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西成弁護士の奇妙な事件診療録(第2話 オーバーカム・ザ・バイアス)


#創作大賞2024 #ミステリー小説部門

【目次とリンク】

第1話 神様と小さな天使
第2話 オーバーカム・ザ・バイアス

第3話 怪異の復讐劇
第4話 時を止めた研究者
第5話 ふたりの過去
最終話 銀鱗躍動 

「はぁぁぁ……」

秘書の前田美穂は出勤してからというもの、ため息を連発していた。彼女の表情は、晴れ渡る空に突如現れた暗雲のように陰りがかかり、仕事への意欲も霧散していた。

「前田さん、どうされたんですか。体調が悪いのでしたら無理しないでください」

普段と違う前田の様子に、上司の西成仁が心配そうに声をかける。彼の眉間には軽い皺が刻まれ、優しさと懸念が混じった眼差しが前田を包んだ。

不意に尋ねられた前田は、西成の気遣いを跳ねのけるかのように即答する。

「なっ、なんでもありません! どうせ西成先生には関係のないことですから!」

「そうですか、それならそのため息は気にしないことにします」

「ため息なんかついていません!」

「それじゃあ、まあ、私の空耳ということで構いませんが……」

前田はデスクから立ち上がり、テーブルの上に置かれた湯呑みを片付け始める。つい先ほどまで応接に暇がなかったので洗い物が溜まっていた。窓際の小さな流し台には、湯呑みと菓子皿が山積みになっており、その光景は忙しさの名残を物語っていた。

『診療部門特別相談室』には、なにかと相談に訪れる者が後を絶たない。

医療の現場では医師や看護師、そして患者らがさまざまな疾病と戦い命のやり取りをしている。けれど人間を相手にする以上、トラブルは不可避とも言える。

医療過誤、あるいはその疑いに起因する示談や訴訟に限らず、不条理なクレームや、はたまた逆恨みの殺人予告まで、さまざまな案件が寄せられてくる。トラブルに巻き込まれる医療従事者はけっして少なくない。

西成が手腕を振るうのは、そんなトラブルに巻き込まれた医療従事者を不条理から救うためであり、その実力は折り紙付きである。時には人生相談や恋愛相談まで受けることもあるくらいだ。

けれど、前田自身は西成に悩みを相談するつもりなど毛頭なかった。どうせ相談したところで、なんの解決にもならない案件だからだ。

幼少時からファンだったアイドルグループが、昨夜、解散を発表してしまったのだ。あまりのショックに目を泣き腫らし、いまだにまぶたのむくみが取れていない。

心に冷たい風が吹き抜ける前田は、やり場のない気持ちをぶつけるがごとく、ガチャガチャと乱雑に音を立てながら湯呑みを洗う。そんな前田の姿に西成はやれやれと肩をすくめた。

「でも前田さん、今日はとびきり厄介な案件のアポイントメントが入っているんですよ」

西成がそう言うと、前田はかくんと肩を落とした。せめてこんな日は誰とも会わずに一日をやり過ごしたかった。

「……はぁ」

「また、ため息をつきましたね」

「今のはただの返事です! 承知しました、の省略形です!」

「あっ、そうでしたか。まぁ人生、出会いもあれば別れもありますよ。落ち込んだのでしたら、話だけでも聞きますけど」

西成は彫刻のような顔立ちに浮かぶ口元を三日月のようにしならせて尋ねる。悪戯っぽい言い方にむっとした前田は、デスクに鎮座するイケオジ上司を厳しい目で睨みつける。

「振られたとかそういうのじゃありません! それどころかわたし、彼氏なんていませんから!」

「ああ、やっぱりそうでしたか」

「やっ……やっぱりってなんですか! 西成先生、なんかいろいろ失礼ですよ!」

前田は頬を桜色に染めてぷいっとそっぽを向いた。

診療部門特別相談室の扉が控えめなノックで揺れる。その音に、前田美穂は心の中でため息をついた。また厄介事がやってきたのだろうか。

西成仁はすでに来訪者の足音を聞き分けていたようで、落ち着いた声で迎え入れる。

「どうぞお入りください」

「……失礼します。松川慧介まつかわけいすけです」

松川慧介という名前に、前田は息をのむ。彼はゆっくりと扉を開け、謙虚に頭を下げた。

前田はこの病院で働き始めてから一年が経とうとしていた。スタッフの顔と名前はほとんど覚えている。その中でも、松川慧介は特別な存在だった。

彼は呼吸器内科の医師で、常に笑顔を絶やさず、前向きな姿勢で周囲からの信頼も厚い。そして、彼の顔は前田が応援していたアイドルグループのメンバーに似ていた。今まで接点はなかったが、突然の出会いに前田の心臓は高鳴った。

