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西成弁護士の奇妙な事件診療録(第3話 怪異の復讐劇)


#創作大賞2024 #ミステリー小説部門

【目次とリンク】

第1話 神様と小さな天使
第2話 オーバーカム・ザ・バイアス

第3話 怪異の復讐劇
第4話 時を止めた研究者
第5話 ふたりの過去
最終話 銀鱗躍動 

それは夜嵐よあらしが訪れた翌日のことだった。

東山総合病院に出勤した前田美穂まえだみほは、職場の雰囲気にどことなく違和感があることに気づいた。病院の入り口にはパトカーが一台停まっていたし、上司の西成仁にしなりひとしは普段よりも早く出勤し、なんらかの仕事に取りかかっているようだった。卓上に鞄が置いてあった。

廊下ではせわしなく行き来する事務員の姿が目につき、医局では医師たちが集まり神妙な面持ちで話をしている。

西成の秘書である前田は、病院に勤務しているとはいえ医療従事者とは言い難い立場だ。だから患者情報が耳に届きづらく、もどかしいと思うところだ。

立ち込める事件の匂いに胸がざわめき、いてもたってもいられなくなった。荷物を置いてひとり病棟に足を運んだ。

すると不穏な空気の原因は形成外科病棟にあった。前田は看護師長の佐分利さぶりに尋ねる。

「なにがあったんですか、佐分利さん。皆、そわそわしていますけれど」

佐分利はいささか慌てた様子で事情を説明する。

「殺人未遂事件よ、それも女子高の生徒が三人!」

「殺人未遂、ですか!?」

指を三本立ててはいるが、昨夜、形成外科病棟に入院したのはひとりだけのようだ。ホワイトボードの新規入院患者欄に『三田村薫みたむらかおる』とだけ書かれている。彼女が傷を負って入院した被害者なのだろう。

「しかも三人いっぺんって、通り魔でしょうか……」

この都市は、治安は良いほうだと聞いていたが、殺人未遂事件と聞いて前田は肝を冷やす。けれど師長が口にしたのは前田の想像を超える出来事だった。

「違うのよ、その三人が互いにナイフで切りつけあったのよ!」

前田は驚きで一瞬、声を失った。

「同じクラスの友達同士だっていうのに、信じられないわねぇ」

佐分利は来院時に撮影された写真を前田に見せた。卵のような滑らかな頬がぱっくりと割れ、赤黒い肉が露出している。無惨にも血で染められた女子高生の顔写真は見るに耐えかねた。

なるほど、警察が来ていた理由も納得できる。三人は被害者であり、同時に加害者でもあるのだ。

「どうしてこんなことに……」

「じつはね、救急車に同乗していたクラスメートの話によると、昨日の放課後、三人は夜まで学校に残って、霊を呼び寄せる儀式をやっていたんだって」

「霊を呼び寄せる儀式、ですか……?」

まさか霊に体を乗っ取られたのではと一瞬、非科学的な憶測がよぎる。

「精神科の畠山はたけやま先生は、集団ヒステリーじゃないかって。それにしても今の若い子ってなに考えているかわからないわぁ」

どうやら被害者は朝一番で専門医の診療を受けていたようだ。佐分利は困惑気味に肩をすくめる。

「ところで、あとのふたりはどうなったんでしょうか」

「厄介な状況だからほかの病院じゃ門前払いだったらしいわ。それでね、結局は三人ともこの病院に運ばれたわけよ」

救急隊は別々の病院に連絡を取ったが断られたらしい。当直医はてんてこまいだったろうが、患者を監視できるシステムがあり、心身の面でサポートできる病院といえば限られているからやむを得ない。

「でも、お互いを接触させるわけにはいかないから、別の病棟の個室に隔離して監視下に置いているの。変な気を起こさないか心配で、スタッフは神経をとがらせているわ」

なるほど、それが朝から物々しい雰囲気の理由なのだと前田は理解した。

モニターの画面を確認すると、三田村薫は鉄格子のベッド上で布団に隠れて丸くなっている。まるでなにかに怯えているようにも見えた。

「佐分利さん、ありがとうございます」

前田は佐分利に礼を言い、ほかの病棟に入院しているふたりを見に行くことにした。

もうひとりは内科の病棟に入院していた。ナースステーションには西成と警官、それに精神科の科長である畠山の姿があった。

前田は話の腰を折らないようにとそっと近づき、西成の視界の中で軽く一礼をする。

「おはようございます、西成先生」

「前田さん、おはようございます。ああ、この事件が気になってきたのですね」

「はい、事情はほかの病棟で聞きました」

「そうですか、では話が早いです。こちらがこの事件の担当になった大林おおばやし警部です」

西成が紹介した警察は、見た目は四十過ぎくらいに見えた。手帳を片手にペンを走らせているが、どことなく落ち着きのない様子だった。

それに西成は「警部」と言ったが、前田が仕事で関わったことのある「警部」はもっと若い者ばかりだったことを思い出す。もしかしたら、功を焦っているノンキャリアなのかもしれないと想像した。

「よろしくお願いします、大林警部。西成先生の秘書の前田です」

「ああ、秘書さんですか。法律家ではないんですね」

「ええ、まあ……」

大林の口調は前田を下に見ているような節があった。西成がすかさず大林に言い返す。

「警部、彼女は頼りになる私の部下です。だから彼女にも協力してもらおうと思っています。よろしいでしょうか」

「彼女にですか? ――ええ、まあいいでしょう」

疑問符を浮かべること自体が、失礼なことだと感じた。けれどなんの資格も実績もない前田は、湧き起こる心のもやを自身で処理するしかない。

身を引いてそろりとモニターを覗くと、もうひとりの被害者である『福山萌ふくやまもえ』の姿が見えた。『三田村薫』と同様、ベッドの中で怯えるように丸くなっている。

「しかし畠山先生、三人を診察したのに手掛かりひとつ得られないとは、どういうことなんですか」

いくばくかの苛立ちを見せながら、大林は急かすように尋ねる。

「彼女たちは皆、なにも答えませんでした。ですから彼女自身にも自分の行動が理解できていないのではないかと思います。冷静さを取り戻すまで待ちましょう」

大林は露骨に顔を歪めた。気づいた西成はすぐさま割って入る。

「それでは大林警部、得られた情報については私のほうから警部に連絡しますから」

「助かります、情報は共有したいので。弁護士さんであれば心得ているから安心です」

警察という仕事柄なのか、医療従事者すら信用していないような態度が垣間見える。けれど法を扱う弁護士に対しては違うらしい。

「彼女たちのスマホはこちらで預かっていますから、事件に関係するやり取りの内容が判明したらお伝えしますよ。だからそちらも上手いこと、事情を訊きだしてください」

大林はあたかも交換条件のようにそう言い、荒い靴音を残して病棟を後にした。

前田は、心配そうな眼差しで西成とともにもうひとりの入院患者の様子を確かめた。

三人目は『横山里奈よこやまりな』という名の女子高生で、やはり布団にくるまって身を隠し、恐怖に怯えているような姿だった。

「西成先生、まるで同じですね」

「そのようですね。誰が主犯、とかそういう問題ではなさそうに思います。それに畠山先生も今は刺激しないほうが良いとおっしゃっていました。そうなると真相の解明は難しそうです」

前田は話が進まず苛立つ大林の顔を思い出す。そこで抱いた疑問を西成にそっと尋ねる。

「さっきの警部は、西成先生にかなり信頼を寄せているように見えましたが、以前からのお知り合いなのでしょうか?」

「ああ、過去にとある案件で関わりがありましてね」

「どんな案件だったのか、差し支えなければ教えていただけますか」

「じつはですね、自殺の案件なんです」

「自殺――ですか!?」

「女子高生が自室で首を吊って亡くなったんです。当院に運ばれ、異状死体として警察を呼びましたが、事件性はなく自殺だと処理されました。大林警部はその時の担当だったんです。前田さんが就職する少し前のことです」

