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西成弁護士の奇妙な事件診療録(第1話 神様と小さな天使)

東山総合病院の診療部門特別相談室で活躍する医療弁護士・西成仁と秘書・前田美穂が、病院で発生する様々なトラブルに挑み解決する連作ミステリー。

第一話では、人工呼吸器のトラブルによる死亡事故の謎を解明し、第二話では肺がんの見逃しでの訴訟を逆転勝訴へと導く。第三話では、インターネット上の怪異に関連する女子高生の傷害事件の真相を明らかにする。第四話では過去の医療過誤の裁判が語られ、第五話で前田と西成の関係が明らかになる。最終話では、弁護士を目指して旅立とうとする前田の前に、西成が用意した卒業試験として、研修医の刺青問題が立ちはだかる。


#創作大賞2024 #ミステリー小説部門

【目次とリンク】

第1話 神様と小さな天使
第2話 オーバーカム・ザ・バイアス

第3話 怪異の復讐劇
第4話 時を止めた研究者
第5話 ふたりの過去
最終話 銀鱗躍動

ドンドンドンドンドンッ!

地域医療の中核である東山総合病院。その一角にある『診療部門特別相談室』に、けたたましいノック音が響く。この慌てようは厄介な案件に違いないと、うら若き秘書の前田美穂まえだみほは察して立ち上がり扉に向かう。鍵を開けたと同時に扉が勢いよく開き、前田はひたいを打ち付けられそうになる。すかさず身を翻して難を逃れた。

よろけながら部屋に飛び込んできたのは病院の事務長である。ほんの数分前、慌てた様子で「じかに相談したいことがあるんです」と連絡があった。恰幅の良い事務長はひどくうろたえた様子で、ひたいには玉のような汗を浮かべている。

「そんなに慌ててどうされたのですか、事務長さん」

「じつはついさっき、重大な医療事故が発生したんです!」

「医療事故ですか!?」

前田は振り向いて最奥の書斎机に視線を向ける。そこに鎮座する西成仁にしなりひとしは病院で起きるトラブルを一手に引き受ける、敏腕の顧問弁護士である。西成は感情を乱すことなく、物静かに了承した。

「では最初に前田さんが状況を聞いてください」

「はい、承知しました」

西成は事件の初期対応を前田に一任するのが常であるが、それはけっして無責任だからではない。西成はことあるごとに前田の推察力を試しているのだ。

前田は記録用のボードを手にして身構えた。流線形の整った顔立ちに大きな瞳、そして艷やかな栗色のロングヘア。LEDが発する光が髪に映り込んで輪を作る。名の通った大学の法学部を卒業し、西成の秘書として東山総合病院に勤務して半年。若輩者の前田であるが、柔和で気品のある言葉遣いと皺ひとつないセットアップスーツは、堅実で完璧な秘書の印象を抱かせる。けれどその面持ちには緊張感がみなぎり、若さと責任感の間で揺れる苦悩が滲んでいる。

事務長は呼吸を整え、状況を簡潔に説明する。

「人工呼吸器の管理トラブルによるレベル5のアクシデントです」

「アクシデントレベル5ですか!?」

それは患者が「死亡」した事故を意味していた。

「人工呼吸器管理中の末期の大腸がん患者ですが、気管内に挿管したチューブが抜けてしまい、気づいた時には心肺停止状態となってしまったようです。昼過ぎのことでスタッフは揃っていましたから、すぐさま主治医に声をかけて救命措置を施しました。けれど時すでに遅く、患者はさきほど死亡してしまったんです」

その情報を聞いたとたん、西成がすっくと立ちあがった。軽やかにデスクを飛び越えて華麗に着地し、広い歩幅で歩み寄る。欧米人の血の気配をうかがわせる、高く整った鼻や色素の薄い瞳。年齢は前田のダブルスコアだというのに、すらりと伸びた脚に姿勢の良い筋張った体躯は若々しく、西成の切れの良い歩みをさらに引き立てている。

スーツは落ち着いた色合いで、弁護士らしい理路整然とした身だしなみの印象だ。平凡なハーフリムの銀縁眼鏡ですら、西成の顔に飾られると高級ブランドのプラチナフレームに見えてしまう。

西成は腑に落ちない顔で前田に尋ねる。さっそく試されるのだと察し、いっそう緊張をあらわにする。

「前田さん。今の話、なにかおかしいとは思いませんか」

「え……えっと……おかしいことですか?」

西成は右手の人指し指と中指を立て、前田の目の前に差し出してみせる。

「私が矛盾を感じた点はふたつあります。当ててもらえますか」

「ふたつの――疑問点ですか」

前田は聞いた情報を必死に反芻し、自分なりに疑問点を探そうとする。西成は思考を巡らせる前田を黙って見守っている。まるで前田自身に答えを導かせようとしているようだ。

前田はようやっとひとつ、疑問点を見出すことができた。

「え、と……事故が起きたのは人手の多い日勤帯だったんですよね。それなのに誰も人工呼吸器の異常警報に気づかなかったのでしょうか」

人工呼吸器は気管内に挿管しているチューブとの接続が外れれば、圧力の異常を感知してアラームを鳴らす仕組みになっている。人工呼吸器のトラブルに関する案件は数件、扱ったことがあったので、その点は前田でも察しがついた。

