見出し画像

登園拒否児だった私と子供の話

子供の入園準備をしている。

持ち物一つ一つに名前を書き、用意するように指定されたコップ入れ、上靴入れなどなどを縫い、名前を刺繍までしてみた。

私は裁縫が得意ではない。むしろ手先は不器用で苦手だ。
にもかかわらず、買ってもよいとされている入園グッズをせっせと手作り、しかも名前の刺繍までしたのは理由がある。

ひとつは布が有り余っていたこと。
私の母は家政科出身で、今は遠ざかっているがその昔はハンドメイドが大好きで昭和の母たちにあるように私のワンピースはもちろん、自分のスカートやズボンなど色んな物を作っていた。そのときの名残で大量の布のストックと埃がかぶっているミシンを嫁入り道具の一つとして持っていたのだ。
昭和の時代と違い、今は便利なフリマサイトも子供用品の店も充実している。入園5点セットなんて便利な物もある。
私も最初はお金に物を言わせて事を済ませよう、と思っていたが、軽く調べたら入園5点セット、8000円もした。多分、探せばもっと安いセットもあるし、単品で買ったらもっと安いんだと思う。だけど値段を見て一瞬で調査する気が萎えた。
家には大量に布があるのだ。これを使えば0円。よし、作ろう。

もうひとつの理由は、私が幼稚園が苦手な子だったからだ。
だから母親(私)の手作りを持って行くことで子供が少しでも新生活になじむお守りになればいいな、と思ったのだ。
正直なところ、入園グッズの手作り、ましてや名前の刺繍で子供が励まされるかどうかはわからない。なぜなら刺繍こそないにせよ私も当時は母親の手作りの園グッズを持っていたはずなのに、まったくそれをお守りとは感じていなかったからだ。

ただ、夜な夜なミシンと針を動かすと当時の寂しくて心細かった自分を思い出して自分自身を励ますような心境になっていった。

幼稚園に関する最初の記憶

幼稚園の思い出はろくな物がない。
2年保育だった幼稚園に入る前年、幼稚園に行って一日体験入園したのが最初の幼稚園にまつわる記憶だ。
母に連れられ弟たちと一緒に砂場に行った。たくさんの園児が遊んでいて人見知りの私はすごく居心地が悪く感じた。その砂場で、母は今で言うところのママ友と、その子供を見つけて話し込んでいた。
母は、砂場にいる制服を着た子に「○○ちゃん、この子と遊んでやってね!」と話しかけていたが、○○ちゃんは特に私に話しかけることもなく、友達と楽しそうに遊んでいた。
人見知りの私。知らない子がたくさん。おまけに砂場でも遊んだ事がない。
所在なく見よう見まねで砂を手で掘ったりしている私に○○ちゃんは時折無言でスコップを押しやって使っていいという意志を示してくれた。それが唯一のコミュニケーション。
しばらく時間が経って、母が言ったことを今でも一言一句覚えている。
「あんた、来年からここ来ようね。○○ちゃんもいるし。いいでしょ?」
その言葉に、不安で仕方がなかったが○○ちゃんもいるなら、とうなずいた。
しかし、入園後○○ちゃんとは遊ばなかった。
私が年少になったとき○○ちゃんは年長。年少と年長が混じって遊ぶことはほぼ無かった。そもそも、私は○○ちゃんを一日入園まで知らず、次にあっても認識することが不可能だったのだ。○○ちゃんも、私の事なんて分からないどころか、砂場のあの日こともちょっとした変な出来事として楽しい幼稚園の日々の中に混じり合ってしまっているだろう。

こうして私は年少の間ずっとずっと泣きながら幼稚園に通うことになった。

年少の頃の私の記憶

年少の頃の私の記憶は、幼稚園の門の前でずっとずっと泣いていたことだ。
母はおらず、園の中に入れずただただつったって泣きじゃくっていた。
母は私を送り、そのまま園の中に入って先生に渡すこともせずに
「泣かずに行ってきなさい!」
と声をかけて、一緒に来た弟たちを連れてそのまま家に帰っていったのだ。
そんな私を見て後から来た同級生の男の子のお母さんが
「一緒に行こう」と園の中まで一緒につれて入ってくれたこともあった。

今思うと、そもそも幼稚園で先生のところにきちんと連れて行って家での情報を伝えて引き渡すというルールがあるはずだが、私には全くそれをされた記憶がない。昭和の時代、そんなルールなかったのか?門の前から子供が一人で園庭を通って教室まで行くきまりだったのだろうか?
一方でお迎えに来てもらった記憶もないので、私が忘れているだけでおそらくはきちんとしたルールはあったのだろうが、この幼稚園に入れず門の前で泣き続けたという経験がとても辛かったので心に残っているのだろう。
私の幼稚園は小学校の敷地内に門があったので安全は確保されていた、が、それにしても私が母の後を追って帰ろうとしたりする懸念はなかったのだろうか。なんというか、ゆるやかだったのだね、昭和、というしかない危機管理。
もしかすると母はきちんと先生のところに連れて行っていて私の記憶違いなのかもしれないが、少なくとも「門の前で泣いていた」と心に刻むくらいの辛さと寂しさがあった幼稚園年少時代であったことは間違いない。

この、門の前で泣いていた記憶は2,3場面しかないが実際は年少の終わりの頃まで泣きながら通うことが続いていたらしい。
いつも門の前で泣いていたかは定かではないが、幼稚園のアルバムの写真を見ると「ようやく最近泣かずに行ける日も出て来ました」という母の文章が発表会の写真の横についていた。
ちなみに、当然というべきか、幼稚園のアルバムの中に私が笑って写っている写真は一枚も無かった。