それはつまり、一年以内の出来事であり、比較的最近のことを指している。

「偶然、同じ方が担当されていたんですね」

「いや、事情は少々複雑です。大林警部の話では、自殺した女子高生は、今回の事件の被害者たちと同じ教室の空気を共有していたのです」

「同じクラスで起きた事件だったんですか!?」

「はい。だからそのクラスの事情を知っている大林警部が今回の事件の担当になったようです。警部の話によると、自殺の理由は明らかにされなかったようです。その女子高生の名前は、たしか――『桜田葵さくらだあおい』と言いました」

西成の銀縁眼鏡の奥で、瞳が鋭い光を放ち、なにかを察知したかのように輝いていた。

入院した三人の女子高生――三田村薫、福山萌、横山里奈は皆、一日のほとんどを布団にくるまったまま過ごしていた。

トイレに行く時も看護師の付き添いを求めており、小動物のようにびくびくとしながら辺りを見回している。顔にはガーゼが貼られ、腕には包帯が巻かれている。見るからに痛々しい。

夕方になると、担任と女子生徒がひとり、見舞いに病院を訪れた。

担任は須崎すざきという名の年配の男性教師だった。西成は須崎に挨拶をする。

「はじめまして、須崎先生。詳しく話を聞かせていただきたいのですが、よろしいでしょうか」

「あっ、ああ、べつに構いませんが……」

須崎は生徒たちに会う前からすでに顔色が悪い。担任教師として不祥事に責任を感じているのだろうが、なにか深刻な事情を抱えているようにも見えた。

「クラスメートがご迷惑をおかけしてすみません。彼女たちと同じクラスの学級委員をしています、今村優奈いまむらゆなと言います」

一方、同伴していた女子生徒は、穏やかな振る舞いで前田たちに丁寧に自己紹介し、軽く頭を下げた。前田は彼女の落ち着き払った態度に、しっかりとした印象を受ける。特に、左手首に巻かれた色鮮やかな組紐のミサンガが、彼女の上品さを際立たせていた。

今村は話が長くなりそうだと察したのか、その場で須崎に断りを入れる。

「先生、わたし、授業のノートをみんなに渡してきますね」

そう言って鞄から三冊のキャンパスノートを取り出した。入院している彼女たちのためにクラスメートが準備したようだ。

しかし、今日の彼女たちの様子を見るに、心の傷が癒えるまでは、勉強に集中することは難しいだろうと前田は心配した。

前田は須崎を病棟の面談室に案内する。西成、畠山、そして前田は椅子に腰を下ろして須崎と向かいあう。

彼女たちのクラスの人間関係や出来事を把握することは、原因を突き止める手掛かりになるはずだ。けれど彼女たちが口を開かない以上、周囲の人間に聞き込みをするしかない。

「須崎先生、生徒たちの不幸な事件での心労、お察しいたします」

西成はまず、担任を気遣う言葉をかける。

「そう言っていただけると救われます。でも、指導者としてほんとうに情けない限りです」

畠山はノートを開き、狼狽する須崎に対して慎重に質問を始める。

「ところでお尋ねしたいのですが、彼女たちはクラスの中でどのような関係だったんですか」

「ああ、放課後はいつも一緒に下校し、休日も街で遊んでいたようです。それくらい仲の良い間柄だったんです」

「ほかの生徒との関係はどうでしょう」

「彼女たち三人は、クラスの中心にいることを好む活発な生徒で、そのため他の生徒たちは彼女たちの影に隠れる形で控えめな態度を取っていました」

どのクラスにも、自分の存在を主張したがる生徒はいるものだ。前田は、彼女たちもそのタイプなのだろうと推測した。

「ほかに、彼女以外のクラスメートで変わった様子はありましたか?」

そう尋ねると須崎の表情がひどく歪んだ。ひたいには不自然にも大粒の汗が浮かぶ。

「どうかされましたか」

「じつは最近、クラスの中で奇妙なことが続いていたんです」

「奇妙なこと?」

「生徒たちが、次々と怪我をしていくんです」

畠山が驚いて目を見開く。

「怪我ですか? それは誰かにやられたという意味ですか」

前田は入院している三人の女子生徒を真っ先に思い浮かべた。互いに刃物で傷つけ合うような狂気じみた生徒だとすれば、ほかの誰かを傷つけてもおかしくない。

けれどその疑念は即刻、否定された。

「いえ、違うんです。小さな手足の擦り傷から始まって、生徒が順番にひとりずつ、怪我を負っていったんです。最初は気にも留めなかったのですが、だんだん重い怪我になっていくようで、数日前には演劇部の生徒が骨折をし、松葉杖で登校していました」

「どういうことでしょう」

「わかりません。ただ、怪我をしたのは自宅だったり部活だったりと人目のあるところですから、誰かのしわざではないようです」

「そうですか。ところで入院した三人は怪我をしたことがあったんでしょうか」

「ああ、そう言われてみますと彼女たちだけは無傷でしたね。でも今回の傷害事件が、ほかの生徒たちの怪我と関係があるとは思えません」

畠山と須崎はふたりとも首をひねっていた。西成はそのやり取りを黙って聞いているのみだ。

前田は三人の女子生徒がいまだに怯えているのを思い出した。それに同じクラスには過去に自殺した生徒がいるという。そして度重なるクラスメートの怪我。

これはもしかすると、『怪異』のしわざなのではないか。誰かがクラスの生徒に呪いをかけているのではないか。そう想像して背筋がぞっと冷たくなる。

須崎への質問を終えたところで畠山はノートを閉じる。

「須崎先生、お時間をくださりありがとうございました」

「いえ、こちらこそ。教育委員会への報告があって、五時までには学校に戻らないといけないんです。また明日来ますので、彼女たちの様子を教えてください」

「わかりました、気を配っておきます」

畠山がそう答えると、須崎は立ち上がりそそくさと面談室を後にした。

「うーむ、前田さんはどう思いますか」

それまで口を閉ざしていた西成が尋ねた。

「生徒たちが次々に怪我をするなんて、なにかおかしいと思いますけど」

「まぁ、若くて活発なら多少の怪我はつきものでしょう。しかし、前田さん、まさかそれがなにか超自然的な力の仕業だとでも考えているのですか?」

「いっ、いえ、そんなことは――」

西成の洞察が図星だったので、前田は一瞬、肩を跳ねさせた。すぐさま否定しようと思ったが、西成の慧眼を誤魔化せるはずはない。

「――そうかもしれないと思っています」

顔を赤らめながらも正直に告白する。

「たしかに、こうも不可解な出来事が続くと、人智を超えたなにかの力を疑いたくなるものです」

西成ですらそう考えてしまうのだと知り、前田は妙な安堵を覚えた。けれどそうした逃げ道の感情は解決の糸口になるはずもないと思い直し、すぐさま思考からふるい落とす。

その時、畠山のポケットで着信音が鳴った。院内PHSでの呼び出しだ。電話を受けた畠山は数言発した後、黙り込んで眉をひそめた。

「はい、すぐにそちらへ向かいます」

その呼び出しは、傷害を受けた生徒のひとりである福山萌が入院している病棟からだった。西成と前田も後を追う。

病棟に着くと、看護師たちが監視モニターの前に集まっていた。皆、真剣な表情で録画された画像を確認している。

「どうしたんですか」

「ああ、畠山先生。これなんですけど」

畠山が尋ねると、担当の看護師が映像を指し示す。病室を訪れた今村がノートをサイドテーブルに置き、二言三言、言葉をかける。けれど福山萌は布団にくるまったまま顔を見せようともしない。

今村が病室を出ていった後、しばらくして福山萌がおもむろに顔を出した。ノートを手に取りぱらぱらとページをめくる。なんとなく目を通しているだけで、頭に入れている様子はない。