「いや、それがですね、誰も気づかなかったらしいんです」

事務長は困惑気味に返事をした。前田はさらに突き詰めてゆく。

「病室には誰か来ていたのですか」

「その日に来室したのは、お見舞いにきた身内の方だけです。具体的には、患者の息子さんの妻とその娘だけでした。娘はまだ小学校中学年ぐらいでした」

「そうですか、怪しい人物の出入りはなかったんですね」

「間違いないです。ですから医療事故としか考えられません」

前田が西成の表情をうかがうと、西成は視線を合わせて小さくうなずく。どうやら西成の想定していた違和感のひとつは正解のようだ。けれど、もうひとつの疑問点はいくら考えても思いつかない。

「西成先生、もうひとつのおかしなところっていったい、なんでしょうか」

正直、前田はもはや降参だった。今日も西成の洞察には及ばなかったと、調査開始前からさっそく落胆する。

西成は事務長に尋ねる。

「どうして末期がん患者なのに、人工呼吸器が装着されていたのですか。それこそ不自然な医療なのではないでしょうか」

前田はそう聞いて、あっ、と声をあげそうになった。西成の指摘はたしかに的を射ているのだ。末期がんのために状態が悪化した場合、人工呼吸器を装着しても全身状態の改善が見込めるわけではない。離脱できず衰弱しながら死を迎えることになるため、人工呼吸器を装着することはほぼない。だが装着した以上、生命を維持させている人工呼吸器が外れれば医療ミス、意図的に外せば殺人行為とみなされるのだ。

「人工呼吸器の装着――さあ、なぜでしょうか」

事務長はその点の事情はわかっていないようで首をひねる。しかし、仮に意義のない人工呼吸器の装着であっても、その不具合による患者の死亡はれっきとした「過失致死」である。

西成は電子カルテを起動させた。

「前田さん、今までの診療状況を確認してみましょう」

「はい、それでは西成先生、ログインをお願いします」

西成のIDで電子カルテにログインし、事務長から聞いた患者番号を入力してカルテを展開する。

「患者名 山下茂樹、年齢 七十歳、病名 大腸がん」と冒頭に記してあった。カルテを確認すると、大腸がんの発症は二年前で、診療担当は消化器外科だった。当時、結腸切除の手術を実施されたが再発をきたしており、その後、免疫チェックポイント阻害薬の治療や化学療法を受けていた。病勢は一進一退であり、直近の説明内容は治療の切り替えについてだった。一貫して三上という主治医が説明を担当している。

西成は診療録の内容に目を通す。説明をする際の相手は患者と患者の息子、それに息子の妻だった。

三上:「今回おこなった治療は一時的には効果がありましたが、残念なことにその後、病状が進んでいることが確認されました」

息子の妻:「次の手はまだあるんですか?」

三上:「あります。次の治療はいわゆる抗がん剤を用いますが、歴史的に経験のある治療ですから安心してください。ただ、副作用はそれなりに覚悟しなければなりません」

息子:「わかりました。どのような治療でしょうか。それと、ほかにはどんな治療法があるのでしょうか」

(中略)

息子:「先生、父をお願いします。少しでも病気を良くしてやってください」

息子の妻:「よろしくお願いします」

三上:「任せてください、長生きさせてみせます」

現在までの病状説明や治療法については医学的な説明がきちんとなされ、問題なさそうに見えた。けれど西成はやはり眉根を寄せている。

「ああ、なるほど。これは不足しているようですね」

西成は内容を確認した後、きっぱりと言い切った。けれど、前田は説明内容に不足があるとは思えない。

「西成先生、なにが足りなかったのでしょうか」

前田はますます困惑する。事務長も前田と同じ表情をしていた。けれど、そこには西成だけが気づいている盲点があるはずなのだ。

「前田さん、この一幕での登場人物は誰でしょうか」

西成は意味ありげにそんな質問をしてきた。なぜそんなことを聞くんだろうと思いながら、カルテの説明に目を通しつつ答える。

「ええと、三上先生と、息子さん……ああ、ここでは奥さんも質問していますね」

「そうですね、記載内容からすれば正解です。でも、ほんとうにそれで正しいですか?」

「え……?」

そう聞かれて、前田は三上が病状を説明している場面を想像しながら再度、その場にいる人物を想像した。とたん、背中がぞっと冷たくなった。前田は自分自身が大きな見逃しをしていることに気づいたのだ。

――しまった、患者さん自身を忘れていた。

前田のこわばった表情に、西成は銀縁眼鏡の奥の瞳を光らせた。

「気づいたようですね。この質疑はおもに息子がしていますけれど、肝心の患者さん自身の意思に関する記載がひとつも書かれていませんでした。患者さんは説明を聞いてはいたものの、押し黙ったままだったのでしょう」

「じゃあ、治療方針を決める上で、患者さんの意思が反映されていなかったっていうことですか」

「そういうことになります。しかも、患者さんは治療が効いていないという事実をこの時点で知ったのですから、事前に家族内で話し合って意思が統一されているとは考えづらいです」

その病状説明は、ひらたく言えば治癒は見込めず、薬物療法で延命を図るのが最善だという内容だった。

「この説明は重大な局面です。遅かれ早かれ、この患者さんに『死』が訪れるのは歴然たる事実です」

前田はさらに肝を冷やした。西成の言う、「足りなかった」ものがなんなのか、いまさらながら明瞭に理解できたのだ。それは『死』を迎えるにあたっての、患者の選択の権利である。