しかし、松川の雰囲気はいつもとは違い、重苦しさが漂っていた。何か大きな問題を抱えていることは明らかだった。

西成は彼の表情を見極め、穏やかに言葉をかけた。

「松川先生、まずはソファーに座ってください。コーヒーでもいかがですか?」

「いえ、結構です。そんな気分ではありません」

松川の声は動揺を隠せていなかった。

「松川先生が相談したいのは、レントゲンで肺がんを見逃したという案件ですね」

聞いた前田は緊張感に支配され、思わず背筋をぴんと伸ばす。松川はうつむきながら、申し訳なさそうに話し始めた。

「はい、呼吸器内科医として、これほど恥ずかしいことはありません」

「医療トラブルは初めてですか?」

「いえ、研修医時代には小さなミスはありましたが、裁判沙汰になるのは初めてで……」

「それは大変ですね。私ひとりでは対応しきれないかもしれません」

西成は眉間にしわを寄せながら、前田に目を向けた。

「今回は前田も手伝ってもらいます。彼女なら頼りになりますよ」

「えっ、わたしが?」

前田は驚きとともに、戸惑いを隠せなかった。彼女は、今日に限っては松川との面会を避けたかった。昨夜の涙で腫れたまぶたを見られたくなんかない。

「かっ、構いませんけど……わたしにできることなら」

前田は松川から視線を逸らし、湯呑みを拭きながら応えた。

「それでは、前田さん、今の話を聞いて、何か気になる点はありますか?」

西成は前田に挑戦的な質問を投げかけた。普段は往々にしてギブアップするところだが、今回ばかりは松川に格好悪いところを見せられない。

「えっ、ええと、たしかに変ですね……」

前田は背中を向けたまま心を集中させて、今まで西成が扱った「所見の見逃し」の案件をいくつか思い出してみる。

すると前田はこのトラブルの不可解な点に気づいた。冷静を装い、背中姿のまま察してみせる。

「画像所見の見逃しって、医療過誤の中では比較的多い事例だと思うんです。でも画像の証拠が残っていますから、裁判になればたいてい白黒がつきますよね。ですからこういったケースでは病院のほうは素直に過失を認めますし、裁判まで持ち込まれることは少ないと思うんです。それなのにどうして示談じゃなくて裁判を起こそうとしているのか、それがわからないなぁ、って思いました」

「さすがです前田さん、いつもながら良い洞察力をしていますね」

松川の目の前で褒めてもらえるのはありがたいけれど、医療過誤の話だけに素直に喜べる状況ではない。あくまで背中を向けたまま、当然ですといった雰囲気を醸し出してみせた。

静かな診療部門特別相談室の隅には、患者情報が詰まった電子カルテがひとつ、静かに佇んでいる。

電子カルテが導入されてから、病院に勤める医療従事者は患者情報に簡単にアクセスできるようになった。しかしアクシデントが起きたり有名人が入院したりすると、スタッフが興味本位で閲覧することがあり、病院の倫理観が問われる事態となり得るのだ。だから特殊な患者に関してのアクセス権限は一部のスタッフにしか付与されない。

しかし西成だけはあらゆる患者情報にアクセスする権限を与えられている。西成が自身のIDでログインし患者のカルテを開くと、松川はいくぶん驚いた表情になった。

「それでは松川先生、詳しい状況を教えてください」

「はい。患者さんは桜木敦子さくらぎあつこさん、五十五歳の女性です。一年前の健康診断で僕は異常を指摘しませんでしたが、今年の健康診断で異常を指摘され手術になりました。

すると現在診療を担当している胸部外科の医師が『一年前にもありそうに見えますよ』と患者とその家族に説明したことが発端です。

しかもそれは肺がんの診断がついてから突然、言い出したことなんです」

聞いた前田は、なるほどしばしば耳にする話だなと勘案する。ほかの医師が見落としたものを、自分が見抜いたかのようにアピールする輩が、医者の中には一定の割合で存在する。誰かを否定することで主治医としての信頼を得たいのか、あるいは自身が有能なのだと誇示したいがためか――いずれにせよ、患者の立場では松川が異常を見落とし、病院がそれを事実として認めたとしか映らない。

「松川先生の読影は正しかったとしても、問題視された理由の根底はそこにあるようですね」

事態を察した西成がそう言うと、前田は松川を擁護するように、背中を向けたままうんうんと大きく首を縦に振る。

そんな前田の気遣いを感じ取った松川は、ようやっとこわばった表情を緩めた。

「しかも訴えてきたのは患者さんではなくその旦那さんで、どうやら省庁に勤めているエリート官僚らしいです。有能な医師の『神の目』なら当然、肺がんを見つけられたはずだ、と主張しています」

「神の目ねぇ……」

西成は訝しげに言う。

「人間に神を求めること自体が、大きな間違いなのですが」

西成は言葉の抑揚を一定に保ちつつ続ける。

「その呼吸器外科の医師もご家族の方も、結論ありきで言っているのですね。ところで患者さんは今、どんな状態でしょうか」

「はい、根治手術が可能な状態で、すでに手術を施されていますが、病期は初期ではなく化学療法が必要な状態でした。旦那さんは見逃しによって金銭面、精神面および肉体面において過大な負担を強いられ、命の危険に脅かされることになったと主張しています。一年前に見つかっていればそうではなかっただろう、と」

「じゃあ松川先生が今、その写真を見て肺がんが存在すると思われますか」

「見直してみたところ、正直、あるようにもないようにも思えます」

そこで西成は画像ビューワを立ち上げてレントゲン像を表示する。前田は背後からそろりと近付き画像を確認したが、なにが異常なのか判断できるはずもなかった。西成も異常所見を指摘できないようで首をひねっている。

「正直、私の目ではわかりませんね。松川先生、肺がんが発生した部位はどこですか」

松川は画面に映るレントゲン像を指差しながら「右下肺野のこの辺りです」と言う。しかし、それは専門家の目でも見分けられるか微妙な影で、確信には至らないものであった。

前田は現役の医師が読影しても判然としない所見に白旗を上げ、顔を隠しながらおずおずと流し台に戻っていった。

確認した西成は立ち上がり、ぽんと軽く松川の肩に手を置く。

「ふうむ、神でしかわからない、あいまいな所見を都合よく異常だと主張しているわけですね。けれどもしも見逃しだとしても、先生だけの責任ではないと思います。検診での評価はふたりの医師でおこなう、ダブルチェックのルールがあったはずです」