すると福山萌の手がぴたりと止まる。

突然、狂ったようにそのノートを壁に叩きつけた。

あっ、と前田は思わず声を上げた。

それから福山萌は必死にナースコールを探し、見つけると一心不乱にボタンを押し続けた。

看護師が部屋に着くと、福山萌は床に落ちたノートを指差し叫ぶ。

「そのノート、どこかに持って行って捨てて!」

まるで恐怖で気が触れたかのようだった。言われた通り、看護師がノートを部屋の外に持ち出すと、福山萌はふたたび頭から布団を被り動かなくなった。

それが映像に残された情報だった。スタッフは皆、理由がわからず唖然とする。

「あのノートにはいったい、なにが書かれていたんですか」

前田は率直に尋ねる。福山萌はたしかに、同級生から渡されたノートを見て怯えたのだ。看護師は回収したノートを前田に手渡す。

「これなんですけど。前田さんはこの意味、わかりますか」

受け取ったノートをめくると、英語の文法、化学式、数式などが書かれている。授業の内容を一冊に書き留めているようで、まさに彼女たちのために用意したものだった。

けれど最後のページで目に留まったのは、一面に大きく書かれたひとこと。それは授業とは無縁で異質な、意味不明な一文だった。

『おとぼけ様って、誰――?』

福山萌はたしかに、その問いかけにおびえていたのだ。

『おとぼけ様』

前田がインターネットで検索すると、それが何者なのか、答えはすぐに見つかった。

『おとぼけ様』はソーシャルメディアネットワークに出現する『怪異』として知られていた。フォローされると『おとぼけ様』からフォロワーへメッセージが送られてくるらしい。

それは、メッセージの内容が必ず現実となる予言者の霊だという。予言の内容は他人の不幸であり、避けようとしても逃れる術はない。唯一、おとぼけ様から逃れるには、おとぼけ様についてのいっさいの記憶を封じること。詳しい情報が都市伝説のサイトに載っていた。

けれどなぜ、その『怪異』がノートに書かれていたのか。それを知っているのはノートをこしらえたクラスメートだけだ。

翌日、出勤した西成はひとつ咳払いをしてから前田に尋ねる。

「前田さん、あなたに頼みたいことがあるのですが」

「なんでしょうか、西成先生からお願いなんて珍しいですね」

西成があらたまって頼むのだから重大な任務に違いない。前田はきゅっと口元を引き結ぶ。

「今度、学級委員の生徒がお見舞いにきたら、それとなく尋ねてほしいことがあるんです。なにせ相手が女子高生ですから、私よりもあなたのほうが話しやすいでしょう」

なるほど、クラスの事情を探る役目なのか、と前田は納得した。

「わかりました。努力してみます」

その日の午後、来院したのは先日の女子生徒、今村優奈だった。着く前に担任の須崎から連絡があった。須崎の話によると、彼女はたいそう真面目で成績も良く、友人も多いという。見本のような学生で、みずからお見舞いに行くと言い出したらしい。

ただ、彼女たち三人とは親密な間柄というわけではない。

「今村さんだよね、少しお話をしてもいいかしら」

「あっ、はい、なんでしょうか。昨日の綺麗なお姉さん」

今村は懐っこい笑顔で飛び跳ねるように前田に寄ってきた。まるで警戒心を抱いていなかったので、前田はほっと胸を撫で下ろす。ごく自然に笑顔が浮かんだ。

「苦労して作ってくれた授業のノートのことなんだけどね、最後に書かれていた『おとぼけ様』っていったいなんなのかな」

心当たりがあったようで、今村の表情がぱっと明るくなった。

「ああ~、あれですね。じつは三田村さん、福山さん、横山さんの間で話題になっていたことなんです」

「話題になっていたって?」

「なんか、あの三人だけ『おとぼけ様』っていうアカウントからフォローがきたらしいんです」

前田はまさかと思った。都市伝説の『怪異』が彼女たちの目の前に現れたというのか。

「それで、予言がどうとか、大声で盛り上がっていたんです。まるで自分たちが選ばれた人間だと誇示したいようにも思えましたけど」

「へぇー、予言かぁ。世の中には奇妙なことがあるのね」

前田は『怪異』の都市伝説については知らないふりをしつつ、さらに尋ねる。

「ところでその『おとぼけ様』は、どんなメッセージを送ってきたのかな」

「それが、誰かが怪我をするとか、事故に遭うとか、ちょっとした不幸な内容でした。その誰かって、必ずクラスの誰かなんです」

「それって、誰かのいたずらじゃないのかしら」

「でも、あの子たちは誰にどんなことが起きるのか、具体的に知らされていたようなんです。毎回、当たったって大騒ぎしていました」

「ほんとうに?」

「はい。ですからわたしたちは、彼女たちの言う『おとぼけ様』がいったいなんなのか気になって仕方なかったんです。でも、あんまり親密じゃなかったので聞けなくて。

けれどせっかく授業のノートを作るんだから、その『おとぼけ様』が誰なのかくらい教えてくれるかな、ってみんな期待していたんです。だからノートを分担して書いた誰かが、その質問をしたんだと思います」

「だけど彼女は『おとぼけ様って、誰?』っていう、ノートの最後に書かれた問いかけに怖がっていたの」

すると今村は一瞬、はたと息をひそめた。そのことを想定していたのか、それとも予想外だったのか、前田にはわからなかった。

じつのところ、福山に渡したノート以外のものにも同じことが書かれていて、あとのふたりもその言葉に怯えていたのだ。

「さあ、どうして彼女たちが今、『おとぼけ様』を怖がっているのかはわからないです。ただクラスでは、彼女たちが『おとぼけ様』に取り憑かれたんだって噂していますよ」

今村が言うには、あたかも『怪異』がこの事件を引き起こしたかのようだ。

看護師長である佐分利が、『霊を呼び寄せる儀式をおこなっていた』と言っていたことを思い出す。

たしかに、その儀式を執りおこなうまではおとぼけ様の話題で盛り上がっていたというのに、今はひどく恐れているのだ。

――まさかほんとうに霊を呼び出してしまったのだろうか?

前田は『怪異』の証言に背筋が冷たくなる。聞いたからには夢に出ることを覚悟しなくてはならない。

「今村さん、どうもありがとう。クラスメートのために頑張れるなんて、友達思いなんだね」

そう言って笑顔を見せると、今村はなぜか急に表情を曇らせた。終始冷静だった彼女が見せた、わずかな感情の変化がそこにはあった。

「どうしたの?」

前田が不思議に思い尋ねると、今村は少しだけ寂しそうに答えた。

「いえ、なんでもないです。ただ、わたしはそんなに友達思いじゃないですから」

「ややっ、西成先生! 新たな情報が入りましたよ!」

大林警部が意気揚々と『診療部門特別相談室』に足を踏み入れる。アポなしだというのに遠慮するような様子はいっさいない。捜査の一環とはいえ、事前に約束を取り付けてもらいたいものだ。

前田は急いで書類を片付け、テーブルを拭き、コスモスを挿した花瓶をテーブルの中央に据えた。それから電気ケトルにミネラルウォーターを注いで電源を点ける。せめてお茶と菓子の準備をするくらいの時間はほしかった。

『怪異』の話は西成が大林に伝えたようで、だから大林も西成に対して知る情報を与えるつもりらしい。この不可解な傷害事件の原因が究明できれば、警察官としての彼の手柄になるのだろう。

どっかと遠慮なしにソファーに腰を下ろす。

「どんな情報でしょうか、大林警部」

「これは大きいですよ。まずは、彼女たちに送信された『おとぼけ様』からのメッセージの内容がわかりました」

「運営元に問い合わせたんですね」

「はい、彼女たちの親からメールアドレスを教えてもらいました。それでアカウントが特定できました。プロバイダーにはかなりプッシュしましたよ。なにせ『おとぼけ様』は殺人未遂事件の容疑者ですからね」

警察法に則って情報開示請求をすれば、プロバイダーは対応しないわけにはいかない。ここは警察の強みだな、と前田は感心した。

「その内容、確認させていただいてもよろしいでしょうか」

「いいですよ、コピーを用意してあります。でも機密事項ですので、西成先生以外には閲覧させないでください」

「秘書の前田さんもよろしいでしょうか」

すると手を止めてじろりと前田を見上げる。ひどく不服そうな表情だ。

「まぁ、いいでしょう。西成先生の監督下であれば、ですがね」

難色を示しながらも了承し、アタッシュケースの鍵を開けて中から書類を取り出す。プロバイダーから提供されたやり取りの情報は時系列に沿って並べられていた。メッセージが誰のアカウントに送信されたのか、明確に示されている。