「でっ、でも……この説明の中には『死』という運命の一文字が、どこにも記されていないですよ」

前田の返答に西成は深々とうなずいた。

「そうです。末期がんの状態だというのに人工呼吸器を装着させられた理由はそこにあるはずです」

西成はカルテを読み進めてゆく。すると経緯が明らかになった。二日前、病状悪化による呼吸不全をきたし救急車で運ばれてきた時のこと。原因は大腸がんの肺転移のようだ。急変の事態の対応方法について議論されたことがなかったからか、急激な病状悪化に家族は狼狽していた。

「誰もがその場で『看取る』という選択をすることができず、結果として延命処置をおこなったようです。自発呼吸が戻らなかったため、いたしかたなく人工呼吸器の装着に踏み切ったのでしょう」

「あくまで結果を先延ばしにするための医療行為、つまり『その場しのぎ』だったんですね」

「おそらくそうでしょう。もしもこの状況で『人工呼吸器は装着しません』と告げれば、あたかも見殺しのように思われてしまうでしょうから」

「けれど、人工呼吸器を装着した以上、回復の見込みなく生かされているだけの状態が続いてしまいますよね……」

前田は急場の判断ということで納得せざるを得ないが、やはり腑に落ちない。しかも人工呼吸器の束縛から患者を解放したのが、皮肉にも医療事故だったのだ。もしも事前に急変の可能性について話し合われていれば、こんな事態にはならなかったのに、と前田は想像した。

「ところで今、患者の家族には誰が対応しているのでしょうか」

西成は事務長に尋ねた。患者家族への対応は慎重にならざるを得ないので、西成とてうかつには介入できない。

「主治医の三上先生が事情を説明していますが、聞いた話によると患者の息子は憤慨しているようです。しかも、よりによってマスコミ関係の人間らしいんです。ああっ、この病院が叩かれてしまう……」

事務長は頭を抱え込み、声を震わせてしゃがみ込んだ。脳裏には院長とともに頭を下げる自身の姿が浮かんでいるのだろう。そこで西成はすっくと立ちあがった。

「よし、状況はわかりました。それでは実際に現場を見てみましょう。前田さんもついてきてください」

「はっ、はい!」

西成は事故現場である病棟に足を運ぶようだ。前田は記録係としてボードを持ち、早足で西成の後を追いかけた。前田の知る限り、西成が解決できなかった医療トラブルは皆無である。それどころか医療訴訟で敗訴を喫したことは一度たりともないと聞いていた。

けれど今回はたやすく解決できる問題ではないと、前田はひどく不安に駆られた。

ナーステーションでは看護師長と病棟の看護師、それに数人の事務員が集まり、奥まった小部屋で話し合いをしていた。皆、揃いも揃って狼狽した表情をしている。主治医の三上はいまだに隣の面談室で患者家族に経緯を話しているようだ。押し問答が続いているのだろうか、かれこれ小一時間になるという。

患者の担当だった勝俣という若い看護師は冷静でいられるはずがなく、涙で化粧を崩して打ち震えていた。西成が輪の中に加わると、皆はすがるような表情で西成に顔を向けた。西成は落ち着いた声で勝俣に尋ねる。

「勝俣さん、詳しい状況をお聞かせ願いたいのですが」

「……はい、なんでもお答えします」

勝俣はかすれた声を絞り出して答えた。

「患者さんはどちらにいらっしゃいますか」

「その、まだ……」

言葉を発することすらままならない勝俣に代わって師長が言う。

「病室で横になっています」

「主治医は状況説明の途中なんですね」

「はい、別の看護師が同席しています」

「そのほうが良いでしょうね、勝俣さんだってショックなはずです。少し休ませてあげましょう」

西成はひときわ優しい声でそう言った。

医療事故の犠牲者には患者やその家族だけでなく、医療従事者も含まれることを、西成は深く理解している。責任を感じ、心に傷を負い、それが時には離職にまでつながってしまう。ひとつの事故が多くの人々の人生を狂わせることはしばしばある。

その時、面談室の扉の向こうから感情を剥き出しにした怒号が飛んできた。

「覚悟しておけよ、お前らのしでかしたことは日本中に広めてやるからな!」

相当な剣幕であったため、ナースステーションのスタッフは皆、硬直して黙り込んだ。医療事故ひとつで築いた信頼は簡単に壊れる。家族からしてみればこの病院のスタッフは犯罪者扱いなのだろう。終わりが見えない険悪な雰囲気に、全員が沈黙していた。

「それでは話がひと段落する前に、実況見分をさせていただきたいです。お部屋を拝見してもよろしいですか」

ひと段落などあり得ない状況だが、西成は空気を和らげるためにあえてそう言った。焼け石に水かもしれないが、そんな頼りない打ち水ですら必要な状況であった。

「はい、私がついていきます」

師長が名乗り出たので、西成は前田と師長とともに病室へと向かう。

個室の病室に足を踏み入れると、顔隠しをかけられベッドに横たわる患者の姿があった。

「まだ死後の処理はされていないんですね」

病室には「エンジェルセット」が準備されていた。「エンジェルセット」とは死後処置の際に用いる道具一式のことである。天使に連れられて天国に、という願いが込められてそう名付けられている。