「そうですが、もうひとりは派遣で非常勤の先生で、すでに退職しており連絡が取れないようです」

「ああ、そうなんですか」

ダブルチェックをすれば診断精度は高まると思われがちだが、そのプロセスが油断を招き、致命的な見逃しを引き起こす皮肉な結果になることもある。だから、この案件は松川の油断と解釈されることうけあいだ。

西成は端正な下顎を指で擦りながら納得した様子を見せる。

「なるほど、先生がひとりで厄介事を抱え込んでしまったことになるわけですね」

すると松川の表情はさらに影を濃くする。

「はい。それとですね……その三か月後、患者さんは咳と発熱でこの病院を受診しまして、その時も僕が診察しています。肺炎かもしれないと思ったのでレントゲンを撮ったのですが、結局は肺炎でも肺がんでもなくA型インフルエンザでした。そのレントゲンもやはり陰影の有無は微妙でした。あるともないとも言えないような……」

「つまり検診のレントゲンで肺がんがあるということになれば、松川先生は二重の見逃しをしたのだと解釈されるのですね。ますます厄介です」

松川は西成におそるおそる尋ねる。

「……こういった場合、裁判になれば負けますよね」

西成はしばらく考え込んだ後、気遣いを含んだ冷静な声で言う。

「先ほど前田さんが指摘したように、レントゲンの見逃しのような証拠の残るケースは訴訟になれば敗訴します。しかも厄介なことに、たとえそれがレントゲンの検出限界以下の病変であっても、です」

松川は緊張の色を浮かべる。

「どうしてなんですか」

「それは科学的な判断においてバイアスがあるからです」

「裁判という公正なはずの裁定にバイアスですか……」

バイアスとは偏見であり、また判断を誤らせる重要な要素である。

「松川先生、よろしいですか。裁判では専門医に画像所見の読影を依頼し、意見を聞いて判断の材料にします。けれど、あとで肺がんが判明したとわかっている症例の画像に対して『なにもない』と言い切れる医師はどこにもいないからです。

病気が『存在する』ことを証明するのは簡単ですが、『存在しない』ことを証明するのは非常に難しいのです。我々はまさに『悪魔の証明』を強いられることになるのです。

しかも専門医として法廷で証言する自信のある医師なら、ほかの医師が見逃した所見であっても、自分には見えるはずだと過信するものです。その虚栄心が存在しない疾患すら網膜に映し出してしまうのです。ですから原告側につく協力医の多くは、真実ではないかもしれない見解すら嬉々として口にするものです」

松川は緊張で喉が乾ききっていた。不安を抑え込むように唾を飲み込む。

「そのバイアスを克服する方法はないのでしょうか」

「それがあれば苦労はしないんですよね……」

西成は思慮深げに両手を組み、ソファーにゆっくりと腰を下ろした。評判の敏腕弁護士でさえお手上げムードの展開に松川は肩を落とし、重い霧がかかったようにうなだれた。

真実にかかわらず裁判になれば敗訴は確実という不利な状況に、前田は松川が気の毒でならなかった。

――松川先生の力になれる資格と頭脳が、わたしにあれば良かったのに……。

その時、前田のデスクに設置されている電話が鳴り響いた。素早く手を拭き電話に応対する。

「はい、診療部門特別相談室です」

すると受話器の向こうから聞こえた声は、あまりにも意外な人物からだった。

「はじめまして。私は弁護士の石渡密いしわたりひそかと申します。西成先生はおいででしょうか」

弁護士の石渡、と聞いて前田の背筋がぞわりとする。

「はい、おりますがご用件はなんでしょうか」

「レントゲンの異常所見を見逃したという、れっきとした医療過誤の、ですよ」

わざと低くしたような声で、威圧的な口調だった。送話口を押さえて西成に相手の名前を告げると、西成は心当たりがあるようで、すっと視線を鋭くした。

「前田さん、録音していただけますか」

「わかりました」

前田は録音ボタンを押下してから受話器を西成に渡す。

それから西成は聞き手に回り応対していたが、ひたいにはうっすらと冷汗を浮かべていた。会話の内容からすれば、裁判に関することのようだった。

会話は二、三分ほどで終わったが、西成は深いため息をつき、考え込む表情を見せた。その雰囲気に前田はただごとではない状況だと察する。なにせ、その「石渡密」という弁護士の名前は前田の記憶にもあったからだ。

「西成先生、どんな内容だったんですか」

前田がおそるおそる尋ねると、西成は重々しく口を開いた。

「今回の案件について、患者さんの旦那さんが弁護士を雇ったようです。電話をかけてきたのはその弁護士でした。内容については――実際に再生して聞いてみてください」

「はい」

録音した会話を再生する。

『西成先生、お久しぶりです。先生と私の間柄ですから、直接ご連絡を差し上げようと思いまして、電話をいたしました』

『ああ、石渡先生ですね。ちゃんと覚えています』

『いやあ、以前は辛酸を舐めさせられましたが、今回は立場が逆転しそうですよ。これからカルテ開示を申請しますが、揺るがぬ物的証拠があるのですから結果は見えています。ですから電話を差し上げたのは、くれぐれも病院ぐるみでレントゲンの捏造をするような真似はやめてください、という忠告です』

