授業に来ないは問題か

授業に来ない学生。問題だろうか。
いまでは問題だということになっていて、とにかくきめ細かく指導するように言われる。

それは、メンタルの問題や、その他いろいろな問題があるかもしれないからだ、そうな。

ここまでタイトルを入れたらすでに「問題」という単語を5回も繰り返している。

ところで、この「問題」だが、誰にとって、どのように「問題」なのだろうか。

中には深刻に「学校に行けなくなった」という場合があって、その場合には、なんらかの対応をしなければならなくなる場合もあるかもしれない。この場合は、学生の問題である。それでも基本的には、学生がそれを求めれば、ということになるかと思う。

一方、明らかに「サボってる」というのが分かる類の、学校に来ない学生がいる。この場合には、授業を休みがちなので、授業中に指示された課題が提出されていなかったり、締め切りを過ぎてから泣きついてきたりといった形で、学生側からアクションして、対応を求めてくる。

この場合、この学生は学校に来る意志はあり、単位を取ろうとする意志も示している。その意味で、上記の深刻さはない。

では、この学生にはどのような「問題」があるか。

その問題とは「指示に従わない」ということに尽きると思う。もっと卑近な言い方をすれば、「私の言うことを聞かない」ということである。つまり、教員の側の問題なのだ。これは完全に、その学生とその教員の1対1の関係の中で起こっていることであり、それがたとえ複数の教員とその学生との間に起こっていてもーーつまり、出ている授業のほとんどを、その学生がサボっていてもーー1対1の問題でしかない。個々の先生が、締め切りを過ぎて提出してきた課題を受け取るか受け取らないか、どのように評価するかは、評価という「聖域」に関わる問題であって、他者が介入するようなことではない。

「情報共有」という名の下に、この学生の素行を、教員間で答え合わせすることは避けるべきだと思う。したところで、「この子さぼってるよね。うんうん。私のところでもそう。こないだはこんなこと言ってた。」「私はあの子、最初からいろいろ疑問に思うところがあった」などと、よくないところをあげつらって、情報共有がいつの間にか、悪口大会になってしまう。ある先生の授業だけは出ていて、その学生に好印象を抱いていた先生が、「そんなことがあるんかいな」と、評価を下げてしまっては、その学生に味方してくれる人が学校からいなくなってしまう。

サボる、というのは1つのパフォーマンスである。教育現場におけるパフォーマンスはすべて評価対象である。このことにはいろいろと意見があると思うが、学生が与えられた課題に対してどのような活動を行って、どのように準備して、どのようにそれを教室の中で表現するか、それを見て最終的に評価する。大学生が、学校の外に出て、社会人として行動することができる力の涵養を、教員が何らかの意味で到達目標の1つとして掲げているのなら、「サボる」という行動がその到達目標に照らしてどうなのか、ということで点数をつけるしかない。

というわけで、「サボる学生」「泣きつく学生」は、いるし、それは「問題」ではないということになる。淡々と評価するだけのこと。

授業に来ないというのは、学生に与えられた権利であると思う。それをどのように評価するかは、教員に与えられた権限である。学生は若いので、まだ体も心も未完成で、すぐに体調を崩す。だから、15週もあれば1回や2回は体調不良で欠席するだろう。また、彼らは授業よりも魅力的な活動や人間関係に囲まれていて、今日の授業よりもそちらの経験を優先したいことも1度や2度はあるだろう。合計すると、最大4回くらいは、どの学生も休んでしまう可能性はある。それを見越してかどうかは知らないが、大学の授業は、3分の1、15週だとすれば5回休めば自動的に不合格になる。うまいことできている。

留学生の場合は特にそうだ。
一年に一回しかない祇園祭を見に行きたいけど、その日に堤の授業があるというときに、「俺様の授業に出ずに祭りを見に行くとは何事だ」と言えるほど、立派な授業はしていないし、菅原道真に祟られたくもない。1年の短期留学の場合、彼らが祇園さんを見られるのは、その年の7月17日、たった一回だけなのだ。

もちろん、そうではない。授業に出るのは学生の本分であり、楽しみはそれ以外の時間でやるべきだという考え方もあろう。それはそれでそうだと思う。しかし、学生の本分は「学ぶ」ことであって、授業に出てくるという行為そのものではないはずである。

ま、そんなわけで、学生はいろいろなことを言ってくる。個別対応は、想像されるよりも遙かに多い。まあそんなもんなのだ。




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