メッセージの最初は半年ほど前。一通目は簡素な挨拶文だった。クラスの人数は二十九名だが、後に続く二十六通のメッセージにはクラスメートの名前とともに予言が記されている。

一通目。

『わたしの名は『おとぼけ』。わたしはそなたたちに未来を伝えるために現れた』

二通目。

『〇〇が包丁で失敗し左中指を受傷する』

十四通目。

『△△が自転車で転倒し頭部を打撲する』

二十六通目。

『□□が高所から落下し右脚を骨折する』

一週間にひとつずつのペースで送られており、最初の予言の不幸は程度が軽く、次第に重い病気や怪我となっている。

「これが予言の内容ですね。当たっている確証はあるのですか」

「はい。最後のほうの大きな怪我は学校に記録があったそうです。先ほど担任に電話で確認したので間違いないです」

「なんと……」

予言は三人に対して、まるで運命の輪を回すかのように順番に送られていた。内容を確かめれば確かめるほど、ソーシャルネットワーク上の都市伝説に合致する。

「だけど、なぜか入院した三人だけは含まれていませんね」

西成は怪訝そうに尋ねる。

前田は、『おとぼけ様』が特別な目をかけているのがその三人であるならば、彼女たちにはなにも起こらないのが自然だと考えた。

「たしかにそうですね。でもそこで、おとぼけ様の予知は息をひそめています。ただ、その後はうって変わって奇妙な内容です」

「ほう、どのような内容ですか。どれどれ――」

西成が視線を移動させる。前田も読み進めていくと、具体的な指示を含むメッセージが並んでいた。

『そなたたちが望むのであれば、わたしはそなたたちの前に現れよう』

『放課後の教室の床に六芒星を。闇夜が良いが、空が雲に覆われているならば構わない。カーテンを閉め、限りなく夜の世界に近づけるように』

『六芒星の中央にはロウソクを立て、火を灯すように。数は問わないが、皿の上に立て倒れないように。わたしは淡い橙色の空間が好みである』

『わたしはりんごを食したい。りんごを三つ用意し、三人は六芒星の先端に立ち、誰もいない先端にはりんごを置くように。互い違いになるように配置しなければならない』

『りんごを剥くためのナイフをみっつ、それも同じものを用意するように。ナイフはりんごに垂直に刺して置いておくこと。ただし、わたしは金属に弱い。ナイフを向けてはならない』

その内容は具体的な儀式の段取りについてだった。

彼女たちが儀式をおこなったのは、『おとぼけ様』が彼女たちに自身を呼び出させようとしたからのように思える。そうだとすれば、この傷害事件はほんとうに『怪異』のしわざなのではないかと前田は考えてしまう。

『そして、わたしをこの世に呼び出すための儀式は――……』

そのあとには呪文のような長文が記されていた。そして最後は、こんな言葉で締めくくられていた。

『準備ができたら、三人で声を合わせて呪文を詠唱するように。ただし、この呪文はどこかに書き写す、あるいは誰かに送信した場合は効力が失われ徒労に終わるだろう。心してかかれよ。わたしはそなたたちとともにある』

この召喚の儀式に関わる文は、数分の違いで三人全員に送られていた。

それから先は、事件が起きた日の六時過ぎから連続して送られていた。ちょうど嵐となった夜で、まるで儀式がおこなわれるのを心待ちにしていたような迅速な送信だった。

『だれがおとぼけ様か、わかる?』

『ちょっとだけ我慢してね』

『わたしよりはましだと思うけど』

『こっちへおいでよ』

『もうおこっていないよ』

『こんどはなかよくしようよ』

なぜか親しげな文体となっており、まるで友人からのメッセージのようにも受け取れる。これらのメッセージは、三人ほぼ同時に、それも数秒のずれもなく送られていた。同じアカウントからの送信だった。

「同時に送信、ですか。物理的に可能なのでしょうか」

西成は首をひねったが、前田は思いついて口を開く。

「でも西成先生、複数の端末で同時にログインして送信すれば可能ですよね」

ふたりの視線が前田に向けられる。大林は先を越されたと思ったのか、不機嫌そうに眉を吊り上げた。

「たしかにその秘書の方の言う通りですね。じつはこれらのメッセージの送信は、複数のデバイスが用いられているようなんです」

「なるほど、複数ですか。ちなみに送信元は特定できましたか」

「いえ、それが……プロバイダーはメッセージの内容を確認し、『誹謗中傷や犯罪に関係するものではありませんので、個人情報をお伝えする必要はないと判断しました』と突っ返してきたんです」

「たしかにこの内容では個人情報開示を請求するには不十分かもしれません」

そこで大林は冷ややかな眼差しで西成を見つめ、身を乗り出して低い声を発する。

「じゃあ、今度は西成先生の番ですよ。これだけの情報を出したんですから、そろそろ被疑者の証言を聞かせてもらえませんか」

大林は入院している女子生徒の三人を『被害者』ではなく『被疑者』と呼んだ。

「彼女たちはなにかに怯えていますから、今は刺激するべきではありません。これは畠山先生の、専門医としての見解です」

西成は丁寧に答えたが、大林は舌を鳴らして腕を組む。

「我々も、そうそう暇ではないんですよ。未成年とはいえ、傷害事件の加害者が三人、この建物の中にいるんですからね。あなたたちがうまいこと喋らせられれば、事件はさらりと解決できるというのに」

西成と前田は大林の不遜な態度に顔を見合わせた。強引にでも口を割らせようとする、短絡的な思考回路の持ち主なのだろうと思い、前田はほんの一瞬、鋭い視線で大林を刺した。

「――わかりました。それでは、畠山先生にも話を聞いてみます」

「頼りにしていますからね、弁護士先生」

大林は嫌味な言い方をしてから立ち上がり、アタッシュケースを手にして踵を返す。振り返ることもなく部屋を立ち去っていった。

足音が遠ざかってから、前田は西成にぽろりとこぼす。

「……西成先生、わたしはあの人が功を焦っているように見えるんです」

「やっぱりそうですか。前田さんは人を見る目がありますね」

「いえ、そんな。ただ、入院している子たちを大林警部に会わせてはいけない気がしました」

「私も同感です。退院させたら強引に聞き込みをしそうですからね。『おとぼけ様』というキーワードで彼女たちの恐怖心を引きずり出すことになるでしょう」

「なんとかして真相を突き止めたいのですが……」

「だけどこの事件は謎が多すぎて、どこに手がかりがあるのか見当がつきません」

百戦錬磨の西成でさえ、五里霧中で困惑している様子だった。

――原因がほんとうに『怪異』だから、西成先生ですら解決できないのかも。

前田はそんなふうに考えるしかなかった。

けれど自分なりに打開策を考えようと思い、秘書のデスクに一度戻って、今までの情報をパソコンに時系列でまとめてみることにした。

昨年、『桜田葵』というクラスメートが自殺した。

その後、『おとぼけ様』からの予言のメッセージが届くようになる。

受け取ったのは、クラスで目立ちたがり屋の三田村薫、福山萌、それに横山里奈。それから『おとぼけ様』の予言通りにクラスメートに不幸が起きる。それも軽いものから重いものへと。