『それはあり得ないですよ。ところで頂いた電話で恐縮ですが、お尋ねしたいことがあります。レントゲンが異常かどうかを判断する協力医についてはお決まりなのでしょうか』

録音された声の中に、ふふっ、と嘲るような笑みが混じっていた。

橋上修一はしがみしゅういち先生ですよ。T大学の教授で、学会の理事も務める著名な方ですから、その証言は重みがありますよ』

その返事を聞いた西成は言葉が出なくなった。しばらくしてから振り絞るように返事をする。

『なるほど、呼吸器内科医として信頼をおける評価を受けている方というわけですね」

『はい。それでは法廷でお会いするのを楽しみにしていますよ――」

再生し終わった後、前田がちらりと松川の表情をうかがう。松川の顔色は蒼白に変わり、明らかに動揺していた。今の電話の会話を聞いたせいだろうか、様子がおかしい。

「松川先生、ご気分は大丈夫ですか」

前田が尋ねると、松川ははっと気を取り直して返事をする。

「あっ、だっ、大丈夫です」

西成は松川の変わり果てた様子を察し、言葉を選びながら話し始めた。

「松川先生、この件につきましては私が事務方と相談して話を進めておきます。今はゆっくり休んで、ご自身の業務に集中されてください。『泣き面に蜂』という言葉が示すように、不運は重なるものですから」

「お気遣いありがとうございます、西成先生」

「それと、裁判の件は私がなんとかしますが、松川先生には出廷していただく必要があると思います」

「ほんとうにお手数をおかけします……」

松川は力なく立ち上がり、よろよろと部屋を出ていった。

扉が閉まると同時に、西成は前田に視線を向ける。

「なるほど、示談ではなく裁判を起こす理由がわかりました」

「どういうことでしょうか」

それは前田が疑問に思っていたことである。西成もその点は引っかかっていたに違いない。

「裁判は確実に勝てるとは限りませんが、あの弁護士――石渡先生がほぼ勝てると踏んだのでしょう。彼はおもに医療裁判を扱っていますから。それも私がこの病院を担当しているとわかった上で持ちかけてきているはずです」

会話の内容からすれば、石渡は過去に西成と裁判で対決したことがあったはず。そして敗北し、今回は西成にリベンジを仕掛けているに違いない。

しかも、会話の中にはT大学の教授である橋上に自分たちの主張を支持してもらう目処がついているような雰囲気があった。

「たぶん、石渡先生は似た案件を扱い、橋上という教授に協力医としてお願いをしたことがあるのでしょう」

前田の脳裏には、裁判に勝てば謝礼が跳ね上がるという構図が浮かんだ。

裁判では権威のある者の意見が尊重されるのは明らかである。この裁判、どう考えても勝ち目はないものに思えた。西成の考え込む表情がその過酷な状況を物語っている。

けれど前田の心中には、もうひとつの疑問が残っていた。それは、録音の会話を耳にした松川がひどくうろたえていたことだ。

前田は松川の表情を思い出しながら思考を巡らせる。

――松川先生は裁判になる覚悟はしていたはずだし、相手方に弁護士がつくのも想像できたはず。だとすれば動揺を誘ったのは「橋上」という教授の名前だ。もしかしたら、松川先生は橋上教授となんらかの関係があるのかもしれない。

そう考えた前田は松川により深く事情をうかがおうと決意した。

すぐさま冷凍庫にある保冷剤をハンカチで包み、腫れた目を冷やし始めた。

「あっ、あの……松川先生、もしよろしければ夕食でもしながら、詳しいお話を聞かせていただけませんか」

前田が男性を食事に誘うのは初めての経験だったので、その緊張感が隠しきれなかった。

「これは仕事だ。そう、仕事に違いないのよ!」と自己暗示をかけ続けたが、いざ松川を目の前にすると顔が熱くなりもじもじとしてしまう。

けれど松川の返事はいたって快いものだった。

「はっ、はい! ぜひお願いします、前田さん!」

その返事に前田の心臓は高鳴った。

ふたりが向かったのは、病院のほど近くにある、暖かい灯りがエントランスを包む洒落たイタリアンのレストランだった。

「今日は誘っていただいてありがとうございます」

松川は年下の前田に対してやけに平身低頭だった。前田は松川との距離が近づいたことが嬉しくないはずはないけれど、嬉しそうな顔をするわけにもいかない。両手を目の前で振り振りして必死に真面目顔を繕う。

「いえ、そんな……ただ松川先生の抱える事情をもっと詳しく聞きたかったものですから。あの橋上先生の名前を聞いた時に、動揺された気がしたので」

松川は大きく目を見開いた。

「前田さんって、やっぱり洞察力が鋭いですね。西成先生の秘書を務められるんですから、聡明な方だとは思っていましたけれど」

前田は、西成先生の秘書というのが賢そうに見える「バイアス」なんじゃないかな、ほんとうの自分はたいしたことないのに、と居心地悪い気分になる。けれど松川の賞賛はまだ続く。

「西成先生のお部屋を訪れた時、医療過誤の話を聞いても冷静さを崩さず淡々と自分の業務をこなしていた背中姿に、僕は憧れすら抱きました」

松川の熱い視線に対して、前田は過剰な賞賛にきまり悪く、戸惑いを感じていた。なにせ真相は、腫れたまぶたを隠したくて壁と向き合っていただけなのだ。

しかも、涙した原因となったのはアイドルの解散で、そのアイドルの「推し」と松川の顔が似ているので松川のことが気になっていたとは口が裂けても言えない。

松川の抱く前田のイメージと現実の前田との間には、空よりも高く、海よりも深いギャップがあった。それを崩してしまっては、裁判を控えた松川を無駄に不安にさせてしまうだけだ。