「医療事故に遭ったご遺体をどのように扱えば良いのかわからなくて……。異状死体として警察に連絡しなくちゃいけないかとも思ったので院長と事務長に連絡したんです。でも今日は院長が不在だったもので――」

「そのため事務長が慌てて私のもとに来たわけですね」

現状に手を加えることがはばかられたようで、まだ挿管された状態のままとなっていた。いたたまれない姿に前田は目を覆いたくなった。

トラブルの原因となった人工呼吸器は電源が切られ、病室に置かれたままになっている。外れたとされる問題のスパイラルチューブはひとまとめにして袋に詰めてあった。

「師長さん、これが外れたチューブですよね。チューブ自体に損傷はありませんでしたか」

「はい、確認しましたけれど、問題はなかったです。どうして外れたのか、正直よくわからないんです」

西成は袋の中を透かして見るが、やはり損傷はないようだった。

前田は病室を見回し、ふと、テーブルの上に丸めて置かれたオフホワイトの生地に気づいた。医療器具とは関係がなさそうなものだったので、そっとつまみ上げてみる。どうやら子供用のカーディガンのようだ。

「師長さん、これは誰のですか」

「ああ、このサイズですとお孫さんのでしょうね。置き忘れじゃないかしら」

尋ねると師長はそう答えた。病室はカーディガンを羽織りたくなるくらいに肌寒い。半袖の白衣を着ている師長は露出した腕をさすっている。

「寒いのに脱いでいたんですかね。前田さんはどう思います?」

「子供は風の子っていいますから。わたしは冷え性ですから羽織ると思いますけど」

西成はああ、そうですかと言いながら、そのカーディガンを凝視する。銀縁眼鏡に指をかけ、じりじりと目を近づけてゆく。

「でも、これはなんでしょうね。この汚れです」

「汚れ、ですか?」

カーディガンをよく見ると、生地の表面には灰色をした縞々の汚れがうっすらとついている。西成はそれが気になったようだ。

前田はあたりを見回したが、壁にもたれかかったとしても、そのような跡がつく場所は見当たらない。

視線を足元に移す。ふと、人工呼吸器の本体の下部にある、スリット状の孔が目に入った。

そのスリットの形は、カーディガンについた汚れに合致しているように見えた。

「西成先生、もしかしたらこれ――しゃがみ込んで座って、背中が当たったのかもしれないです」

前田が思いついたのは、子供がよりかかり人工呼吸器の位置がずれ、引っ張られてチューブが外れたのではないかという仮説だった。

「ああ、なるほど、可能性はありますね。前田さん、それにしてもよく気づきました」

今度は西成が入念にカーディガンを確認する。慎重に四方八方から観察し、少しだけつまみ上げる。それから手を離して小さなため息をついた。

「西成先生はどう思われますか」

「いや、カーディガンを着た状態でよりかかったというわけではなさそうです」

「えっ、違うんですか?」

「前田さん、よく見てみてください。カーディガンの縞は前面、背面のいたるところに、それも不規則についています。このカーディガンを着た状態で、背中でもたれかかったとしたら、こんなふうに跡がつくはずはないと思います」

「そうですか。すみません、邪推をしてしまって」

前田は自身の発見が役に立たなかったことに愕然とした。けれど、やはりその汚れ自体に納得がいかない。

「でも、どうしてこんな跡がついているのか、それは疑問ですよね。形は人工呼吸器のスリットとぴったりなようですが」

西成は思考を巡らせた後、しゃがみ込んで人工呼吸器のスリットの奥を覗き込む。

「師長さん、人工呼吸器の電源を点けてもらってよろしいですか」

「はい、わかりました」

師長が人工呼吸器の電源を挿下する。

突然、けたたましいアラーム音が鳴り始めた。虚を衝かれた西成の肩が跳ねる。

「ほっ、派手なアラームで心臓に悪いですな」

「すみません、患者につないでいない状態だと、しばらくアラームが鳴るんです」

そのアラームは西成が着目したスリットの裏側から聞こえていた。スリットに接する形でスピーカーが装着されているようだ。

「でもアラームがちゃんと作動したという事は、人工呼吸器のアラームの不具合ではないのですね。それにしても随分大きい音ですね、これが聞こえなかったのですか」

「はい、誰も気づかなかったんです。ひどい落ち度ですよね……」

皆が腑に落ちない表情になった時だった。廊下を駆ける足音が病室に近づいてきて扉が勢いよく開かれた。そこには慌てふためく看護師の姿があった。

「すみません、三上先生が説明している最中に、咲ちゃんが突然、部屋を飛び出してどこかに行ってしまったんです」

「咲ちゃんが!?」

師長が驚いた顔をする。

「師長、一緒に探していただけませんか。たぶん、おじいさんの急死にショックを受けてパニックに陥ったと思うんです」

前田はその「咲ちゃん」という子がカーディガンの持ち主なのだとすぐさま理解した。西成は皆に向かって言う。

「それでは実況見分は一旦中断ですね。皆で咲ちゃんを探しましょう。院内放送でも呼びかけて下さい。私も探しますので、咲ちゃんの特徴を教えていただけませんか」

師長が淀みなく答える。

「はい、年齢は十歳、ツインテールの髪型をした丸顔の子です。花柄のシャツとグレーのチュニックスカートを着ていました」

「見つかったら院内PHSで師長に連絡をします」

「ほんとうにすみません、西成先生にそんなことまでお願いしてしまって」

「いや、構いませんよ。これも重大なトラブルのひとつですから」

まもなく院内全域で咲の捜索が開始された。全館放送で呼びかけ、看護師たちは病室や女子トイレの中をくまなく探す。けれど咲の姿はどこにも見当たらなかった。

西成と前田は別れてそれぞれ病院のエントランスと裏口の守衛に確認を取ったが、病院を出てゆく子供の姿はなかったとのことだった。

前田と西成は再度合流する。

「西成先生、裏口からは出ていっていないようです」

「そうですか、エントランスのほうにもいませんでした。念のために守衛に防犯カメラの録画ビデオを確認してもらいましたが、咲ちゃんらしき子供の姿は見当たらなかったそうです」

