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学而1-3 で あそぶ

子いわく、巧言令色 鮮(すくな)し 仁。

この文句、切れ味良すぎません?
ラップみたいなノリの良さと、本質に一気に迫るこの感じ。
この言葉に始めて触れた中学生のとき以来、このフレーズは折に触れて僕の頭の中を馬のように駆け回るようになりました。

折りに触れて、ってどういう時かって?
そりゃ、そういう時ですよ。そういう時。

「いやまぁ、よく言うよねーーー」
(俺はそんな上滑りなこと、よー言えんわ)
「うまいこと見せるなー、見映え勝負やな」
(そんなもんにパワー使うくらいなら、本質もっと突き詰めたら?)

ま、そういう時です。
かっこに心の声も漏れてるけど、一方でそういったうまく見せるとか・心地よい斬新なフレーズに乗せるとか、そういったことに人が引き寄せられるのを見て、やっぱりちょっぴり「いいなー」と羨望のような感覚が混じることにも忸怩たる想いを抱きますね。自分の小ささに気づかされて。

そうか、「仁」であるって大きくあること。
学而1-1にもあった「人知らずして いからず」なんだけど、
「知って欲しい、というか判って欲しい」欲はやはりあり。。。

そして、いまやSNSを中心に「巧言令色」こそ重要!「映え」こそ命!
そんな流れが生まれている。
一体のこの流れの行きつく先に、どんな世の中、どんな世界が待っているんでしょうか?

ネットに流れるもしくは流す情報の世界に「だけ」巻き込まれると、巧言令色のオンパレードに刺激されて、「自分もそうでないといけないのでは?」「セルフブランディングに勤しまなきゃ!」の方向にどんどん追いやられる。
結果、自分が常に「周りの反応」ばかり気にするようになり、反応に対して一喜一憂するようになる。すなわち、「仁」から遠ざかる。

「仁」から遠ざかる、「不仁」とは、
慈しみ・慈愛の心が亡くなることです。
他者を愛せなくなる、許せなくなる。

でも、その出発点は他者の反応ばかり気にして自分の本当に目を向けられなくなり、自分を愛せなくなることから始まるのでは。

そして、そんな人たちが集まった世界は、必然互いに非難・攻撃しあう世界に。これを修羅の世界というのではないでしょうか?
現に、一部のSNSの世界ではこの修羅の世界が現出していますよね?

僕はそんな世界で生きることを望まない。

ネットに流れる情報や人は、現実社会のごく一部・一側面で、ネット上に表現されない世界にこそ、もっと慈愛のある現実世界がまだまだ豊かに残っているに違いない。
だって、「巧言令色 鮮し 仁」なんですから。
「仁」の人ほどネット上でフワフワせず、地に足の着いた人間関係の中で生きているはずなんですよね。

だから、修羅の世界を望まない僕らは、
適切にネットに流れるまたは流す情報から距離を取る習慣を持つ必要があるのだと思います。どうですかね?


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