前田は意を決して背筋を伸ばし、毅然とした態度で松川に告げる。

「お褒めくださり、誠にありがとうございます。でも今日はあくまで仕事の目的でお誘い申し上げたのです」

もしも仕事が絡むことなくこの状況でいられたら、なんて楽しい夕食になったのだろう、とひどく残念になる。

やむを得ず距離を置くと、松川はきわめて真面目な表情に戻って謙虚に謝罪する。

「すみません、まるで下心があるようなことを言ってしまって。じつは僕、出身がT大学の呼吸器内科なんです」

「えっ、T大学の呼吸器内科って、まさかあの橋上先生という教授がいる教室ですか!?」

驚いて開いた口を慌てて手のひらで覆う。

「ええ、あの橋上教授は僕の直属の上司だったんです――」

そして松川は自分の身上について語り始めた。

かつて松川が大学病院に所属していた頃、呼吸器科の主任教授であった橋上は、若手医師に対する贔屓ひいきと冷遇の差が激しく有名だった。そして松川は、悪い意味で目をつけられたひとりであった。

橋上は呼吸機能などの肺生理学を専門として研究していたが、それを知らなかった松川が、入局の際に「将来は肺がんの研究をしたいと思っています」と口にしたことが発端だったらしい。橋上はそれを自分に対する反発だと捉え、ことあるごとに松川に不条理な叱責を浴びせるようになった。

松川が大学を辞めた最たる理由は、橋上の不条理さに耐えかねたためだった。

しかし、松川は専門医資格を未取得だったため、専門医を目指して呼吸器内科の研修が可能な東山総合病院に就職した。

以来、この病院で日々の診療をこなしつつ、専門医を目指して研鑽けんさんを積んでいる。

「僕は過去のトラウマを払拭しようと、この病院で頑張っていたつもりです。それなのに、橋上教授は僕を追って魔の手を伸ばしてきたんです。それも罪のレッテルを貼り付けるために」

「そうだったんですか……それって一種のパワハラですよね。でも、橋上先生が教授という立場だったから、医局員は誰も逆らえなかったんですよね」

「大学には味方になってくれる人なんていませんでした。だけど、今はあの時と違って、少しだけ心強いです」

そう言うと、松川は急に身を乗り出して前田の手を取り、握りしめた。

「あっ、えっ……!?」

「西成先生と前田さんは、どんな難問でも解決できると噂で聞いています。僕はこのままあの人にやられ続けたくないんです。どうか、どうか裁判で勝たせてもらえませんか」

そう言って、松川はさらに両手に力を込めた。

あまりの過大評価と期待のプレッシャーに、前田はせっかくのイタリアンが喉を通らなくなるのではないかと懸念した。

けれど、穏便に解決できたら、その時はゆっくりと食事を楽しむことができるはずだ。もしかしたら、その先に新しい未来が待っているかもしれない。そう信じて、せいいっぱいの返事をした。

「松川先生、大丈夫ですよ。わたしたちは松川先生の強力な味方でいるつもりです。最善を尽くして、松川先生を不条理な訴訟から守りますから!」

翌日、前田は出勤すると同時に、西成の書斎机の前に仁王立ちになり、事情を力説した。

「西成先生、この裁判、どうしても勝ちたいんです! 西成先生なら、あんなマウント弁護士とパワハラ教授には負けないですよね!」

まくし立てるように話す前田の必死な姿に、西成はにやにやと笑みを浮かべた。

「ほぉ、前田さん、今回はやけに熱が入っていますね。『依頼人』に特別な思い入れがあるのですか?」

「うっ……!」

胸中を見抜かれたようで、顔が熱くなる。

「まあ、あの後、いろいろ考えたんです。でも、今回ばかりは分が悪いですよ」

「西成先生ともあろう方が、すでに負けを認めるおつもりですか?」

「いえいえ、私は戦わずして諦めるつもりは毛頭ありませんよ」

モニターに映るレントゲンに視線を向けた。何度見ても、肺がんが存在するようには見えない画像だった。

「このレントゲンを見ると、つい連想してしまうんですよ」

「は? なにをですか?」

「まるでピアノの鍵盤のようだと」

「鍵盤、ですか……?」

再度、画面を確かめた。そう言われると、モノトーンの肋骨の画像が鍵盤のように見えた。一瞬、納得しかけたが、すぐに前田の心が警鐘を鳴らした。そんな連想は非倫理的ではないかと。

「お言葉ですが、不謹慎ですよ。人間の画像を無機物に喩えるなんて」

「いえ、むしろその逆です。私はピアノが人間のように有機的な存在だと言いたいのです。その旋律は、まるで命を宿しているようではありませんか」

「はぁ……命を、ですか」

いつもながら、西成の言葉は意味深で、とらえどころのないイケオジの物言いだった。

西成は棚の前に足を運び、中腰でレコードのコレクションを眺めた。いつものようにレコードジャケットをいくつか取り出し、一枚を選んで見せた。

「今回の事件には、この曲がぴったりですね」

レコードプレーヤーの前に立ち、レコードを再生させた。

流れてきたのは、フランツ・リストの『ハンガリー狂詩曲 第二番』だった。

「ピアノの魔術師」と呼ばれたリストの技巧がふんだんに織り込まれ、リズムと旋律が変化する構成で心を揺さぶられた。ハンガリーの民族的な情緒が引き立てられ、繊細で物悲しい曲かと思いきや、クライマックスは迫力に満ちていた。