「じゃあ、まだ院内にいるんですよね」

「そのはずです。今しがた師長に確認しましたが、まだ見つかっていないそうです」

「そうですか。咲ちゃん、いったいどこに……」

「では一度、『診療部門特別相談室』に戻ってよろしいでしょうか」

西成は真剣な表情でそう言い出した。前田は無言で首を縦に振る。西成が解決のために思考を巡らせるのは、その部屋だと決まっているのだ。

窓越しに見える空はすっかり暗くなっていた。見上げると夜空にひときわ明瞭な九夜の月が浮かんでいる。途方に暮れた前田は空を見上げてひとり呟く。

「咲ちゃん……おじいちゃんが亡くなってショックだったんでしょうね。きっと仲良かったんだろうなぁ……」

西成はその思いを汲み取るように言葉を返す。

「たぶん、そうなのでしょう。カルテの看護記録によれば、患者さんの妻はすでに他界していて、家族は四人暮らしのようでした。患者さんと息子夫婦、そして孫娘の咲ちゃん。それに息子夫婦は共働きであったとのことです」

前田は驚いて西成を振り向いた。

「それなら、咲ちゃんは小学校から帰ってきた時、おじいさんとふたりきりだったはずですよね。病気で体調が悪いおじいさんを気遣っていたのかもしれないですね」

「ああ、前田さん、その想像は的を射ているのかもしれませんね。咲ちゃんはおじいさんを励まし、時には慰めていたのではないでしょうか」

「じゃあ、おじいさんは次第に残りがなくなる人生の時間の多くを、孫娘の咲ちゃんを愛でるために費やしたのかもしれないですね。病気のことも、いずれお別れがくることも、咲ちゃんに話していたのかもって思います」

西成はふっと鼻から息をもらし、前田の視線を追って空を見上げる。浮かぶ月を眺める瞳は深い輝きを宿していた。

「前田さん、もしかしたらすべてがつながるかもしれません」

その言葉に前田は、はっとなった。

これから儀式のような、西成の熟思黙想が始まるのだと察する。

西成は壁際に据えられた棚に足を運び、一枚のレコードジャケットを選んで引き抜いた。空け口に手を添えて逆さにするとレコード盤の縁が顔を出す。慎重に縁を手のひらで挟んで取り出し、レコードプレーヤーのターンテーブルに載せた。メーカーはクロスリーで、それはヴィンテージもののプレイヤーだ。

指掛けに指を添え、アームを手動でアームレストから外す。回転する盤面に針を下ろすと、西成は一歩下がって両手のひらを天井に向けて掲げ、ゆっくりと腕を広げた。その厳かな振る舞いを前田は黙って見つめている。まるで時間が凝固したかのようだ。

突如、西成の手が振り下ろされる。すると操られたかのように空気が震え、音楽が鳴り始める。繊細で雄大なクラシック音楽が無機質な事務室をコンサート会場へと変貌させてゆく。

曲はピョートル・チャイコフスキーの『交響曲第六番 悲愴』。音楽の歴史に残る名曲である。

なぜオーケストラの曲を再生するのか――それは曲に没頭しながら得られた情報を脳内で整理し、事件の全容を俯瞰するためである。

まるで指揮者がすべての奏者の旋律を聴き分けるかのように。

しばらく指揮を続けていた西成だったが、突然、ふっと手を止めた。深く息をついてから振り向いて前田と視線を合わせる。

「前田さん、この曲を作曲したのはチャイコフスキーですが、じつは『悲愴』の初演のわずか九日後に急死しているのです」

「えっ、そうなんですか!?」

意外なことを聞いて驚いた前田だったが、西成が音楽史を語る意図は理解できないでいる。曲は鳴り続いていた。

「その死因には諸説ありますが、この曲は己の死を悼むために作曲されたとも言われています」

「まさか、チャイコフスキーは死を予見する能力があったとでも言いたいんですか?」

「いえ、そうは言えません。自殺という説もありますから。けれどそうだとすれば、『死』を間近に感じていたからこそ生まれた曲なのかもしれません」

たしかにこの曲の繊細で物憂げな旋律は、人生のはかなさを感じさせるようだ。西成はひと息ついてから続ける。

「現代の医学では、患者さんは『余命』について知らされ、その中で最善の治療を選択する権利を持っています」

『余命』とは、同じ状況にある患者の半数が生存している期間を指す。そして『余命』を知るということは、同時に『死』の宣告を受けることでもある。

「けれど患者さんには治療を終了する権利もあるはずです。だけどこの患者さんには、その意志を示す機会がありませんでした」

前田は西成の意図することがおぼろげながら理解できた。すると銀縁眼鏡の奥の視線が鋭さを増す。

「私には、咲ちゃんがどこにいるのか、見当がついたのです」

「えっ、ほんとうですか!」

西成にはすでに事件の核心を捉えているような自信を漂わせている。そして信念に満ちた表情でこう言ってのけた。

「それだけではありません。この医療過誤の事件は、けっして罪ではないのです。罪であってはならないことなのです――」

西成と前田が向かった場所は、エレベーターの最上層からさらに階段を昇った先にある。「関係者以外立入禁止」と書かれた看板が立てられているが、関係者であってもめったに足を踏み入れないであろう場所。