予言は三人を残して終わり、『おとぼけ様』は召喚の儀式の指示を出す。複数の端末からの同時送信。

そして事件は起きた。教室は血の海となったのだ。彼女たちは救急車で運ばれてこの病院に入院した。

翌日、クラスメートの今村優奈が見舞いに来院し、渡した授業ノートを見て恐怖に陥る。そこには『おとぼけ様』と書かれていた。

まとめたところで前田は読み返し、ごくりと唾を飲み込む。おそるおそる西成に尋ねた。

「こう読んでみますと、まるで自殺したクラスメートが全員に呪いをかけているようです。ネットで噂される都市伝説とまるで同じですから」

「むぅ、たしかにそう思うのも納得できますが、なにかが引っかかるんですよね……」

西成は現実主義なようで、『怪異』とは考えていないようだ。凛々しい表情で窓の外の夕暮れを眺めている。

「ところで西成先生、その自殺した女子生徒はどんな性格だったかわかりますか」

「朗らかで友人が多かったとのことでした。だから両親も自殺だなんて信じられなかったようです」

「それなのになんで自殺なんか……」

「わかりません。ただ、原因があるとすれば――学校での出来事でしょうか」

「うーん……」

前田はあらためて彼女たちが恐れた三冊のノートを見返してみる。皆で手分けしたのだろう、いずれも異なる筆跡で書かれている。

けれど最後のページで目が止まった。

『おとぼけ様って、誰――?』

その一文だけは、すべて同じ筆跡だった。はっとなって西成を見やる。

「西成先生、三人のノートに書かれた言葉の筆跡を見比べてもらえますか」

西成は視線を順に移してゆく。突然、表情が険しくなった。

「ああ、前田さん、よく気づきましたね。ところでこのノートを持ってきたのはクラスメートの子でしたよね」

「はい、今村さんという、組紐のミサンガをした人懐っこい子です」

「組紐のミサンガ?」

「はい。手首に巻かれていたの、お気づきではありませんでしたか?」

尋ねるが西成から返事はない。黙考した後、銀縁眼鏡の奥の瞳を輝かせ、すっくと立ち上がり、電子カルテの端末の前に歩を進める。

しばらくカルテを検索し、一枚の画像を画面に展開させた。

「もしかして、そのミサンガ、これと同じものではありませんか?」

画像は手首に巻かれたミサンガを拡大したものだった。今村の身に着けていたものと同一の柄。けれど手首の肌は蒼白で、明らかに今村の血色とは異なっていた。

不思議に思い、開いたカルテの名前を確かめる。そこに表示されていたのは――『桜田葵』、自殺した女子生徒の名前だった。

「これって――」

「今村さんと桜田さんは、深い絆で結ばれていたはずです」

同じ組紐を身に着けているふたりは、親友と呼べる間柄だったに違いない。そうだとすれば、過去の自殺と今回の刺傷事件は無関係ではないはず。

西成は棚の前に足を進め、レコードのジャケットを目で探り始めた。

――西成先生は、この謎を解くつもりなんだ。

就職した当初、前田は西成がかつて在学中に管弦楽部の指揮者をつとめていたのだと聞かされた。前田は心の中で「ノルスタジーに浸っても若返るわけじゃありませんからね!」と毒づいたが、旋律に合わせて腕を振る西成の姿を目の当たりにした瞬間に言葉を失った。

真剣な表情で正確に指揮をとり、音色に合わせて身体を揺らすさまは、まるで音楽の流れを導いているようであり、自身が音の一部に溶けているようでもある。

そして曲がフィナーレを迎える時、謎は解かれている。前田はその光景を幾度となく目撃していた。

「今日はこの曲に、事件の謎解きを託しましょうか」

そう言って選んだ曲はディードリヒ・ブクステフーデの『シャコンヌ ホ短調』。

西成は両腕を大きく伸ばして掲げ、曲に乗せて振り始める。

冒頭から放たれる重厚さと力強さを持つ旋律が五臓六腑に浸透する。曲が進むにつれて音のバリエーションが増え、さらに荘厳で壮麗な雰囲気を醸しつつ躍動感を増してゆく。同時に曲の中に漂う哀愁やグロテスクさが共存していることに気づかされる。

曲が終焉に達し、レコードプレーヤーのアームが浮き上がってアームレストに戻る。静寂に包まれたところで西成がおもむろに口を開く。

「この曲はバロック音楽のひとつですが、『バロック』という呼称の語源は『歪な真珠』という意味を持ちます。バロック時代には、不自然だからこそ美しい、そういう概念が広まっていたんです」

「はぁ……不自然で、美しい概念ですか……」

いつものことながら理解が追いつかず、首がきゅーっと傾いてしまう。

「私の推測なのですが――この『怪異』、明日にでもその正体を突き止められるかもしれません」

「えっ!?」

前田は驚いて飛び上がりそうになった。まさか奇妙な事件の全容を俯瞰できたというのだろうか。

「なにか気づいたんですか!」

尋ねると西成は眼鏡を指先でくいっと取り直し、真顔でこう言う。

「この不可思議な現象、それぞれの音はばらばらですが、すべてがつながると見事な旋律が浮かんでくるのです」

「どういうことですか、西成先生!」

「そしてこの事件の真相は、歪みの中に隠された美しさなのかもしれません。バロックの語源が意味するように」

――もはやなにを言いたいのか、意味不明すぎるっ!

前田は西成の意図が掴めない自分自身が歯がゆくてならない。

「けれどあとひとつ、証拠が必要です。それを確認できたら――またもや前田さんの出番ということになりそうです。どうかよろしく頼みますよ」

西成はそう言い、真剣な眼差しでうなずいて見せた。

翌日も彼女たちは怯えるように布団の中で一日を過ごした。そんな彼女たちのもとにふたたび須崎と今村がやってきた。

今村は今日もクラスメートが記したノートを手にして病室に向かう。さすがにもう、『おとぼけ様』のことは書かれていないはずだ。

その間、西成は前田とともに須崎を面談室に呼んでいた。部屋に入るやいなや、すぐさま用件を切り出す。

「須崎先生、昨年の出来事を覚えていますか」

それは生徒が自殺した件を意味している。須崎の顔が真っ青になり大粒の汗が浮き出る。

「えっ、ええ、まあ……辛い経験でしたから……」

そこで西成は須崎の目をじっと見つめて尋ねる。

「桜田葵さんが自殺した原因は、クラスでのいじめではないでしょうか」

学生の自殺といえば、最も多い原因はいじめを主とした「学校問題」だ。理由を想像するのはたやすい。

「その原因は、入院中の三田村薫さん、福山萌さん、横山里奈さんですね」

すると須崎の眼球は小刻みに揺れ、視線が定まらなくなる。いじめの事実に心当たりがあるに違いない。

「学校はその事実を認めていないんですね。認めていれば公式な会見をおこなうはずですから」

須崎はなにも答えなかった。答えられるはずもないのだろう、沈黙は肯定と同義だった。けれど西成は須崎を責めるつもりなど微塵もない。

ただ、不幸の連鎖・・・・・が起こることだけは、なんとしても防がなければならない。

「呼び止めてしまいすみませんでした。お聞きしたいことはそれだけですし、それ以上、私が詮索することはなにもありません。本日はどうもありがとうございました」

ふたりは狼狽する須崎を残して部屋を出る。

「前田さん、やっぱり思った通りです。それでは話を進めてください」

「わかりました。任せてください」

緊張した面持ちの前田はスマホを取り出し西成に電話をかける。西成の懐で着信音が鳴り、受けたのを確認してスピーカーモードに設定を変更する。これで西成に前田の会話が届くはずだ。

「それでは行ってまいります」

前田は軽くおじぎをし、ふたたび病棟へと向かった。

そう、この傷害事件を引き起こした本物の『怪異』と対峙するために――。

「あっ、こんにちは、綺麗なお姉さん!」

今村ははにかんだ上品な笑顔で挨拶をする。賢くて真面目な、まさに見本のような生徒だ。

友人たちからの人望も厚いのだろう。そうでなければ、ただの女子生徒が『怪異』を成立させられるはずがない。

「今村さん、お話ししたいことがあるの」

今村は前田の胸に潜む疑念を嗅ぎとったのか、すっと目を細め、わずかにためらいを見せた。

「――人目のないところへ案内してもらえますか」

そう切り出した今村には、覚悟めいた雰囲気が感じられる。

ふたりは言葉を交わすことなく、屋上へと向かった。鋼鉄製の扉を開くと、無機質なコンクリートの床が広がる。この場所なら誰にも邪魔されることはない。

今村はフェンス越しに遠くの空を眺める。ほっそりとした背中は物悲しさを漂わせていた。前田は隣に並んで語りかける。

「今村さんは、桜田葵さんと仲が良かったのよね」

前田の問いかけに今村の肩がぴくりと跳ねた。刹那の間があってから返事がくる。

「ええ。家が近くて、幼馴染でした」

「そっか。大切な人だったんだね。きっと悲しかったわよね」

不自然な無言の時間があった。緊張感をみなぎらせ、まるで身構えるかのように。

「――なんでそんなことを尋ねるんですか」

「そのことなんだけどね、桜田さんは入院している三田村さん、福山さん、それに横山さんからひどいことをされていたのよね。そして彼女たちは『おとぼけ様』というキーワードに恐れをなした。あのソーシャルネットワークでの『怪異』のことは知っているわ」