私が登園拒否した理由

私はなぜ幼稚園に行きたくなかったのだろうか。
母が好きで離れたくなかった、というのではないように思う。
幼い頃の母の思い出はとにかく怖かった。昭和生まれ、鉄拳制裁もよくあった。長女で生まれたこともあり、母のいうことは絶対だったのだ。
そもそも一日入園で知らない人ばかりで不安でも母のそばではなく砂場のいたのも、母に砂場で遊ぶように言われたからだ。

人見知りな私は、知らない子ばかりのところへ行くのがすごく嫌だった。
それが「お母さんと一緒がいい」という言葉に集約されるのかもしれないが、私はその言葉を言った記憶はない。これまた補正されて記憶されているのかもしれないが。
ただ、同じクラスの子たちが仲良くしているのもなじめず不安だったことが記憶に残っている。
人見知りだったので、人に話しかけるのはもちろん人から話かけられてもお話ができない子だったのだ。

極度の人見知り、これが私の登園拒否の理由だ。

年長の頃の記憶

年長の時もいくつか記憶があるが、強烈な記憶はやはり登園時のことだ。
年長になってから担任の先生が代わり、年少の先生が優しく穏やかな雰囲気の先生だったのが、年長になり情にもろいよく笑いよく泣く明るい先生に代わったことに影響されたのか少しだけ幼稚園に行くのが楽しくなった。
相変わらず人見知りで友達と呼べる子はいなかったように思うが、少なくとも泣いて登園したという記憶も無く、母の話からも年長の時は泣いていなかったようだ。
だが、私の記憶に残っている登園時の記憶は、泣きながら登園した。
それは、年長の終わり頃だったと思う。もしかすると違うのかもしれないが、私の記憶では「寒かった」という記憶が残っている。

その日、いつものように母と弟と登園しようとしていたら「お母さん今ちょっと行けないから先に行っときなさい、すぐ行くから!」と言葉は正確ではないが、後から行くので先に行くように言われた。
幼稚園までは一本道で、ほぼ2年間毎日通った道なので道を間違えることはない。大人の足で徒歩10分くらいの道。
断片的な記憶の中で私が覚えているのは、道中本当に母が来てくれるか心細くてべそをかきながら後ろを振り返って、母の姿が見えないか確認していたこと。母がおいつけるよういつもよりも時間をかけて通園路を歩いたこと。
そして、とうとう一人で幼稚園について、担任の先生に「まぁ!一人で来たの?!」と驚かれたこと、だ。

この幼稚園時代の記憶、今の時代だと大問題だが、昭和は問題なかったのだろう。他の友人に聞いても似通った経験をしている人も多い。
夫は、義母が仕事をしていたこともあり幼稚園の時年子の弟と1日留守番をするという状態が常だったそうだし、夜9時頃まで義母が帰ってこないという事もあったらしい。

私の母にしても、子供3人。その日の朝も何かトラブルがあったのだろう。必死だったと推測される。きっとトラブルが終わったら追いかけるつもりだったのだと思う。多分、おそらく、きっと。

当時の私の母の行動が必ずしも責められるものではないというのは私自身がよくわかっている。
特に、一日入園の時のこと。
私も子供に「行ってみたら楽しいよ-!お友達たくさんいるよ-!」
と気分を盛り上げ、やってしまいそうな言動である。
ただ、私はその不安だったりだまされた!と感じた心境だったりを母に言う子ではなかった。もしかすると言ったけれど母に「大丈夫大丈夫」と流されてしまったのかもしれないが。


幼稚園生だった私を通じてみる子供のこと

ミシンに向かって子供の入園グッズを作りながら、自分の幼稚園時代のことを振り返っていると、その頃の自分が不憫すぎて泣きそうになった。
同様にこの文章を書きながらも当時の気持ちを思いだしてこみ上げるものがある。
あの頃の、寂しくて心細くて不安でいっぱいだった私。抱きしめて、大丈夫だよ、と言ってあげたい。果たして当時の私は母に抱きしめて暖かい言葉をかけてもらっていたのだろうか。

こんな気持ちと一緒に作り上げた息子の入園グッズにはなんだか怨念がこもっていそうな気もするが、息子にとって園が楽しく成長の出来る、思い出しても苦痛ではない物になって欲しいと願っている。

出来た入園グッズを子供に見せると、
「これ、お母さんが作ったの?嬉しい-!ありがとう!」
と、喜んでくれた。
出来不出来関係なく、母が作ってくれた物が嬉しい年頃。ありがたい。
保育園に持って行くんだよ、と伝えたら保育園を楽しみにしている様子。一安心。

ミシンと格闘しながら気がついたことがもう一つある。
私は自分の幼稚園時代が悲しい思い出ばかりだったせいで、必要以上に子供の保育園のことを心配している。

大丈夫。
私の子供は、人見知りなところもあるけれど、私よりもずっと素直で自分の気持ちも表現できる、お友達もいる子だもの。

いざ保育園に行ってみると、思っていたのと違ったと子供も感じるかもしれないが、すくなくとも今の子供は私に自分の気持ちを伝えてくれる。
私自身も子供の変化などをよく見て、子供の保育園時代が楽しい思い出が少しでも残るように、しっかりと抱きしめて、安心感とがんばれる力を与えよう。

子供の保育園に幸あれ!




いただいたサポートで資格試験を受けます。