速6月1日から8回にわたって、夕刊に連載している。その写真の評価も高くなかったと金沢は言った。
僕は金沢のキャパに対する少し屈折したことばに、
現在の老いた境遇が関係しているのかと思った。
しかし東京に戻り、かつての金沢を知る人に聞くと、僕の印象の金沢と少しも変わらないという。
金沢はキャパに惹かれすぎたのではないだろうか。
ことばとは裏腹にキャパを心底好きになっていたのではないだろうか。
そして金沢はキャパが死んだのち、
日本で撮ったキャパの写真をまとめ写真集「THE EYES FORGET]
を作ろうと企画した。
それはキャパが望んだことだことだった。
ところが社内では売れないと大反対にあってしまった。
写真部での評価も低く、アマチュアにも人気のでなかったロバート・キャパの写真を出版しても、絶対に売れないというのだ。
キャパを評価したのは評論家の伊奈信夫しかいなかった。

金沢04
2004年4月  金沢秀憲氏 福岡の施設にて


日本で「ちょっとピンぼけ」が出版されたのが死の2年半後の
1956年の11月だ。
金沢奔走したときには、日本から仏領インドシナに行って地雷を踏んで死んだ悲劇のカメラマンとして有名だっただけだ。
今でこそロバート・キャパは神様のようなものだが、当時はまだ日本においてロバート・キャパの伝説は生まれていなかった。
当時のアマチュアカメラマンが、キャパが撮った日本の写真をまったく評価しなかったのはなぜだろう。キャパは当時の日本のアマチュアが町でスナップする写真とほとんどおなじように撮った。
そこがロバート・キャパの真骨頂でもあるが、アマチュアはまるで自分たちとおなじレベルの写真をみて評価しなかった。
金沢はなんどもブレッソンを呼べばよかったといった。
今キャパの写真を見ると、そのスナップワークの確かさと、
とても外国人が撮ったとは思えない、視点に驚かされる。
これは特別日本で獲得した視線ではなく、
キャパはもともとその国のなかに自然に溶け込む才能を持ち合わせていたのだろう。
当時の写真雑誌を見ても、すでに報道写真やスナップは主流ではなく、
高度成長期の豊かになった日本では洒落た写真が主流になり、
写真撮影のテクニックも高度になっていた。
何の技もつかわない、
スナップ写真に驚くアマチュアは少なかった。
誰もが、ありふれた日本の日常の、庶民の素顔など見たくなかったのかもしれない。
それよりファッションや女優たちの写真が主流になり、
金沢がキャパの写真をまとめようと奔走したとしても、
毎日新聞のなかにも味方が誰もいなく、
ひとり「キャパ、キャパ」と言ったことに、いつしか傷ついていたのかもしれない。

金沢03
金沢秀憲 2004年4月 恵風苑 


その金沢がカメラ毎日編集長時代、
ひらの編集者山岸章二に自由に編集権をあたえ、立木義浩、高梨豊、篠山紀信、大倉俊二、沢渡朔、森山大道など当時の若手写真家を大抜擢した、カメラ毎日の革命的黄金期を作ったことは有名な話だ。
金沢が編集長時代のその数年間だけがカメラ毎日の革命だった。
金沢は僕に、写真は山岸章二、メカは佐伯恪五郎に全部任せたという。
編集長になった金沢は、東京オリンピック後の浮かれた時代に、
ロバート・キャパのような報道写真の時代が終わっていると情熱を失っていたのかもしれない。いや、日本の写真界が新しい方向に確実に向かっている時代だ。だからこそ金沢は夕方5時になるとさっさと銀座に毎日のように飲みにでかけてしまい、編集権を投げ出していた。
最も責任だけは、取らされ後始末に奔走したという。
実際の金沢はキャパの本質を見抜き、惹かれてしまった彼が、時代と全くシンクロせず、大きく傷ついたのかもしれない。
僕は、金沢に「ロバート・キャパなんて誰も興味がないんだから、こんなことをしてないで、東京でちゃんと仕事をしろ」と一時間以上も説教された。
ただでさえ困難な会話に疲れていたので、
僕は黙って聞いていた。
僕は難しい取材を予想して、二日間の取材を予定していた。
しかしすでにくたくたになり、知りたいことは十分聞けたし、
写真も撮った。だからもう翌日の取材はやめようと心に決めた。
帰り際、事務所には、もう十分取材できたので明日はこないと伝え、タクシーを呼んでもらった。
それでも福岡のホテルに戻り、夜の町を歩いていて、
そしていくつか金沢に聞き逃していたことを気づいた。
いやそうではない
僕はその日一日で、少しずつ心を開いてくれた金沢に、
少しも感謝していない自分に気がついていたのだ。
別れぎわ、疲れ果ててきちんと挨拶できなかったことを悔いていた。

金沢02
金沢秀憲 2004年4月 恵風苑 

結局翌日、
福岡から一時間バスに乗り、会いに行った。
金澤はまた来たのかと驚き、あきれた表情をしたが、
前日より格段に視線は強くなり、そして前日と同じようにぼさぼさだった白髪も、僕の顔をみてなでつけだした。
そしてベレー帽を出してかぶった。
僕はそんな金沢の変化を外で撮りたかったが、
金沢は風があるからいやだといった。
しかたがなく明るいがガラス窓に接した場所で撮ることにした。
金沢はあいかわらず、
「君はものずきだなあ、君みたいなやつがいれば、キャパの写真集も作れたのに」と言った。
そのとき僕は少しうれしくなった。
結局夕方まで僕は金沢のそばにいた。
別れ際は、金沢は少しさびしそうな顔をした。
やはりちゃんとした挨拶はできなかったが、
分かれてから振り返るともう違う方向を見ていた。
その視線は壁の上のほうに止まっているのが印象的だった。

金沢01
金沢秀憲 2004年4月 恵風苑 

Robert Capa最期の日
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このシリーズは、全部で20回以上続きます。
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このシリーズは、完成形ではありません。半公開をしながら、日々、調査したことを反映し、ロバートキャパの晩年、「失意の死」を検証することです。本当にキャパは、行かなくてよい戦争にゆき、死ななくてよい、汚点だったのでしょうか?そのため、キャパの自伝の、公式版でも非公式版でも日本滞在と、ベトナムでの死について深く調査はされていません。
キャパの死の土地は、1954年から僕が取材した2004年まで、市街地化したベトナムでも、唯一その場所だけが残っていましたが、僕が取材した半年後韓国の靴工場になってしまいました。キャパが最後に撮った場所は、今はもう存在していません。僕がその場所を特定することを待っていたかのような奇跡でもあります。

#1 「ロバ―ト・キャパ最期の日」をnoteで書く理由。
#2 「崩れ落ちる兵士」は、FAKEか? 無料

ロバート・キャパ最期の日
01 ロバートキャパ最期の日 インドシナで死んだ二人のカメラマン
02 キャパの死の場所が見つからない 
03 ロバート・キャパ日本に到着する
04 ロバート・キャパ東京滞在
05 キャパと熱海のブレファスト
06 キャパ日本滞在 焼津~関西旅行 生い立ち
07 1954年4月27日 カメラ毎日創刊パーティ
08 ロバート・キャパ、日本を発つ 4月29日~5月1日
09 キャパ日本滞在中 通訳をした金沢秀憲に会いにゆく
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