すると今村は振り返ってふっと口角を上げる。

「前田さんは、オカルトがお好きなんですね。葵がその『おとぼけ様』になって彼女たちに復讐をしたって思っていらっしゃるんですね」

「たしかにそう思えるわよね。でも――」

そして前田はすぅ、と息を吸う。荒ぶる胸をなだめて見出した真実を伝える。

「あなたは彼女たちがそう思い込むように、クラスのみんなと結託していたのね」

今村の瞳がぱっと大きく見開いた。彼女は他人を騙せるくらい賢いけれど、自分を騙せるほどふてぶてしくなかったなと思い、同時に『怪異』のシナリオに確信を持った。

「それではあなたの描いたシナリオについて、わたしたちの推理を話させてもらいたいけれど、いいかな?」

けれど今村はうつむき首を大きく横に振る。

「完璧だと思ったのに。でも、気づいたお姉さんには敬意を払わなくちゃ。引導を渡される相手は自分で選びたいもの」

今村はもう逃げられないと覚悟を決めたようで、この『怪異』の正体について語り始めた。

それはひとりの女子生徒が考えたとは思えないほど、緻密で洗練された計画だった。

葵とわたしは、希望に満ちた高校生活を夢見ていました。けれどその夢は、あの三人に打ち砕かれました。

ほとんどの生徒は穏和で優しい性格だったのに、あの三人だけは違っていました。

彼女たちは支配欲が強く、クラスメートを従えて恍惚を感じる人物でした。カースト上位に君臨したがる、厄介な顕示欲の持ち主だったのです。

入学するやいなや、彼女たちはクラスメートをひとりひとり呼び出し、ばれない程度にいびり、時には痛めつけ、威圧し服従させていきました。

不運にもそんな共通項を持つ三人が同じクラスになってしまったから、彼女たちは徒党を組んでクラスの支配者になりました。

男子の目があれば違ったのかもしれないですけれど、女子高ではそういったエゴの抑止力となる存在は皆無です。須崎先生だって、生徒間の関係に立ち入るのを恐れていましたから。

彼女たちは、最強でした。

けれど、反旗を翻した勇敢な子がひとりだけいました。それが葵です。でも、葵の凛とした態度は、彼女たちの導火線に火をつけてしまいます。

「てめえ、何様のつもりで言ってんだよ!」

「優等生ぶりやがって、ほんと気に入らねぇ!」

「あたしらに歯向かって生きていけると思ってんのかよ!」

彼女たちの嫌がらせは次第にエスカレートしてゆきます。休み時間には無理やりトイレに連行し、床に跪かせ、時には便器の中に頭を突っ込ませました。

そして葵のスマホには、悪意に満ちたメッセージが送り続けられていました。彼女たちは昼夜を問わず、身勝手な暴言を叩きつけてくるのです。

気丈だった葵は次第に壊れていきました。そしてわたしたちはその事実を知りながら、自分が標的にされるのを恐れ、見て見ぬふりをしてきたのです。

そのせいで彼女は亡くなりました。苦しんで、苦しんで、みずから命を絶ったのです。

わたしたちがどんなに後悔をしても、失われた命は取り戻せないのです。――もしも皆で声をあげていたら。手を差し伸べていたら、結果は違っていたはずなのに。

だからわたしたちクラスメートはみんな、罪人に違いないのです。わたしたちが看過したことで、葵を死に追いやってしまったのですから。

葵のお葬式の日、お焼香を済ませたわたしたちは集合しました。当然ながら、あの三人だけは来ていませんでした。

誰もが無言で沈み込んでいましたが、ひとりが泣き出すと涙は荒波になって伝播しました。

「葵……ごめん……ごめん――ッ!」

皆が声を上げて泣き崩れました。地面にひれ伏し、頭をこすりつけて謝る子もいました。みんな、友達がいなくなったことだけでなく、看過した卑怯な自分自身が許せなかったのです。

嗚咽の嵐がおさまった後、わたしは葵のお母さんに声をかけられました。お母さんは声を震わせながら言いました。

「葵ね、遺言はなかったの。でも、『これを優奈に渡して』とだけ書き置きがあったのよ」

渡されたのは葵のスマホでした。わたしたちは互いを信頼していたので、ロック解除のパターンも明かし合っていました。だから、わたしは葵がそれをわたしに託したのだと思いました。

そのパターンは、やっぱりわたしの知っているものでした。ロックを解除し、SNSのアプリを開くと、そこには三人が葵に向かって浴びせた罵詈雑言が並んでいました。

それを見てわたしは葵に誓いました。必ず彼女たちに復讐をすると。

そして『おとぼけ様』が生まれたのです。

そう、『おとぼけ様』を生みだしたのは、このわたし自身です。

まずは葵の遺したスマホから、彼女たち三人のSNSのアドレスを知りました。そこでSNSを用いて復讐できないかと考えているうちに、『おとぼけ様』という都市伝説を見つけました。

わたしは『おとぼけ』という名前のアカウントを作成し、これをクラスの皆で共有しました。そして作戦を開始しました。

まずは彼女たち三人にメッセージを送ります。そう、都市伝説になぞらえて。

「わたしの名は『おとぼけ』。わたしはそなたたちに未来を伝えるために現れた」

最初、彼女たちは誰かのいたずらだと思ったようで、信じる様子はありませんでした。

けれどわたしたちは彼女たちの誰かに順番に『おとぼけ様』のアカウントでメッセージを送りました。怪我や事故など、不幸の予言です。文体はなるべく簡素にしてばらつきをなくすことにしました。

もちろん、怪我や事故なんて、そうたびたび起きるものではないですから、ほとんどは演技でした。けれど中にはほんとうの怪我もあり、そんな時は彼女たちが傷を確かめられるように、教室で傷の処置を見せたりしました。怪我をした時にはすぐさまそのことを予言として送信し、その後に怪我をしたかのように振る舞いました。

彼女たちは偶然とは思えないほどの予知精度に驚いたようです。そして『おとぼけ様』の言うことを徐々に信じるようになっていきました。

彼女たちは、『おとぼけ様』に見込まれたことに優越感を持っていたようです。おおっぴらに自慢したりはしないものの、常に誰かの不幸を心待ちにするようになりました。

そして、『おとぼけ様』の予言は当たり続けます。わたしたちは怪我の程度を軽いものから徐々に重いものにしていきました。

指を切ったとか捻挫したとか、小さな不幸から始まり、包帯を巻いたりネックカラーを装着したりと、徐々に大袈裟にしてゆきます。最後に演劇部の友人が、松葉杖姿で迫真の演技を見せてくれました。

わたしは気づいていました。毎回興奮する彼女たちには、ほんとうは違う感情が沸き起こっていたのです。そう、焦燥と恐怖です。

『おとぼけ様』の予言は百発百中で、クラスメートにしか起きていません。だから、不幸は『おとぼけ様』がみずから引き起こしていることじゃないかと思うのは当然のことです。しかも次第にエスカレートしています。

そうなると、残された三人は自分たちが最も恐ろしい不幸に見舞われるのではないかと考えます。なぜなら彼女たちには心当たりがあるからです。

そう、彼女たちは『おとぼけ様』の正体は『葵』だと信じ込んでいます。

届くメッセージをから目をそらすことなんてできない。そして葵の亡霊におびえ恐怖を募らせてゆく。それがわたしの考えたストーリーでした。不安を誤魔化すようにはしゃぐ彼女たちはひどく痛々しく見えました。

