見出し画像

学而 1-9 で あそぶ

曾子いわく、
終わりを慎み遠きを追えば、
民の徳 厚きに帰せん。

『民を導く者が、
 父母の人生の終わりを丁重に弔い、
 遠い昔の先祖に想いを馳せてその業に敬意を表す祭祀を行えば、
 民の気風も 自然と同じように 繋がりを大切にするようになる。』

昨今、「私は私」「私の人生は私の思うように生きる」といった考え方が良しとされ、当たり前のようになっている感があります。僕もそう思って生きてきました。

親子や親族の繋がり、いわゆる血縁にせよ
地域の繋がり、いわゆる地縁にせよ
私が私の生きたいように選択をしようとした際に、その選択を阻む制約条件になることがママあるわけで。
だから、特に人生の若い時期にはこれらの縁やそれに伴う「せねばならぬこと」は正直煩わしいものですよね。

きっと、2000年以上前の曾子の時代だって若者にはそんな感覚があっておかしくないし、ともすれば村を飛び出して街で違った生き方をしたいという若者がたくさん出てくるのが自然な気がする。
つまり、東京に多くの若者が出てくる現在とまったく変わらない。
でも、昔と今が違うのは、昔は農村から人が流出すれば直接的に農業生産高が減少し、結果街の経済も減退し、人があぶれるということ。
人があぶれると治安は乱れ、社会は混乱するということ。

農業生産性が向上し産業構造も変わった現代では、農村から街への人の移動も昔ほどの悪影響はなかった、というか積極的に人の移動を求めた時期がここ数十年続いたことが、「私は私」「私の人生は私の思うように生きる」という考えの実現を後押ししたし、
さらに、以前は親子や親族の義務・地域に属する者の義務とされたことを「他の人に代わりにやって貰える」サービスの成長とも相俟って「自分の思うように生きる」ことはより「当たり前化」したのだと思います。

そして、サービスと金がグルグル回ることで経済は大きく回り、それが是とされ、それに伴って個人は自分の思い通りに「個人」としてどんどん縁から切り離されていく。
「自分の思うように」を阻害するしがらみからは離れられる一方で、
「自分の思うように」に生きるために、サービスを金で買わなくてはならず、サービスを買う金を得るために思い通りじゃない人生を生きる。

あれ?
血縁・地縁からは離れたけど、金縁が新たに生まれてません?
それが自分らしく生きる上での新たな制約条件になってません?

もちろん、金縁と自分らしく生きる事が一致している人は幸せなんですが、そうじゃない人も結構いるのが現代では?

そして、かつての若者も歳をとります。
できることが増えるフェーズから、
できないことが増えるフェーズに人生は移行していくのです。
誰もが、必ず。

できないことは、できる人に補完して貰うしかないのです。

できないことが増える人より、できることが増える人の方が多い社会なら、社会として補完できます。が、少子高齢化の社会は、できないことが増える人の方が多い社会。社会としてのバランスはとれない時期がしばらく続くのです。できないことが増える人と、できることが増える人のバランスがとれるまで。

仮に、血縁も地縁も金縁も細ってたら老い先には不安しかありません。
「他の縁」が育ってない限り。

自分らしく生きることが是とされる時代、かつ、できないことが増える人と、できることが増える人のバランスがとれない時代に、
自分の一生を通じて自分らしく生きていく上で、
この、「他の縁」を育てる視点が大切なんじゃないでしょうか?
血縁や地縁は否応なく与えられた縁ですが、その他の縁は自ら育てる縁だけに、「自分らしさ」が反映される縁です。

ただ、縁が育つには、長い時間と利他・相身互いの行動が必要です。
ともすれば、「利己」と「今」に視野が狭まりがちな若者に、「他の縁」を育む大切さを感じさせ得るものがあるとすれば、それはロールモデルたる先輩社会人の振舞いです。

血縁・地縁を在り方の基盤とする曾子の生きた時代には、それは、父母の人生の終わりを丁重に弔い、遠い昔の先祖に想いを馳せてその業に敬意を表す祭祀を行うことであったわけですが、
自分らしい「他の縁」を育む大切さに目を向ける機会となる先輩社会人の振舞いとはいったい何でしょうか?
うーん、何だろう?何だろう?
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?