曲が終わると、西成は深く息を吐いて振り向き、前田を直視した。

「前田さん」

「はい?」

「この危機を乗り切る方法を思いつきました」

西成はそう言った。銀縁眼鏡の奥で光る瞳には、強固な自信がみなぎっていた。

「えっ、ほんとうですか!?」

自身の席に腰を据えていた前田は、勢いよく立ち上がり、デスクに乗り上げる勢いで前のめりになった。

「はい。バイアスで見えないものが見えてしまうなら、心を揺さぶるような技巧が必要なのかもしれません。意味がわかりますか?」

「そう言われても……う~ん……」

前田は西成の意図を汲み取れずに考え込んだ。しかし、唸り声を上げたことに気づいて口を閉ざし、頬を赤らめた。西成は面白そうな顔をして続ける。

「オーケストラとして曲を引き立たせるには、多くの楽器とそれを演奏する奏者が必要です。ですから、前田さんにも協力していただきたいと思います。よろしいですか?」

「はっ、はい! なんでもします!」

西成は軽やかに身を翻して前田のデスクに歩み寄り、両手を天板に乗せてじっと目を見つめた。

「それでは少々骨が折れるでしょうが、前田さんは松川先生と協力して、正常な胸部レントゲン像を百枚、ピックアップしてもらいたいのです」

「正常なレントゲンを、百枚……?」

前田の頭上には疑問符がいくつも浮かんだ。西成の意図は、いつも簡単に理解できるものではない。

「はい、そして裁判に臨みましょう」

そう言う西成の眼鏡越しに光る瞳は、知識と経験に満ちた輝きを宿していた。

裁判の日が訪れた。

松川は法廷という、人間が人間を裁く戦場に初めて足を踏み入れた。白衣ではなく背広を身にまとう松川は緊張をあらわにし、痛むみぞおちを手のひらで押さえていた。

傍聴席には患者の身内と思われる人々が数人いるだけだったが、向けられた視線は鋭く、敵意を剥き出しにしていた。前田も裁判に参加し傍聴席にいたが、殺気立った雰囲気に目を伏せたくなった。

松川は被告席で不安そうな表情を西成に向けた。松川の視線に気づいた西成は松川の方を向き、小さく、しかし力強く首を縦に振った。

前田は、「西成先生、お願いします! 松川先生、頑張って!」と心の中で祈るばかりだ。

法廷には最上段の壇上に裁判長がおり、その両側に裁判官、壇の下には書記官がいた。そして対面には弁護士の石渡と、原告である患者の夫が構えている。

石渡の目つきはやけにぎらついており、西成を刺すように睨みつけていた。前田はその男を見て、誰が仕掛けた裁判なのかは火を見るよりも明らかだと感じた。

そして裁判が厳かに始まる。

宣誓を促され、松川は「良心に従って真実を述べ、何事も隠さず偽りを述べないことを誓います。氏名、松川慧介」と答えた。

松川にとっての真実は、「自分は異常なしと読影した」というひとことに尽きる。しかし前田にとっては、真偽が不定かなのに罪を着せられる医師という職種の因果がひどく胸苦しく感じられた。

人定質問を受ける松川は虚ろな目で、まるでそれが自分のことではないかのような、ぼんやりとした表情をしていた。職業を聞かれたところで「医師です」と答えたが、そう答えることすら戸惑いを含んでいるように見えた。

次に起訴状が読み上げられた。「被告、松川慧介は胸部レントゲン所見において、本来発見されるべき肺がんを見逃し、肺がんの進展を許し、患者を死の危険にさらし――」
その遠慮のない言い回しは、まるで松川を罪人として扱っているかのようであった。次第に松川の表情が苦痛の色を濃くしていった。

裁判での最も重要な論点は、検診を実施した時点で肺がんが存在していたかどうかである。しかし、専門医による読影は「異常所見ありきのレントゲン読影」というバイアスが問題となることがある。

そう考えた西成はバイアスを打破するため、事前に相手方の弁護士である石渡に対して特定の提案を行っていた。そして石渡と原告はその条件を受け入れていた。

審判の舞台が設えられる。

法廷に振動を伴ったモーター音が鳴り響き、白いスクリーンが天井から降りてきた。プロジェクターが眩い光を放ち、長方形のスクリーンが白色に照らし出された。

そこに映し出されたのは百枚の胸部レントゲン像であった。小さなレントゲンが縦十列、横十列にタイル状に並べられていた。裁判官の一人がパソコンを操作し、一番左上の画像が拡大された。

松川が仕事を終えた後、前田は松川と共にレントゲンの選定にあたっていた。前田は凛とした態度を崩さず、松川の抱く前田のイメージを守り抜いた。そして無事に画像の選定を終えた。

西成が提示された画像について説明した。

「これらの画像は電子カルテで閲覧可能なものと同等の解像度を保証しています。我々は百枚の画像を準備しましたが、この中には肺がんがあるとされた当該患者の画像が含まれています。残りは『異常なし』と診断された画像です。

この中から肺がんがあるはずの画像を原告の協力医に見つけていただきたいのです。正常と異常を確実に見分けられるのであれば、この中から異常のある画像を選び出すことは容易いはずです」

確かに、この方法であれば明確に白黒をつけることができる。座する面々は納得の表情を浮かべた。

しかし松川の不安は解消されなかった。なぜなら、目利きの医師であれば、胸郭・心陰影の輪郭や角度、血管の走行具合から同一画像を特定することは難しくないからだ。たとえ異常のない胸部レントゲンであっても。

そして問題となった画像と胸部外科のカルテのエクスポートデータは、患者側の開示請求により相手の弁護士の手に渡っていた。

協力医が正解の画像を目にしていないはずはない。つまり、百枚の中から一枚の同一画像を特定すれば、裁判で勝利できる。公平なように見えるが、実際には松川にとってきわめて不利な裁判であった。

裁判長が視線を傍聴席の先に向けた。

「これより協力医にご登壇いただきます。どうぞお入りください」

すると入り口の扉が鈍い軋音を立てて開いた。革靴の規則的な音が静まり返った法廷に響く。入場してきた男は小柄だったが、その様子は威風堂々としていた。松川は息を呑んだ。