恐怖が十分に蓄積したら、いよいよ『復讐劇』の幕開けです。

『そなたたちが望むのであれば、わたしはそなたたちの目の前に現れよう』

彼女たちは『おとぼけ様』の召喚に快く応じました。それは彼女たちが『おとぼけ様』の恐怖から逃れるための選択だったに違いありません。なぜならわたしは、『おとぼけ様』を消し去るための方法を彼女たちに伝えていたのですから。

『わたしはりんごを食したい。りんごを三つ用意し、三人は六芒星の先端に立ち、誰もいない先端にはりんごを置くように。互い違いになるように配置しなければならない』

『りんごを剥くためのナイフをみっつ、それも同じものを用意するように。ナイフはりんごに垂直に刺して置いておくこと。ただし、わたしは金属に弱い。ナイフを向けてはならない・・・・・・・・・・・・

わたしの指示に従って、教室には蝋燭が灯り、床に六芒星が描かれました。幻想的な雰囲気はさらに彼女たちの恐怖心を増長させます。

そして儀式が始まりました。わたしたちは教室の外からひっそりと、彼女たちの動向を見張ります。彼女たちは声を合わせて『召喚の呪文』を詠唱しました。

廊下の窓に稲妻が走ります。天が、吠えるようにうなりました。

『おとぼけ様』のアカウントにわたしと、あとふたりがログインし、打ち合わせ通り同時に三人にあててメッセージを送信します。

『だれがおとぼけ様か、わかる?』

ひっ、と小さな悲鳴がみっつ、同時に教室の中から聞こえました。彼女たちは皆、『おとぼけ様』が誰かに憑依したのだと思い込みました。

なぜって、そう思うように仕向けましたから。

『呪文はどこかに書き写す、あるいは誰かに送信した場合は効力が失われる』という一文は、彼女たち全員にスマホを持たせるための作戦でした。そして教室は暗く、お互いの行動はよくわかりません。

ですから彼女たちは相手に気づかれずにメッセージを送信することができます。三人とも、おとぼけ様が誰かに憑依し、自分にメッセージを送ったと思ったことでしょう。

そう、彼女たちは皆、いっせいに『おとぼけ様』の容疑者となったのです。

「あっ……あんたが『おとぼけ様』だろ!」

「嘘つけッ! あんたこそ『おとぼけ様』なんだろ!」

ゴトン、とリンゴが床に落ちる音がしました。ナイフはリンゴに刺さっていますから、それはナイフを手にしたという証拠でした。もう二回、その音が鳴りました。恐怖に支配された彼女たちは、無我夢中で『おとぼけ様』を消すための武器を手にしたのです。

『ちょっとだけ我慢してね』

『私よりはましだと思うけど』

さらにメッセージを送って数秒後、恐怖に満ちた悲鳴が響きます。

「お前、ほんとは葵なんだろ! 死人はおとなしくしてろッ!」

「ひっ……違ッ! やっ……やめてっ!」

もう、わたしたちの脳裏から『容赦』という言葉はなくなっていました。

『こっちへおいでよ』

『もうおこっていないよ』

『こんどはなかよくしようよ』

「こっ……殺してやるッ!」

彼女たちの誰か、恐怖で気が動転したようです。すぐさま教室の中は騒然となりました。

「いっ、痛いッ! やり返しやがったな、このおとぼけがっ! 殺してやる! テメーに連れていかれてたまるか!」

「あたしはおとぼけなんかじゃないッ! おとぼけはあんただろ! 殺られる前に殺してやるッ!」

「ぎゃっ!」

「ぎゃーっ!」

「ひっ、いてェ――!」

わたしはそろそろだと思い、手持ちの鍵で扉を開けました。

すると三人は見るも無惨な姿になっていました。ナイフを握る手はひどく震え、顔や手足からは血がしたたり落ち、制服は赤黒く染められています。わたしは即座に叫びました。

「助けにきたよ!『おとぼけ様』の追い払い方がわかったの!」

三人とも、えっ、と驚嘆してわたしに視線を向けました。

「ナイフを手離して土下座をして。それから『おとぼけ様、どうかここから立ち去ってください』とお願いするの!」

聞いた三人は慌ててナイフを放り投げ、床に頭をこすりつけ必死に哀願しました。

「「「おとぼけ様、どうかここから立ち去ってくださいッ!」」」

わたしはひれ伏した三人を横目に、血まみれのナイフを拾い集めました。彼女たちは助かったと思ったようで、床にはいつくばったままわんわんと泣き始めました。

そうしてわたしたちと葵の『復讐劇』は幕を閉じたのです。

独白を終えた今村は大きくため息をつく。

かたや前田はひとりの女子生徒が描いた筋書きの見事さに言葉を失う。

聞いてすべてが理解できた。西成が推理したように、この『怪異』の正体は、三人の不遜さがもたらした疑心暗鬼だった。架空の亡霊の恐怖から逃れるため、友人を手にかけるにいたったのだ。

そしてそのすべてが、たったひとりの女子生徒――今村によって計画された心理誘導だった。

頭の整理がついた前田は今村に尋ねる。

「ちょっと待って。でもあなたは結局、三人を止めたのよね?」

「ええ。葵と同じ運命でも良かったですけれど、身体に一生残る傷を負い、忘れることのない恐怖に怯え苦しみ続けるのがお似合いだと思ったからです」

「でも彼女たちは生き残ったわ。そうなるとあなたが疑われるんじゃないかしら」

今村は少しだけ思考を巡らせてから答える。

「ああ、それは大丈夫なはずです。わたしはこの真相を闇に葬りましたから」

「闇に、葬る?」

「わたしは助けに入って騒動を収めた直後、放心状態の彼女たちに最後の嘘・・・・をたむけたんです」

――『おとぼけ様』ってさ、正体は自分の醜い部分が化けた妖魔なんだって。記憶から消さないかぎり、ふたたび現れるんだよ!

「って言いました。無防備な心の彼女たちに、疑念を抱く余裕なんてないと思ったので」

なるほど、『おとぼけ様』に二度と触れたくないと思わせれば、今村さんを追求することもなくなるはず。それにメッセージを見返しても、殺し合う理由にはなりそうもないものばかりだ。

「でも、彼女たちが思惑通りに口を閉ざすかどうかなんて、わからないじゃない?」

今村はすっと視線を横にそらした。

「ですから、ノートの最後で『おとぼけ様って、誰――?』って尋ねたんです。それは、最後の嘘・・・・が有効に働くかどうか確認するための質問でした」

「まさか! そこまで計算していたっていうの!?」

「はい、そうです」

彼女たちが『おとぼけ様』に関する記憶を振り払おうとしているのなら、『おとぼけ様』という言葉を恐れるに違いない。恐怖の焼きつき具合を言葉ひとつで確かめることができるのだ。

前田は今村優奈という女子高生の計算高さに戦慄が走った。

かたや今村は覚悟を決めたのか、立ちすくんだまま静かに空を眺めていた。ぽつりと小声で前田に尋ねる。

「けれどお姉さん、どうしてわたしが『おとぼけ様』だとわかったんですか」

すると屋上の扉が軋みながらゆっくりと開く。姿を現したのは西成だった。

「話は聞かせてもらいました。申し訳ないのですが録音もさせていただきました」

西成が懐のスマホを掲げて見せると、今村の顔がぎゅっと険しくなる。これだけの大胆な計画を実行するのだから、本来の彼女はおそろしく勝気な性格のはずだ。

「あなただったんですね、わたしの作戦を見抜いたのは」

今村は恨めしそうに低い声を発した。

「はい。この筋書きはほんとうに見事だと褒めたいくらいです。この『怪異』の謎は、ほとんどお手上げだと言っても過言ではありませんでした。

ただひとつ、前田さんがあなたの『嘘』に気づかなければ――」

「嘘――?」

そこで西成は鞄から三冊のノートを取り出して見せ、視線で前田に合図をする。前田がその理由を説明する。

「今村さんは『ノートを分担して書いた誰かが、その質問をしたんだと思います』ってわたしに言っていたわ。それなのに彼女たちが怯えた『おとぼけ様って、誰――?』の一文は、三冊とも同じ筆跡だったの」

