西成弁護士の奇妙な事件診療録(第4話 時を止めた研究者)
【目次とリンク】
第1話 神様と小さな天使
第2話 オーバーカム・ザ・バイアス
第3話 怪異の復讐劇
第4話 時を止めた研究者
第5話 ふたりの過去
最終話 銀鱗躍動
★
「西成先生、お言葉ですが」
医療弁護士として東山総合病院に拠点を構える西成仁のうら若き秘書、前田美穂はいつにもまして不機嫌な声を発した。
「なんでしょうか、前田さん」
「机の上に散らばった論文、片付けていただけませんか。異国の文字の羅列が目障りでございます」
「ああ、それは森山先生の論文ですね」
西成は前田の心中が低気圧状態なことに気づいているはずなのに、素知らぬ顔で間の伸びた返事をする。
「森山先生は立派になられましたからね。この論文を出版できてから七年、早いものですね。私がこの病院に来て間もない頃でした」
思い出すように言う西成は感慨深げだが、対照的に前田の表情はひどく歪んでゆく。
前田は反抗心を堪えて言い返す。
「研究実績を積み上げ、今や名高い外科部長。この病院になくてはならない存在です」
「あの頃は森山先生、だいぶ尖っていましてね。今では考えられないですが。人間には人生のターニングポイントっていうものがあるようです」
まるで見透かしたかのような西成の言い草に、前田の握りしめた拳がわなわなと震える。
西成が前田の過去を知っているのかどうか、ことあるごとに探りを入れていたのだが、西成が明確に触れることはない。
そして前田は、この東山総合病院に就職した真の目的をいまだ果たせずにいる。
そう、それは遡ること八年前――。
★
かつて東山総合病院には、ふたりの同期の外科医がいた。
ひとりは森山和彦。将来、この病院の外科部長となる、上昇志向の強い男だ。頑固なまでに臨床一徹で、医師としての時間のほとんどを診療に割いてきた。
森山にとっては己の手掛ける医療こそが生きがいであり、プライドでもあった。
そしてもうひとりの男は、金井啓介。医師らしくない飄々とした雰囲気の優男で、何事もそつなくこなす器用な人間だった。診療に抜け目はないが欲もなく、自分自身が診療の前面に立とうとはせず、常に誰かのサポート役となっているような男だ。
だが、金井は基礎研究にも臨床研究にも熱心で、しばしば大学に戻っては実験室にこもり、森山の知らぬ間に実験を進め、着々と研究成果を上げていた。
森山はそんな金井を疎ましく思っていた。
「おい金井、俺の担当している患者から研究のサンプルを勝手に採血したんだろう」
ある日、森山は病棟で金井を掴まえ怒りをあらわにして問い詰めた。
「だって外科部長が許可を出しているし、患者さんにちゃんと説明して同意書にサインもらっているんだよ。施設の研究なんだから勝手にやっているわけじゃないよ」
森山の主張を平然とかわす金井に、森山はさらに怒りを募らせる。病棟だということも忘れて声を荒らげた。
「お前みたいに医者として中途半端な奴にウロウロされたくないんだよ!」
「ええっ、だってもったいないじゃない。森山はたくさん患者さんを見ているんだから、いろんな研究ができるはずだって」
「てめえ、俺の患者を研究対象として見ていやがるのかよ! お前は患者の血が欲しいだけだろ、このドラキュラが!」
金井は現在、がん患者における免疫担当細胞の活性とビタミンの一種、「カルニチン」の濃度の関連について調査をしている。
病棟を渡り歩いてサンプル採取をおこなう金井の姿を目撃したことのないスタッフはいないくらいだ。金井にとっては研究のスケジュール通り採血するのが日課だったし、看護師もルーチンの採血を金井におこなってもらえるので助かっていた。
そして森山は人一倍多くの患者を担当していたため、臨床研究のサンプル提供の対象となる患者も多く受け持っていた。
「森山だって共同研究者になるんだからさ、協力してくれよぉ」
金井は医者の誇りなどどこ吹く風といった風体で両手を合わせて頭を下げる。そんな金井の姿に、森山はなおさら憤慨する。
「お前は研究業績があればいいのかよ、なんのために医者になったんだ」
「ええっ、でも研究だって大事だよ? それに将来、みんなの役に立つかもしれないものじゃん」
「てめぇ……」
森山のはらわたが煮えくり返る理由は、なにも金井の態度が癪に障るだけではない。研究を遂行して成果を上げること自体の厳しさにもあったのだ。
研究結果を学会で発表するのは難しいことではない。しかし論文を仕上げ、研究論文の出版にこぎつくとなれば話は別である。
森山はかつておこなった臨床研究の結果を、苦心の末、英文論文として仕上げたことがあった。
しかし満を持して雑誌に投稿するも、専門の研究者の辛辣な査読コメントの前に拒絶され大いに心を折られた。
まるでラブレターを叩き返されたかのように、衝撃は甚大だった。
それからは上司に論文投稿をお願いし、辛酸を舐めること十数回、かろうじて国内の英文誌に掲載できた。しかし、その安堵と同時に、自分はアカデミアの世界で活躍できる人間ではないと認識するにいたった。
臨床一徹の道を歩んだのは、研究に対する恐怖から逃げ出すための、自分自身に対する口実でもあったのだ。