病院の屋上だ。

捜索の盲点だったが、西成は屋上に咲がいるのではないかと思いついたのだ。なぜならそこが一番、空に近いからだ。

いや、天国に近いと言うべきかもしれない。

重々しい鋼鉄製の扉を開くと、おぼろげな九夜月がコンクリートの床を淡く照らし出していた。

冷たい空気で満たされた荒野のような屋上の隅に咲はいた。うずくまり夜風にさらされながら、ひとり嗚咽をもらしている。

そんな寂し気な姿は、咲が自分自身を責めているように見えた。

ふたりは咲の側に歩み寄り、西成が隣にそっと腰を下ろす。

「ここにいたんだね。寒いでしょうに」

咲は見知らぬ中年男性の姿に怯えた目をして背を向ける。

前田が歩み寄り、カーディガンをそっと背中にかけると、咲の肩がびくりと強ばった。

咲は顔を両膝にうずめ、けっしてふたりを見ようとしない。咲の隣に腰を据えた西成は、やおら話し始めた。

「久しぶりだね、小さな天使さん、私は神様なのだが覚えているかな」

すると咲は一瞬だけ顔を上げたが、瞳に映るのは銀縁眼鏡の知らないおじさんだ。すぐさま顔を隠す。けれど西成は構わず続けた。

「じつは私はね、『運命の本』を持っているんだ。だからこの病院で起きることをなんでも知っている。その本を今ここで読んであげよう」

前田を見上げて手を伸ばす。

「それじゃあ『運命の本』をもらえるかな」

「かしこまりました、神様」

前田は手にしていた鞄の中から一冊のノートを取り出し西成に渡す。仕事でメモに用いるA4サイズの無地のノート。

ページを開くと淡い月光が白い平面を映し出すが、そこにはなにも書かれていない。

「これは月の光に照らされると文字が浮かび上がるんだ。とは言っても、きみはまだ見習い天使だから読めないと思うけどね。もちろん、この天使のお姉さんも、書いてあることがちゃんと読めるんだ」

そう言って口元を緩め、前田と視線を合わせる。前田は西成の意図を察し、やわらかな笑みを浮かべる。

咲は不思議に思ったのか、泣くのを止めて前田の顔を見つめていた。いくぶん緊張が和らいだようだった。

「いいかい、よく聞いておくんだよ」

西成は書いてあるはずのない文字を読み始める。傷ついた咲の心をそっと撫でるように。

「これは、病気になったおじいさんのお話です。

おじいさんは病気と闘っていましたが、いよいよ天国へ旅立つ日が近づいてきたのだと知りました。

おじいさんは悲しいけれど、晴れやかな気分でもありました。なぜならおじいさんはみんなの愛情を十分に受け、悔いの残らない人生だったからです。そして真面目に生きてきたので、天国で幸せに暮らせると思っていました。

ところがある日、病気のおじいさんの元に悪魔がやって来ました。

悪魔は『家族みんながお前と別れたくないと言っているのを聞いたぞ。だからみんなの言うとおり、天国へ行かずにもっと頑張るんだ。もしも従わなければ、お前は裏切り者として天国に行けなくなるからな』と言っておじいさんを脅しました。

おじいさんは地獄に連れていかれたくなかったので、悪魔の言うことに従うことにしました。すると悪魔はおじいさんの口に管を入れてこの世界に縛りつけました。そして悪魔は苦しんでいるおじいさんを眺めて笑っていました。

それを最初に見つけたのは小さな天使でした。悪魔の所業に気づいた天使は、おじいさんを縛りつける管を取ってあげようと考えました。

誰も見ていない間にうまくできたつもりでしたが、悪魔は天使のおこないに気づいてしまいました。

そしてすぐさま天使の作戦を邪魔しようとしたのです。

悪魔は叫び声をあげて仲間を呼び寄せようとしたのです。

驚いた天使は身にまとう白い衣を脱ぎ、悪魔の口をふさごうとしました。
 
悪魔の口を押さえると、手が震えて涙がこぼれ、天使は悪魔よりも悪いことをしているんじゃないかと思い胸が引き裂かれそうになります。それでもおじいさんのために、必死に悪魔の口をふさぎ続けました。

天使が必死に頑張ったので、悪魔の声は小さくなり、誰も気づくことはありませんでした。

そしてついに天使は悪魔に勝ちました。

小さな天使が最後に見たのは、おじいさんの安らかな笑顔でした。

おじいさんは小さな天使のおかげで天国へ旅立つことができたのです。

おしまい」

ノートを閉じた西成が咲に目を向けると咲の瞳は潤んでいた。先ほどまでの苦しみに満ちた表情とは違って見えた。解き放たれたような、赦されたような、安堵に満ちた瞳をしていた。情愛を宿したひとすじの涙が頬を伝った。

