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05 キャパと熱海のブレクファスト!

 ロバート・キャパ最期の日  
日本滞在の真実!
4月16日㈮ 熱海でのミステリー。

キャパ一行は、午後の列車で熱海に向かっていた。当時熱海は東京から特急で1時間半、東京の奥座敷と呼ばれ、日本でも有数の歓楽街だった。遠い昔から温泉地として有名だったが、丹那トンネルが開通してからは爆発的に観光客が増えた。昭和25年に熱海全体が消失した大火のあと、大型ホテルが次々と建設され、熱海は日本のモナコのような景観になっていった。交通の便もよく、政治家、実業家、芸術家、作家などの別荘も多くあった。
そんな昭和29年ごろの熱海は戦後の最盛期であった。川添浩史は歓迎もかねて来日早々の週末キャパを熱海に連れてきたというわけだ。

キャパの熱海行きは、いろいろなミステリーがある。
カメラ毎日に掲載された写真が、熱海のケーキ屋さんに飾ってあった。
そしてある時、僕の写真展のおり、ちょうど同じころ熱海ホテルに泊まった家族が、僕のところに訪ねてきてくれた。ファミリーの歴史が、キャパと重なり合ったことを喜んでくれた。

IMG_0007熱海ホテル1280

2004年 熱海ホテル跡の敷地 伊豆山


熱海子供600
ⒸRobert Capa カメラ毎日より転載


午前中東京は晴れていたが熱海の空は暗く、少し肌寒かった。平日で閑散としている熱海の町をキャパはぶらぶら歩きながら写真を撮った。途中雨が降り出した。大きな傘をさして歩く小さな兄弟を撮影した。
早めに撮影を切り上げ、近くの温泉に入りスコットという川添が懇意にしている洋食屋で夕食をとった。キャパはステーキを食べている。
そこで撮影されたという「コックと奥さん」とタイトルのついた写真が、「カメラ毎日」」創刊2号に紹介されている。そこにはこんなキャプションが添えられている。

1920コックと奥さん
ⒸRobert Capa カメラ毎日より転載


「熱海で夕食を撮るためレストランに飛び込んだ。なかなかこざっぱりとしているレストランだった。湯上りの乾いたのどをハイボールでひといきついて、好物のビフテキができるのを待っていると、隣に座っていた美しい日本婦人が口紅をなおし始めた。食卓を挟んで右と左で、女は化粧をして、コックは熱心に私の食事を作っている。なんでもない姿だが一枚の写真に写しこむとおもしろいコントラストだった・・・」
キャパは食事を終えてから、被写体を求めて、川添たちをともないながら歓楽街を歩き回った。熱海の夜は、どてらを着た温泉客で射的場もパチンコ屋も賑わっていた。部屋が狭かったのと暗かったので、キャパはキヤノン4Sbカメラに、フジノン35mmF2の広角レンズをつけた。レンズは絞り開放で40分の1秒を切った。

熱海のパチンコ
ⒸRobert Capa カメラ毎日より転載


写し終わってからキャパは射的をしてみたが、これは失敗した。ところがパチンコのほうは玉が出すぎて困るほど上成績で、すっかり愉快になった。
その後キャパは遊郭のある糸川べりに行く。
「夕食を早めにすまして、フジノン50mmF1.2の大口径レンズをキヤノンにとりつけて夜の街へでた。糸川べりの色街で、なんとかものにしようとねばったが、雨がぽつぽつ降り出してきたので一度はあきらめてレストランに戻った。しかしどうしても心残りだったので、雨が上がったので、もう一度引き返した」。そのとき男が建物の塀によりかかり、じゃれあうように女が誘っている姿を、キャパは遠くから気づかれないように素早く撮影した。
これもカメラはキヤノン4Sb,レンズはフジノンの明るい35mmF2.0、フィルムはイルフォードのHP3という高感度のフィルムを増感して使用していたと金澤は書いている。

熱海
ⒸRobert Capa カメラ毎日より転載


キャパが訪れた50年後の2004年4月 僕は、熱海を歩く

川

僕は、熱海糸川遊歩道を歩いていた。
かつて遊郭がひしめいていた昭和29年、30年ごろの熱海温泉最盛期、熱海の客は旅館に泊まっていたとしても、夜になると浴衣姿で、下駄をひっかけ芸者衆と、三々五々街のなかをほろ酔い気分で歩きまわったそうだ。そしてダンスホールに向かう。
現在は、大型観光ホテルばかりになり、客が外に出てお金を使うことのないように、バー、カラオケ、土産店などの設備が完備され客を囲い込む。
大型のホテルが進出してからというもの、夜の街を徘徊する客がめっきり減ったという。
昭和33年に売春禁止法が施行されてからは、その傾向がいち段と進んだ。今や熱海の街は、かつての面影はなく、壊されたホテルと空き地が目立ち、土曜日や日曜日の夜でも街を歩き回る客は少なく閑散としている。
僕は仕込みをしている魚屋の店先に立った。古い構えの魚屋だったら昔のことを知っていると思ったからだ。ご主人の村越一彦に、50年前の糸川の様子を聞いた。