今村の口元が強く引き結ばれる。

「そして、その筆跡に一致するノートは一冊だけあったの。そのノートの英語のページには『superior――より優れた』、『abyss――奈落・深淵』という単語が書かれていたけれど、この「優」と「奈」の字は、とある名前とまったく同じ筆跡だったのよ」

前田は鞄から一枚の紙を取り出して今村の目前に掲げる。

それは見舞いにきた者が記入する、面会者名簿のコピーだった。指で示した場所には、「今村優奈」と直筆で名前が書かれていた。

前田は今村を正視して言う。

「これはすべて今村さんが書いた言葉だったのね。だから自分が書いたのを誤魔化すためにその嘘をついたのだと、わたしは思ったの」

それは復讐を買って出た今村優奈の、ほんのわずかな油断だった。

今村は覚悟を決めたようで両手を揃えて西成の目の前に差し出した。けれど西成はその上に自身の手をかざし、伸ばした手を収めさせる。

「わたしを捕まえないんですか」

「私にはそんな権利はありません。それに犯行に及んだのは彼女たちの思い込みと独断です。――あなたは罪を問われる立場ではないのです」

「ふふ、弁護士って口だけで臆病な生き物なんですね。もしわたしがこれから彼女たちを殺したら、弁護士さんも『未必の故意』に問われませんか」

「そうかもしれません。でも、私はただ――あなたが心配なだけなのです」

今村は目を二倍に見開いた。

「この件で一番傷ついているのは、今村さん自身です。私は今村さんが一生、自分のせいで友達を失ったという後悔を背負って生きていくのが、ひどく不憫なことに思えたのです。

だけど桜田葵さんが今村さんに助けを求めなかったのは、あなたを守りたかったからに違いないと、私は思っているのです」

今村は左腕のミサンガに手を重ねた。西成の目に映る今村の表情は、持ち前の冷静さを失い崩れていく。

「桜田さんは自分の未来をあなたに託したのではないでしょうか。ですから、あなたはその未来を大切に育まなくてはいけません」

今村がすがるように前田に視線を移すと、前田は指を自分の唇の前に当てて内緒の仕草を見せた。この事実を秘密にする、という意味でそうしたのだ。

ふたりの意図に気づいた今村はうつむいてぽつりとこぼす。

「わたし、弁護士っていうのは手遅れ・・・の職業かと思っていました。死んだ人の命を計算したり、黒を白に塗り替えてお金を稼いだり。でも、ほんとうはそうでもないんですね……」

涙ぐんで声を震わせる今村は、今まで耐えてきた呵責の念から解き放たれているように見えた。

「あの……質問があります。弁護士になるってどれくらい大変ですか?」

西成も前田も、その質問にはぎょっとする。けれど前田はすかさず言い切った。

「あなたなら、きっとなれる」

「でも……こんな犯罪者に資格はあるんですか」

今度は西成が目を細めて口元をやわらかくしならせる。

「私の目には、未来ある若者の姿しか見えませんけどね」

そんなふたりの哀れみ深い言葉に、今村は無言で頬を濡らした。最後に前田が今村の背中を押す。

「さあ、学校に帰りなよ。遅くなるとクラスメートが心配しちゃうよ」

「ありがとう……ございますっ!」

今村は深々と頭を垂れ、きびすを返して屋上を去ってゆく。

その背中を見送りながら前田は思う。彼女のような優しくて賢い子は、これからたくさんの人に手を差し伸べていくのだろうと。

見上げるとトワイライトの空には、笑顔のような下弦の月が浮かんでいた。

それから数日が経った。

『診療部門特別相談室』の電話が鳴り響く。受けた前田は相手を確認すると送話口を手で押さえ、西成に声をかけた。

「西成先生、警察から電話です。よろしいでしょうか?」

「はい、私のほうで対応します」

西成が代わると、大林が電話の向こうで鼻息を荒くしていた。

「西成先生、入院している三人は、犯行の動機を自白したんですか?」

耳が痛くなるほどの音量に西成は顔を歪めた。受話口を耳から遠ざけて返事をする。

「まだですね。ちなみに彼女たちは先ほど退院していきました」

「退院!? じゃあ、あなたたちはいったい、今までなにをやっていたんですか! あなたに期待した私が馬鹿だったようですね。もういいです、あとは警察こちらで事情を聴取しますから!」

憤慨して問いただす大林に対して西成は悠然と言い返す。

「その事情聴取のことですがね、彼女たちに聞き込みをするのは御法度ということになりました。これは精神科の専門医でいらっしゃる畠山先生のご判断です」

彼女たちは傷と心のケアのために、今までとは違った日常を送ることになる。もちろん、トラウマをほじくり返すことになる警察の聞き取り調査など、もってのほかという見解だ。

今村優奈の作り出した『怪異』は、もう誰も知ることはない。

「なんだと!? だがそれでは真相が迷宮入りになってしまう! この件は、この件こそは……ッ!」

いよいよ狼狽する大林に向けて西成は最後の言葉を放つ。

「大林警部、重々気をつけてください。あなたの手柄を求める欲望は、いつか『怪異』を生み出すかもしれませんからね」

そしてみずから電話を切った。前田は西成の毅然とした態度を眺めながら、少しだけ満足な気持ちになっていた。

ふと目があったところで西成が前田に尋ねる。

「今村さんは、ほんとうに弁護士を目指すんでしょうか。前田さんはどう思いますか?」

「ええ、わたしはそんな気がしています。あの子の賢明さと執念があれば、どんな難関でも乗り越えていけるでしょうから」

すると西成は一瞬、鋭い眼差しを見せた。重々しく、しかしゆったりとした口調で前田に問いかける。

「それではもうひとつお尋ねします。前田さんは弁護士を目指そうとは思わなかったのですか?」

その言葉に前田は顔をこわばらせた。なぜなら西成の言葉は、前田が西成の下で働いている真の理由に気づいている気配があったからだ。

前田は無言で瞳の矛先を西成に突きつける。銀縁眼鏡の奥に輝く眼光は鋭く、前田の抱いている反抗心を迎え撃つかのようであった。

自宅に着いた前田は仏壇の前に正座をして線香を立て、両手を合わせる。蛍光灯の光が仏壇を照らし、美しい金箔の彫刻が輝いている。その前に飾られた遺影は実父のものである。

りんの心地良い響きが部屋中に広がり、心を委ねるように手のひらを合わせる。瞬間、心の奥からさまざまな想いが満ちてきた。

――お父さん、ごめんなさい。わたし、今すごく戸惑ってしまっているの。

周囲の騒音が遠ざかり、自身の心臓の鼓動しか聞こえなかった。

しばらくの時間が経ち、まぶたを開くと母が声をかけてきた。

「美穂、仕事は最近どう? 順調?」

母は社会人になりたての前田のことを気にかけているようで、しばしば職場の状況を尋ねてくる。

「うん、事務職だけど、病院の職員って思ったより大変なのよ。面倒な案件ばかりだし、上司からの注文も多いし、けっこう頭を使うのよ」

前田はつとめて明るく振る舞うが、喉まで出かかった言葉を呑み込んだ。

――その上司が西成先生という弁護士なの。お母さん、知っているでしょう?

前田の兄はとうに自立して家を出ており、今は母とふたり暮らしをしている。上司が「西成仁という弁護士」という事実は、その兄にも言えずにいることだ。

もごもごする前田に、母は肩を軽く叩いてエールを送る。

「でも美穂の頭脳と根性なら、どんな仕事だって大丈夫!」

応援してくれるのはありがたいけれど、前田はいつも西成の読みの深さに及ばず、ほぞを噛む思いばかりしている。

――お母さん、わたしなんて、西成先生の足元にすら及んでいないんだから!

前田はふたたび両手を合わせて閉眼し、ぎゅっと唇を噛み締める。

その指は自身のふがいなさに打ちひしがれるように、冷たく震えていた。


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