姿を現したのは、やはり因縁の教授、橋上修一だった。

松川はひどく動揺し、両手をついて息を荒げた。橋上が「肺がんを示唆する所見は認められない」と松川を擁護する見解を述べる可能性は低い。

事実、橋上は松川の顔を見るなり、片側の口角を不自然に引き上げた。まさに臨戦態勢の雰囲気が漂った。

橋上は画像を検証するため、プロジェクターに接続されたノートパソコンを操作している裁判官のもとへ歩み寄る。

操作していた裁判官が席を外し、橋上はその席にどっしりと腰を下ろした。

そこで西成はすかさず質問を投げかける。

「橋上先生、ひとつお尋ねしてもよろしいでしょうか?」

あからさまに不機嫌さを含んだ低い声が返ってきた。

「なんだね、構わないが」

「先生の豊富な臨床経験の中で、肺がんが自然に改善した例はございますか?」

その質問に対し、橋上は眉間にしわを寄せて答えた。

「なにを言っているんだね、きみは。肺がんのような悪性度の高い疾患が自然退縮することなど、まずあり得ない」

確信に満ちた、というよりは、高圧的な態度であった。判決の決定権が自分にあるかのような自信を漂わせていた。

「それでは協力医の橋上先生、読影をお願いします」

「うむ」

裁判官の合図で画像の読影が始まる。

橋上は一枚一枚、画像を拡大し、順番に読影した。多数の胸部レントゲン像が流れる間、橋上の眼球は絶えず小刻みに動いていた。

雰囲気が変わったのは二十九枚目の画像だった。一瞬、橋上が目を見開いたことに前田は気づいた。どうやら目的の画像を見つけたようだ。松川もそれに気づき、背筋を伸ばし、表情を硬くした。

確信は揺るぎないものだったようで、それ以降のレントゲンの読影は若干早いペースで進んだ。橋上は流れるように画像を見ていた。

約三十分で読影は終了した。橋上は大きく息を吐き出す。その吐息には達成感が含まれているように感じられた。一拍置いて、自信に満ちた声で宣言した。

「読影が終わりました。お答えしましょう」

橋上はレントゲンがタイル状に並んだスクリーンを指差し、迷いなく一枚の画像を選んだ。

「二十九番の画像を拡大してください。それが異常所見のある画像です」

画像が拡大されると、それは前田と松川の記憶の中にある、悪夢のレントゲン像と酷似していた。橋上はプロジェクターに映る拡大写真の右下肺野をポインターで指し、「私はこの部分に陰影があるように思います。この一枚を『精査対象』と判定します」と、さも当然のように口にした。

法廷はざわりと色めき立った。前田はぐっと唇を噛み締めた。

裁判員がパソコンを操作し、患者の名前が記入された原本のレントゲンを画面に提示して並べた。比べると、画像は同一のもので間違いなかった。松川の有罪が確定したようなものだった。

しかし、腫瘍を認めるかどうかといえば、明らかな異常とは言い難い程度の、ごく淡い陰影だった。確定的な画像ではないにせよ、専門家の重鎮に「異常がありそうだ」と指摘されたからには、誰もが橋上の「神の目」と松川の「落ち度」を認めることになる。松川の足はがくがくと震え始めた。

それでも西成は動じる様子を見せず、突然、松川に対して質問を投げかけた。

「松川先生、お尋ねします。あなたは今、何歳でしたか?」

松川は狼狽し、血の気が引いていたが、黙秘権を行使する理由がない質問である以上、答えざるを得なかった。乾いた喉から数字を振り絞った。

「二十九です」

「若いとは羨ましいですね。可能性に溢れています。しかし私も『喜寿』を迎えるまでは、現役で頑張りたいと思っています」

傍聴席の前田は、若いから人生は長い、だからやり直せる、という意味なのだろうと察してうなだれた。

しかし、西成は落胆する様子を見せず、今度は橋上に向かって続けた。

「ではもう一度確認させてください。肺がんが存在するレントゲンは二十九番ですね?」

「はい、ファイナルアンサーです」

橋上はもはや勝利の笑みを隠すことはなかった。万事休すだ。

しかし、そこで初めて前田は西成の表情が変化したことに気づいた。それは渋くもあり、眩しくもある、深い微笑だった。

西成は挙手と同時に立ち上がった。ついに百枚の画像に込められた真の意味を明かす時が来た。それは誰もが予想し得ないものだった。

「橋上先生、ここまでヒントを出しても気づかれなかったのですね。誤診をしたのは松川先生ではなく、橋上先生ご自身だという事実に」

結論の風向きが決定しかけた法廷で、空気が一変した。

「なにを言い出すんだ、この素人弁護士が!」

勝利の美酒を味わうはずだったその喉から怒りの声が漏れた。西成は臆することなく続ける。

「じつは『七十七番目』のレントゲンですが、これは検診で見逃しをされてから三か月後に撮影された同一患者の画像です」

「なっ……!」

「先生は、肺がんは自然退縮することはないとおっしゃっていました。したがって、このレントゲンを撮影した時点では、検診を受けた時よりも肺がんは進行していたということになります」

橋上は目を吊り上げて怒り叫んだ。

「きみはこの私を騙したのか!」

「いえ、私は『あとは異常なしと診断した画像』とは言いましたが、七十七番目の画像は松川先生が異常なしと診断していますし、橋上先生も今、この場で異常なしと判断しました。

