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dearly days 横木安良夫日記 01 そのはじまり

インターネットの時代から、日記のようなもの、まあ初期は1999年の自分のHomePage、今も残っているALAOYOKOGI PHOTOGRPHSに日記を張り付けていた。
まだBLOGという言葉は知らなかった。
そのうちNIFTYのココログに書いた。BLOGのはじまりである。
当時はカメラのことなど書くと一日何万ものアクセスがあった。
毎日2000アクセス以上は普通だった。でも驚くこともなく、そういうものだっと思ってた。
その後同時MIXIを始めた。これはFACEBOOKのように、ちがいは匿名だけれど、サークル活動には便利だった。
そしてFACEBOOKの時代になる。
当初は、アクセスも多く、さまざまな人が入ってきたが、
ある時からほとんどミクシーと同じ状態、自分の周りの人からしかアクセスがなくなった。
あれ、僕に常時アクセスしてくれた数千人のひとはどこにいった。
それはソーシャルネットワークが進化したことを、全然知らなかった僕の、おめでたいところである。
本のアフェリエイトなんてものも、初期にやって、自分の著作や気に入った本を張り付けていて、知らないうちに銀行に1万円以上入っていたこともあった。が、あまり気にしていなかったし、
自分のHPにいちいち張り付けるのは面倒で、やめてしまった。
ネットで利益を上げるなんて全く考えていなかった。
その時、あれ、これは使えると気づいていたら、
ブロガーで食えたかもしれない。
FACEBOOKは、当初とても便利だった。
AYPC alao yokogi photo club
とういう僕のワークショップの活動にはなくてならないものだった。
写真展をやれば、その告知をした。多くの人に伝わり、
グループ展をすれば盛況だった。
そして、ある時、FACEBOOKが、
拡散することがなくなったことに気づいた。
それからずっと、何に書けばいいのか探していた。
それがこのnoteだ。
noteのことは、友人である、五味彬に1年以上も前に、文章かくなら向いているかもしれないと教えてもらった。ちょっとのぞくと、たしかにと思ったが、そのころあんまり文章を書く気力がなかったので、パスしてしまった。

それが最近、先輩写真家である田中長徳氏が、noteをやっているのを知り興味を持った。
なぜか昔から彼のことは皆「タナカチョートク」と呼び捨てだ。
これは長幼のなんとかを無視してたわけじゃなく、
1970年代前半、彼は若手写真家の、コンポラ写真家のトップスターで、
有名人だから「タナカチョートク」だったのだ。
デザインセンターで僕が暗室のバイトをしているとき、
一緒に昼飯に行った。僕は古いカメラについて何も知らないが、
オリンパスワイドだったか、変なカメラを持っていた。
今は仙人のようだが、昔はかっこよくてどきどきした。
でも、言葉遣いはいまとおなじように丁寧で、まあ今ほどアイロニーはなく質問すればなんでも教えてくれた。
教えるというか、自説の開陳だ。
結婚式にも参加して、その写真を誰かが撮っているはずだが、ぼくも結構撮って、キャビネサイズの写真集にした。
でも、彼に渡すことなく、どこかないってしまった。渡そうとしたときには、奥さんについてウイーンに行ってしまったので。その後も、会う機会がなんどもあったが、まだわたしてないし、見つからない。
ネガはあるから新しくスキャンしてそのうち渡そうと思う。

こんなふうに僕の日記は、構成されていず、長くて誤字脱字が多いと、よくお叱りをうけた。
それが治ることはないが、だらだらと長い文章が多いので
今後もよろしくお願いします。

PS 長い理由は、僕がこの年齢、前期?中期?高齢者のわりに、タイピングが早いことにある。当然ブラインドだが、ワープロ時代に覚えた。楽器をやっていたので、タイプは、カタカナ入力でそれは、指が覚えちゃう。という広告のとおり、頭に浮かべばすぐ書けるからだろう。このブラインドについてはそのうち書く。

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