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全感覚祭。渋谷で感覚した全て。

10月12日夜、台風19号が列島に上陸した。予報が出てから繰り返される安全確保のニュースや、JRを中心にした運休情報が飛び交い、東京は多くの機能が一時停止した。
過ぎ去ってから確認できる被害は大きく、どうしようもない空からの脅威はその規模や認知と共に刻み込まれた。

全感覚祭。
もともと行く予定ではなかった。祭の存在、大阪での様子をツイッターで確認はしていたが、これにこめられた願いや、汗のにおいを初めて感じたのは、いつ停電になるか分からない緊張感のままスマホをいじっていたあの、台風の夜だった。

遡る。
10月9日15時に中止が決定し、10日15時に中止発表。そして、社会全体が台風への構えを用意する11日17時、渋谷での全感覚祭開催がリリースされた。開催日は台風が過ぎた日曜深夜。たった二日後に開催するという衝撃の発表の翌日12日13時、渋谷の6会場7ステージに30組近い出演者が集まるタイムテーブルが公開された。
中止を発表するという最悪の一日から、たった数日でこの規模の祭りをくみ上げる異常な何かを感じ取らずにはいられない。

「Human Rebellion 人間の反乱」と題されたマヒトのコラムでその発表を読んだとき、こんな人がいるのかと驚いた。同時に、自分の中で薄くなっていたイベントや祭りに対する感覚がフラッシュバックする。自分が生きるために、ぶちかまさないといけない。そんな脅迫じみた衝動をここで取り返さなければ、俺はこのままダメになっていくと察知したのは本能的だった。
台風を過ごした、電気も水も飯もスピーカーも、なんでもある部屋にいたのが、今にも消滅しかかっている自分自身だったと気付いた。
縮小を重ね続け、誤魔化そうとしていたけどやっぱ無理。完全にアテられた。

もう一度、全てのマヒトのコラムを読んで、最低限の体力を回復するために寝た。風のうなる音が全く気にならなくなっていた。

***

これに行かないなんて嘘だろ。
その気持ちで熱は引いたけど喉だけは痛いまま、23時の渋谷。
QUATTROについたときに驚愕した。最初のアクトGEZANを見に来た人間の列が、無限大ホールを回って天下一品まで来ていた。ABCのビジョンあたりから全員、全感覚祭に訪れる人だった。
様々なひとが来ていたと思う。12日から参加するつもりだった人、GEZANのファン、俺みたいな直感のやつ、フリーライブの匂いに惑わされた勢、祭を感じ取った者。それでも、祝日前の渋谷とはいえ、あれだけ長いIDチェックの列に並ぶ人間は、絶対にこの日が持つ意味に共鳴していた。
IDチェックは24時半に打ち切られた。渋谷中といっていいライブハウス全体のキャパがあっという間に埋まり、あぶれた人たちが深夜の渋谷を徘徊したと後で知る。めがけてきた奴が1万人にのぼった、とか。

全感覚祭の開催が発表された当時、マヒトはコラムをこう締めくくっている。

食べて、踊るのはあなたで、その主人公はあなた自身。わたしたちはその街に電気を通す導線になる。人が笑うのに権力はいらない。

渋谷に張り巡らされた導線が、中を通る振動のあまりの強さに爆発して、スパークした。

***

普通のサーキットイベントとしても豪華すぎる出演者だ。入場規制を恐れてO-EASTのライブしか見れなかった。
カネコアヤノ、Tohji、KID FRESINO、折坂悠太
一度飛び込んでしまうと俯瞰には戻れない。渦だけがあった。感情の渦であり、モッシュであり、汗と酒と音楽だ。EASTの天井にある何十もの照明は一つも機能していなかった。セッティングには時間と手間がかかる。ステージに立てられた白い明りだけが眩しい、急ごしらえの決起集会。

「この日を伝説にする覚悟はできてるのか」何度も煽るTohjiの言葉は「誰かが傷ついてそのことをなかったことにしてやっと成立する伝説に意味などない」と中止宣言に記したマヒトの覚悟へのアンサーであり、その場にいる人間を「まっとうに生きる」ことへ救済する覚悟の叫びだった。

***

全感覚祭は、まっとうに生きる感覚を試される祭だった。
あれは投げ銭イベントで、決してフリーイベントではない。
その価値は個人で決める。日本人が最も苦手とすることの一つではないか。

「価値を決めて金を払う」というあり方には前提があると思う。
「日常において、生きるための最低限が保証されている」ということだ。

汗がひいてから考えた。
災害が起こった夜、人権という言葉や悪質なデマに対する意見が飛び交った。窓にテープを張るべきか、パンじゃなく缶詰か、NHKのひらがなはどうなのか、台東区はどうだ、災害対策本部は、自己責任とは?罪悪感とは?

生きることが保証された安心感のなかでしか、人は価値を決められない。安ければ安いだけいいし、金を払うこと自体が強者の行動と感じてしまう。自分が満足なら、正しいことが分からなくてもいいと言い張るのは強いからではなく貧しいからだ。

自分の感じるこの空気感が正しいかは分からない。でも、全部ひっくるめて、令和の時代に生きるということ自体が、スタート地点で「一発逆転」を狙えと言い渡されることではないか。僕らの根本にあるのは全てこれが原因ではないか。

そんななかで、「価値を自分で決める」ことの意義を提示するアーティストがいることがどれだけ心強いか。その場が失われてからわずかな時間で全てを再構築する熱量をどう取ろうか。そんな人や場所に「お前どうよ?」って聞かれたなら、真剣に考えようと思うだろう。
自分の知識、経験、感覚を総動員して、自分が持っていたものを否定する覚悟を持って、価値を決める。勝ちではなく価値だ。全ての感覚でもって、その人が賭けたすべての価値を決めるやり取り。それだけがあのエネルギーを産んだという証明だ。

枠組みや、システム、利便性。ビジネスを支えるモノが溢れ、目立つようになった。それでも、その根底にはこの気持ちを持っていないとなにもかも消えてしまう。
自分にとって、それを突っぱねる衝動をくれるのは芸術だと実感した。
全感覚祭が終わったその日、あいちトリエンナーレも閉幕した。自分が目で見て、感じたことが急速につながっていく感覚になる。これでいいのか、このまま俺は社会に出るのか。誤魔化し続けて、勝ちを求める人間になるのではないか。常に腹の中で渦巻くバッドに出会うたびにこの日を思い出そうと思う。

生き繋ぐではなく、おいしいものを食べて、ちゃんと生きる。その生きた体で全ての感覚を生かして遊ぶ。あの頃、助骨を浮き上がらせて、千鳥足だったリトルピーポーに耳打ちしたい。未来ではこんなパーティーがあるんだ。もう少し頑張れよ。

(オケタニ)
https://note.com/laundryland

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