つまり、この肺がんは橋上先生ですら見つけられないものだったか、それとも三か月後の時点で肺がんが存在していなかったか、そのどちらかということになります。真実はどちらなのでしょうか」

「ぐむむむ……」

苦虫を噛み潰したような顔をする橋上に対し、西成は二の矢を放つ。

「では、続いてこれをご覧ください」

西成はA4サイズのプリントを数枚、机の下から取り出した。内容は座談会をまとめた製薬会社の宣伝冊子で、橋上の笑顔がページの右上に映っている。

この資料は西成が前田に収集を頼んだ、橋上に関する情報のひとつである。あらかじめ変換しておいた画像ファイルがスクリーン一面に映し出される。その場にいる面々の視線はスクリーンに集中した。

「それでは被告である松川先生に読んでいただきましょうか」

西成がプリントを松川に渡す。予定になかった指示に松川は驚いた様子だったが、慌ててプリントを手に取り読み上げる。

『――橋上先生、画像の読影において最も重要なことはなんだと思われますか。

――私はほかの医師が異常なしと判定した画像でも、一枚一枚、頭をリセットし、フレッシュな心持ちで向き合います。そうすればおのずと画像が答えを教えてくれます。

――それは先生のように、多くの経験を積んでいらっしゃる医師でも必要なことなのでしょうか。

――ええ。なぜなら誤診の多くは、医師の持つ先入観が生じさせるものですから。たとえば国家試験の問題では正解はひとつですが、現場ではそうとは限りません。常に油断はできないのです。

――さすが呼吸器内科の名医、橋上先生ですね。真摯な姿勢に感銘を受けました』

読み終えると、法廷はしんと静まり返った。かすかに聞こえたのは橋上の低く唸る声と、患者の旦那の立てた歯ぎしりの音であった。

最後に西成はひとこと、まとめ上げた。

「これほどのお立場の先生が、七十七番の画像に対して異常を指摘されなかった以上、二十九番の画像に異常があることを立証できるはずはありません」

そして導き出された判決に異を唱える者は、いるはずもなかった。

裁判所を後にした時には、すでに夕暮れの時分となっていた。オレンジ色に染まる帰り道を松川と西成が並んで歩く。前田はその後をついて行きながらふたりの会話に耳を傾けていた。

「西成先生、このたびはほんとうにありがとうございました。無罪の判決になったのは、先生のおかげとしか言いようがありません」

ためらいを見せた後、さらに続ける。

「でも僕、レントゲンを見返して、ほんとうは肺がんがあったのかもしれないって思えてならないんです」

それは裁判まで持ちかけられたがための「バイアス」なのか、それとも松川が「神の目」を宿したのか。それを判断することなどできるはずのない前田は、戸惑うように首をかしげるばかりだ。

一方で西成は表情を変えることなく、木々を揺らすそよ風のように返事をする。

「裁判はけっして未知の真実を明らかにできるような神懸かりの儀式ではありません。私も松川先生も正直に思ったことを話しただけですし、橋上先生だってそうでした。それらを勘案した裁判官によって、妥当な判決が下されただけのことです。松川先生の読影は、けっして罪などではなかったのです」

でも、と言ってうつむく松川に西成は続ける。

「人間は神じゃありませんし、バイアスはあります。けれど失敗を反省できるのであれば大丈夫です。だって癌は人間の命を食べて成長しますが、人間は苦労を食べて成長するんですから」

そのひとことに松川は目を丸くし、そして笑みをこぼした。

「では、私は野暮用があるので、ここでおいとまするとします。あとはおふたりで反省会をされてください」

西成は、ちらりと前田に視線を送り、にやりと口角を上げてみせた。前田の頬を染める夕暮れの紅は、さらに色濃く上塗りされた。

ふたりは帰り途中にある広々とした公園に立ち寄り、ゆっくりと遊歩道を散策する。

辺りの木々はいつのまにか色づいていて、まもなく紅葉の見頃を迎える季節となる。仕事を始めてから、時の流れが急に早まった気がした。

「前田さん、僕は前田さんにもちゃんとお礼が言いたかったです。ほんとうにありがとうございました」

「そんな……でもわたし自身も、ちゃんと伝えなくちゃいけないことがあって」

松川ははっとして足を止めた。前田は数歩先に進んでから振り返る。

「今回は――いえ、いつものことなんですけれど、こういった案件は、ぜんぶ西成先生が解決してくださっているんです。ほんとうのわたしはいつだって役立たずなんです」

「謙遜はやめてください。――僕、もしも無罪となったら、前田さんに告白しようと思っていたんですから」

前田はその言葉に心臓が飛び上がった。気のない態度をとっていたのはお互いさまだと、初めて気づいたのだ。

けれど松川はふぅ、と諦念を含んだため息をもらして言う。

「でも僕はまだまだ半人前です。もっとしっかりした医者になって、ちゃんと胸を張れるようにならないと、前田さんに告白する資格なんてないと思いました」

その気持ちは、前田自身も同じだった。だからこそ、自分の想いは明かさないほうがいいのだろうと思った。未熟さで共感を得ても、自分が情けなくなるだけだ。後ろ髪を引かれながらも、前田は決意を固めて松川と向き合う。

「それでは、お互いたくさん苦労して、切磋琢磨しましょうか。それと、もう『診療部門特別相談室』でお会いする機会がないことを、切に願いますね」

突き放すようにそう言って、強がりの笑みを見せてきびすを返す。

そして、絶対に振り向かないと自分に言い聞かせて足を前へと進める。

前田は夕暮れの公園を去りつつひとり思う。

今日は「推し」の歌声を聴きながら、もう一度、思いっきり泣き明かしてやるのだと。

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