咲は自分の所業を認めたわけではない。告白をしたわけでもない。

西成の作り話に耳を傾け、なんの証拠にもならない涙を流しただけだ。

よしんば咲が「天使の行為」を打ち明けたとして、誰が咲のことを問い詰めることができようか。

そして、その事実を法の下に晒すことなど、あってはならないのだ。

西成は咲に向かって自身の言葉を添える。

「おじいさんはきみに心から感謝している。それが神様である私がおじいさんから預かった、小さな天使への言伝ことづてだ」

そのひとことは、咲が一生抱え続ける後悔という痛みを和らげるための、西成からの処方箋だ。

咲は両親の元に戻り、患者家族との対話が再開された。今度は西成自身が対応を買って出、前田にも同席してもらうことにした。主治医の三上には退いてもらった。

咲はその場にそぐわないので、待っている間、勝俣が相手をしてくれることになった。

患者の息子夫婦は西成に対しても怒り心頭の様子で、対面するやいなやすぐさま荒々しい言葉を吐き出す。

「あなた弁護士なんですよね。じゃあこの落とし前はどうつけるのか、お聞かせ願いたい。人をひとり、殺しているんですからね!」

ひどく威圧的だったが、西成は臆することなく、あえて凪いた口調で答える。

「じつは原因についてはこれから調査するところです。その前に私が咲ちゃんを見つけた時の話をしたいのですが、よろしいでしょうか」

両親は一瞬、怯んだが、すぐさま気を取り直し高飛車な態度で突っかかる。

「まあ、見つけてもらったのは感謝しますが、院内での迷子ですから遅かれ早かれ見つかったことでしょう? それで偉そうな顔をするものじゃないですよ」

なおさら怒りをあらわにする息子夫婦に前田は不安が募るばかりだが、西成はあくまで冷静な表情を崩さない。

「ところで咲ちゃんがどこにいたのか、ご存じですか?」

「屋上だと聞いていますけど」

「はい、とても月が綺麗な夜でした」

「はあ? なんで今そんなことを!」

「いや、じつはその月の下で、私は咲ちゃんにこんなことを話したのです。

あくまで私の戯言ですが、さすがに見ず知らずの男がお子様になにを話したのか、せめてご両親にはお知らせしておかなければ心配されると思いまして――」

そして西成は屋上での一幕を語った。

最初は西成に対して敵意むき出しの息子であったが、西成の話を耳にすると表情は一変した。

息子夫婦はともに打ち震え、顔面蒼白になる。その感情の落差が、全景を知る西成には手に取るようにわかった。

彼らが事の真相を理解したのは明らかだった。それでもまだ彼らは、たやすく事実を認めようとはしない。

「そんなのはあなたの邪推でしょう! 咲が……うちの子がそんなことをするはずはない!」

「私もそう信じたいです。ただ、真実はどこかに残されているはずなんです」

西成は鞄の中からポリ袋を取り出す。その中にはひとつにまとめられた人工呼吸器のスパイラルチューブがあった。

袋を差し出されたふたりの瞳が大きく見開かれる。その奥には怖れの感情が詰まっていた。

「これが事故の原因となった人工呼吸器のチューブです」

西成はそれだけしか口にしなかったが意図は明白だ。

スパイラルチューブには、誰かの小さな指紋が残されているかもしれないのだ。

親としては、娘の心に大きな傷跡を残したいと思うはずがない。物的証拠の検証を望む人間など、どこにもいるはずがないのだ。

息子夫婦は拳をわなわなと震わせ、その場にうつむいたまま黙り込む。前田はその光景を狐につままれた気分でぼんやりと見ていた。

西成は静かに思いを放つ。

「今回の事案の根源は、患者さんの『死』に向き合う人間が誰もいなかったことに起因しています。

大切な家族と少しでも長く一緒にいたい、病気を改善できる可能性を捨てたくないと思うのは家族も医者も当然のことです。

けれども、いずれ訪れるであろう『死』という現実から目を逸らすべきではなかったのです。本来ならば『死』と向き合い、患者さんの最も望むことを叶えてあげるべきだったと私は思います」

「ぐっ……!」

息子は呻き声をあげた。

「とは申しましても、これはご家族の責任ではありません。

主治医の三上は全力で手術に挑み、それでも再発したがんに対して安易に負けを認めることができなかったはずです。

それが医者の性分であり、けれどもその結果、『死』と向き合うことを先延ばしにしてきたのは事実です。そのことは命を扱う者として反省しなければならない。

ですからこの一件は我々にとっても教訓となりました」

家族もまた、運命と向き合うのを避けていた自覚があるはず。『死』という現実に触れることに怯えていたのだろうと前田は察した。

それでもうつむいて打ち震える息子は西成の意図を理解しているに違いなかった。

「私の推測ですが、おじいさんの死に一番向き合っていたのは咲ちゃんだったのではないでしょうか。

 だから咲ちゃんはおじいさんが一番に望むことを感じ取っていたのでしょう」

息子夫婦はうつむき、すっかり戦意を喪失していた。そこで西成は間髪入れず尋ねる。

そう、すべてはこのひとことを切り出すために準備されたものだ。

「それではお亡くなりになった患者さんをどのように扱うかについては、ご家族の希望を最大限に汲ませていただきたいと思います」

相当にしらじらしいなと前田は思ったが、それでも家族が反論することはなかった。死と向き合ってこなかったことを認めた以上、この場は息子自身で判断しなければ咲に頭が上がらないからだ。