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当時は週末になると、各遊郭から刺身の注文が次々と舞い込み、かなり繁盛したそうだ。村越はまだ若く御用聞きに一日走り回ったという。僕は、キャパが糸川べりで撮った写真を見せると、そういう話は今井写真館に聞きなさいと教えてくれた。あそこは熱海の写真について何でも知っているからと。
今井写真館は、明治30年創業。すでに106年の老舗だ。初代今井徳次郎からはじまり、2代目真三、そして今は三代目、今井利久が経営している。今井は熱海のあらゆることを知っているので、裏で策謀する政治家などにはある意味とても怖い人らしい。百年間のコレクションは多くの有名人を含み、さまざまなところで発表されている。

その今井にロバート・キャパのことを聞くと、確かに彼は熱海に来たという。それにキャパが立ち寄った店もありキャパの撮った写真もあると言った。僕はさっそくその店を訪れることにした。

熱海ホテルカラーDM

熱海ホテル 伊豆山 正面すぐそばの岬の向こう側が熱海の街だ。

1954年4月17日 土曜日の朝、
熱海浜通りにあるフランス料理屋モンブランに、コネクションのあった熱海ホテルから電話があった。外国人客が朝食を食べに行きたいというのだ。
熱海ホテルはヨーロッパアルプスにでもあるような、三階建ての美しい熱海唯一の本格的な洋風ホテルだった。
大正11年、帝国ホテル副支配人だった岸衛が建てた。彼は後に第5代熱海市長になった時、給料を1円しか受け取らず、ワンドル市長と呼ばれた。ロシア革命後、日ソ会談に後藤新平とヨッヘがここで秘密会談をした。
今井写真館が撮った、蒋介石と岸衛の写真もある。
戦後アメリカ第一騎兵師団に、樋口旅館、野村別荘とともに熱海ホテルは接収された。29年にはすでに返還されて日本人も宿泊できるようになっていた。2004年には、国際興業が土地を所有しているが、建物は老朽化が進み取り壊され空き地になっている。

IMG_0052熱海
IMG_0001_1280熱海ホテル跡2004

2004年 熱海ホテル跡


キャパ フランス料理屋モンブランにやってくる。
4月17日 土曜日 朝10時
開店したばかりのモンブランに、カメラを二台持った、眉毛の濃い黒い髪の外国人がラフな格好でやってきた。口元のタバコをいっときも離さず、一緒に着物姿の背の高い美しい女性を連れていた。もうひとり新聞記者が一緒だった。その外国人はロバート・キャパという有名な写真家だと、新聞記者が教えてくれた。本当は新聞記者ではなく「カメラ毎日」の編集者、金沢秀憲だ。
その店のおかみ、新田君恵(1922年生まれ)は、キャパが来店したときのことを、昨日のことのように覚えていた。
その外国人は店の外から、中から何枚も写真を撮っていた。キャパは主人の新田道夫に、ビールを頼み、それからベーコン・エッグとコーヒーを注文した。

新田道夫は、戦前横浜のニューグランドホテルのレストランで修業した。日華事変に徴兵され足を怪我してしばらく何もしなかったが、ニューグランドに戻り、君恵と結婚してから熱海に戻った。ふたりとも生まれがこの近くだったからだ。
そしてこの地に住む両親の面倒を見るため、昭和28年、間口二間、奥行き4間の狭い店舗に本格的なフランス料理屋を開店した。
当時日本人は、フランス料理はおろか、ある著名な作家でさえ、
ビーフシチューも知らなかったという。
西洋野菜はわざわざ東京築地まで仕入れに行った。キャベツのように千切りになっていないレタスの付け合わせは食べない客もいたという。
レストラン・モンブランは谷崎潤一郎の大のお気に入りだった。毎日のようにやってきては、さまざまなフランス料理を作らされたという。原書のレシピを読みながら、新田は朝早くから夜遅くまで働いた。


↑今井写真館に、キャパの撮った写真があるというケーキ屋さんに行った。壁にこんなふうに写真が展示してあった。日付もキャパの死の場所も、完全に間違いだ。店を改装したとき、紛失していた写真を見つけた。キャプションはその時つけた。夜というのは、カメラ毎日のキャプションに合わせたのだろう。(もちろん今は、修正されている)

熱海モンブラン4月17日土曜日朝、スコットではない800
ⒸRobet Capa カメラ毎日より転載

写真の真実
遅い朝食時で、本格的なフランス料理を作ることもなく、新田はその外国人にコーヒーを入れた。
キャパはビールを飲み、その後ベーコン・エッグを食べると、何杯もコーヒーをブラックで飲んだ。当時コーヒーをそんなふうにがぶがぶ飲む日本人はいなかったので、妻の新田君恵はとくに印象に残っている。
キャパは連れの女性が化粧をはじめると、横に座り写真を撮りだした。その写真には、店の奥でコーヒーを入れている新田道夫が写っている。コンパクトに口紅、彼女の目の前のカウンターテーブルにはビール瓶が置かれている。新田君恵は、フレームから外れるようにカウンターの内側に身を隠していた。
朝からビールを飲む女性と、この外国人はどういう関係なのだろうか。君恵は興味しんしんだった。その女性は地元の人間ではないし、芸者でもないようだ。すらりとした美人で、品がありモデルだと思ったという。
その写真はカメラ毎日に発表されたが、写真の説明は金澤により事実とは異なることが書かれている。朝から温泉地で女性づれとはいくら当時でもカメラ雑誌には書けなかったのだろうか。キャプションは、前日の夕方、レストラン・スコットでのことになっているのだ。それは金澤の配慮だったのかもしれない。
その後、毎日新聞社からモンブランに写真が送られてきた。ロバート・キャパのサインも添えられていた。当時はそのことが熱海で話題だったが、そのうちすっかり忘れられてしまった。
モンブランはフランス料理屋をやめ、ケーキ店となった。もうそれから40年がたっている。
キャパのその写真は一時紛失したが、ケーキ店を昨年拡張したときに見つかり、店内に額入りで飾った。
その写真を今井写真館の主人、今井利久が見ていたのだ。

IMG_9885モンブラン2004
モンブランの店主と妻

↑新田夫妻、道夫は、あまり話すことができなかった。反面、妻、君恵は、まるで昨日のことのようにキャパを語った。彼女が「絶対に土曜日だった」と思いだした。キャパの熱海一泊旅行の日が確定した時だった。

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熱海?800
撮影者不明 毎日新聞社カメラマン

このパチンコ屋が熱海かどうかは、不明だ。中央の男性が、編集者金沢秀憲である。

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Yano Family 1954年4月

1954年4月 キャパが泊まった時とちょうど同じ4月、矢野家は熱海ホテルに宿泊していた。前年も同じころ宿泊をしている。
熱海ホテルが、当初はまだアメリカに接収されていたと思っていたが、もちろん熱海の人にリサーチしてそう思いこんでいた。すると僕の写真展に、アルバムをもって見せに来てくれたのが矢野さん。このころすでに、普通に泊まれたようだ。
家族の思い出が、キャパにつながっていたことを喜んでくれた。
キャパたち一行は、たぶん朝早く起きられず、起きたときにはホテルの朝食が終わってしまったので、モンブランに連絡がきたのだろう。
モンブランの新田君恵さんは、その日が土曜日だったことを覚えていて、
4月17日朝10時にキャパたちが来たことが判明した。

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*GakkenのCapas Eyeでは、熱海行きが18日朝になっているが間違いです。

PS.日本の記録は、金澤秀憲のカメラ毎日、毎日グラフに細かいデータが書いてあったが、キャパの日本での日程は不明だった。
キャパ写真や、金澤のキャプション、そして1954年の国鉄の時間表、それぞれの地域の天気など総合して、スケジュールを想像した。そうするとたいてい日曜日はオフだったようだ。スケジュールはたびたび変更された。ビキニ環礁の第五福龍丸は、キャパはきのりしなかったようだが、皆に勧められて行き、焼津の街のひとばかり撮っていた。

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1972年 熱海ホテルのパンフレット
かつて文藝春秋社にお勤めだった澤澄子さんに、同僚たちと訪れた熱海ホテルの貴重な案内パンフレットをいただきました。キャパが宿泊してから、18年後。国際興業が経営している時代です。

熱海ホテル1972年澤澄子
3233熱海ホテル1972澤澄子

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Robert Capa最期の日バックナンバー
このシリーズは、全部で20回以上続きます。
お読みになりたいかたは、マガジンで購入すると、今後もそのままの価格でご覧になれます。現在の価格は、¥2000です。
このシリーズは、完成形ではありません。半公開をしながら、日々、調査したことを反映し、ロバートキャパの晩年、「失意の死」を検証することです。本当にキャパは、行かなくてよい戦争にゆき、死ななくてよい、汚点だったのでしょうか?そのため、キャパの自伝の、公式版でも非公式版でも日本滞在と、ベトナムでの死について深く調査はされていません。
キャパの死の土地は、1954年から僕が取材した2004年まで、市街地化したベトナムでも、唯一その場所だけが残っていましたが、僕が取材した半年後韓国の靴工場になってしまいました。キャパが最後に撮った場所は、今はもう存在していません。僕がその場所を特定することを待っていたかのような奇跡でもあります。

ロバート・キャパ最期の日 マガジン 

#1 「ロバ―ト・キャパ最期の日」をnoteで書く理由。
#2 「崩れ落ちる兵士」は、FAKEか? 無料

ロバート・キャパ最期の日
01 ロバートキャパ最期の日 インドシナで死んだ二人のカメラマン
02 キャパの死の場所が見つからない 
03 ロバート・キャパ日本に到着する
04 ロバート・キャパ東京滞在
05 キャパと熱海のブレファスト
06 キャパ日本滞在 焼津~関西旅行 生い立ち
07 1954年4月27日 カメラ毎日創刊パーティ
08 ロバート・キャパ、日本を発つ 4月29日~5月1日
09 キャパ日本滞在中 通訳をした金沢秀憲に会いにゆく
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