息子の行き着いた結論は想像通りであった。

「はい……父の死は大腸がんによる病死です。警察とか、事故調査委員会とかは勘弁してください。このまま家に連れて帰らせてください」

息子は机に両手をつけてまぶたを強く閉じ、ひたいを机に擦りつけた。

前田は隠し持っていたレコーダーのスイッチを止めたが、今後、それが法廷で必要になることはないだろうと思い小さく息をついた。

患者の遺体が寝台車に乗せられる。ストレッチャーが後部座席に滑り込み、バックドアが閉じられた後、息子と妻が深々と頭を下げる。

裏口の駐車場は、檸檬色の月明かりに淡く照らされていた。

息子夫婦は申し訳なさそうに声を揃えて言う。

「今まで大変お世話になりました」

その場には西成と前田だけでなく、主治医の三上、事務長、師長、そして勝俣の姿もあった。皆、沈黙を守りつつも、腑に落ちない感情が表情に浮かんでは消えており、その奇妙な光景が場の空気を支配していた。

事情を把握しているのは咲を含めた遺族と、西成、それに秘書の前田だけだ。前田は離れた街灯の下でペンを走らせ一部始終を記録している。

母に寄り添う咲は西成を見上げて息を吸い込み、唐突に声をあげた。

「神様のおじさん! あたし将来、絶対看護師さんになるっ! それで、たくさんの人を助けるから、おじさん、絶対、神様やめないでね!」

晴れた月夜のように輪郭の明瞭な声が、しじまの深い風になる。西成はらしくない照れた笑みを浮かべる。

一歩踏み出して咲の目の前にしゃがみ込み、その頭を優しく撫でた。

咲は両親の手前、肩をすくめて恥ずかしそうな顔をする。

「ああ、きみは必ず素敵な天使になれるよ。神様のお墨付きだからね」

そのひとことに咲は、満月のような笑顔を見せてくれた。皆は不思議そうな顔でそんなふたりの様子を眺めている。

遺族たちが乗り込んだ寝台車がゆったりと動き始める。スタッフは頭を下げて見送った。患者さんとの、永遠のお別れの儀式。

去りゆく寝台車が夜に溶けてゆき、視界から消えたところで皆、頭を上げた。

終始、腑に落ちない顔をしていた三上が西成に小声で尋ねる。

「西成先生、医療事故が起きて酷い剣幕だった息子が、こんなに穏便になって、しかも事故の調査自体を拒否するなんて、あなたはいったいどんな説得をされたんですか?」

西成は思い出すように夜空を見上げる。普段よりもやけに月が眩しく見えた。その輪郭に咲の声を重ねて思う。

「さあ、どうでしょうね。でもそれを理解するためには、三上先生も自分が最期を迎える時のことを、本気で想像してみたらいかがでしょうか」

「それはいったい、どういう意味ですか……?」

なおさら怪訝そうな顔をする三上に対して、西成は目尻に皺を寄せた。

その表情は、慈愛に満ちた神様の優しさと、心をえぐる悪魔の残酷さが同居しているかのようだった。西成は重々しく、天を仰ぎながら呟いた。

「答えは月明かりが知っていますよ」

悠然とした西成の背中を、前田は街灯の下からじっと睨み続けていた。

その夜、前田は遅くまでひとりで「診療部門特別相談室」に残っていた。音楽を鳴り響かせていたレコードプレーヤーを見つめてぼんやりと思考を巡らせる。静寂の中、残響が脳裏から離れないでいた。

――西成先生は今回も見事に事件を解決させてみせた。

前田は西成の人間の深層心理を見抜く力に何度、度肝を抜かれたことか。そして事件が厄介であればあるほど、西成の思考は研ぎ澄まされるのだ。

――もしかすると西成先生の祖先は、歴史の物語に登場する名探偵か、あるいは名高い怪盗なのかも。

そう思ってしまうほど、前田にとって西成は憎たらしくなるほどの魅力的な中年男性なのだ。前田が乗り越えなければならないと刃向かう相手は、あまりにも手強く、それでいて恨めしいほど男の色気を漂わせている。

立ち上がり今日聞いたレコードを棚からそっと取り出す。

チャイコフスキーの『交響曲第六番 悲愴』。

音楽を再生し、音色に身を委ねながら今日の出来事を思い返す。

――でも、こんな解決の仕方、ほんとうに許されるものなのだろうか。

この解決法は、ありていに言えば罪の隠ぺいだ。前田の倫理観が抵抗を示さないはずはない。

けれどいくら知恵を絞っても、誰もが傷つかずに解決する方法など、ほかに考えつくはずもなかった。

正義とは思えない、けれど最善としか言いようのない終幕。

――わたしも西成先生のように、人間を深く知ることができるようになるのだろうか。

思えば西成の秘書として働き出してから、どれほど西成の洞察力に驚かされ、同時に自身の未熟さを痛感したことか。今日もまた、なけなしの自信が削がれる一日となった。

けれどどんなに意気消沈しようとも、明日は構わずやってくる。そして『診療部門特別相談室』には、新たな厄介事が訪れるに違いない。


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