だが、金井はそんな学問の国境をいとも簡単に乗り越え、すでに十編以上の論文を海外に送り出していた。
自分と金井のなにが違うのか、森山には理解できなかった。
とはいえ、金井に教えを乞うつもりは毛頭ない。むしろ、金井の臨床と研究を並走させる姿勢を否定しなければ、自分自身を無能な人間と認めることになってしまう。
「俺はできるだけ血を流さないように手術するのがポリシーだ。だがお前はその血を奪っていきやがる。研究結果に意義がなかったら、俺の患者に平身低頭で謝罪してもらうからな!」
森山は自分でも捨て台詞だと認識している言葉を吐き、足早にその場を後にした。
★
「ご愁傷さまです」
両手を合わせた森山の目の前に横たわるのは、末期の胸膜中皮腫を患っていた患者だった。年齢は五十四。逝去するにはまだ若すぎる。
約一か月前、せめて食事や水分が摂れるようにと、狭窄した食道にステント留置術をおこなった。けれど病状の進行は想定していたよりも早く、急激に全身状態が悪化して死亡したのだ。
手術の効果は、一時的に飲食物が喉を通るようになったに過ぎない。
「奥様、最後に病状の説明をさせてください」
泣き崩れる患者の妻に対し、森山は気遣いと義務が半々の声をかけた。傍には息子と娘の姿もあった。
ふたりとも高校生くらいに見える。森山は若くして家族を失った子供たちにいくばくか同情の念を抱いたが、彼らを慰めるのは自分の役目ではない、自分ができることは最後に病状を説明し、死亡診断書を書き記すことだと思い直した。
すると臨終の場に集まった顔も知らぬ輩たちから怒りの声が投げつけられた。
「こんなに早く駄目になっちまうなんて聞いてねえぞ」
「おかしい、あんたが手術を失敗したんじゃないのか」
「薬の量を間違えたかなんかで寿命が縮んだんだろう」
患者が若いと病状の進行は早いというが、想定外の病状の悪化に対してあらぬ疑いをかけられた。時折経験する、言いがかりにも似た邪推の主張に対して、森山は辟易した。
しかもたいてい、騒ぐのは事情を知らない外野たちだ。
悲しみに打ちひしがれる妻が、彼らの的外れな怒りを諌めることなどできるはずもない。森山も患者の状況を説明できずにいる妻を非難するつもりはなかった。
このような場合は、医師としてできうる限りの説明をおこなうしか手立てはない。たとえそれが先入観に満ちた目で見ている相手だとしても。
「術後の経過自体は順調でしたが、想定以上に病気の進行が早かったのです。それに伴い腎不全に陥りましたが、抗生物質の投与量は調整しましたし、高カロリー輸液も腎不全専用のものに変え――」
森山は腎不全に用いる高カロリー輸液に目を向け――そして、絶句した。
その輸液の色は、思いもしなかったことに、透き通るような純白だったのだ。
それは、森山が致命的な医療ミスを犯したことを物語っていた。
――まさか、そんな!
森山は悟られまいと平静を装ったが、内心は激しく動揺し、嫌な汗がとめどなく噴き出ていた。
医療ミスとは、単に失敗を犯したから医療ミスなのではない。
必要なことがたったひとつ欠けていただけで、それが原因で患者が死亡したと認めざるを得ない事例も存在するのだ。
食事が摂取できない患者に対しては、中心静脈経由の高カロリー輸液を投与することが多い。これはさまざまな栄養素を含んでいる輸液である。
そして、高カロリー輸液を投与する際には、糖分の代謝に関連する重要なビタミンであるビタミンB1を併用しなければならない。ビタミンB1が欠乏すると、エネルギー産生のための好気性解糖が機能せず、代謝性アシドーシスという血液が酸性に傾く致死的な状態に陥るのだ。
そのため、高カロリー輸液を使用中にビタミンB1を投与せず患者が死亡した場合、死因に関わらず医療過誤による死亡と判断されるのが裁判の判例となっている。患者が死亡した後に、ビタミンB1欠乏症による健康被害を否定するなど不可能なことだからだ。
これらは過去に多発した事例であったため、現在では高カロリー輸液はビタミン製剤と抱き合わせになっている。しかし腎不全の患者に対する高カロリー輸液では、ビタミンが排出されずビタミン過剰症となるのを防ぐため、ビタミン剤が抱き合わせになっていないのだ。
現在、高カロリー輸液のビタミン欠乏に対する懸念はほぼ払拭されているため、このような事態はさらに起こりやすくなっているといえる。適切な対策がなされたことにより、むしろ危機意識が薄れてしまうのだ。
森山は狼狽した。一度は隠し通そうと邪念が沸いたが、動揺する森山を見る身内の目は猜疑心に満ちていた。森山は声の震えを抑えて言う。
「……我々も死因については再度検証してみますが、もしもカルテ開示を求められるのであれば、弁護士に相談してみることをお勧めします」
そう言えば、身内は恐縮し、それ以上の詮索はしてこないだろうと森山は考えた。
「わかりました。考えておきます」
身内が迷いなくそう答えたことは森山を不安にさせたが、遺体はすんなり引き取られ、患者家族は病院を後にした。
だが、それから数日後、カルテ開示の請求があったのだと、森山は病院の事務局から聞いた。
そして、相手(妻ではなく患者の兄らしい)は医療を専門とする弁護士を雇い、悠然と示談を申し入れてきたという。医療過誤の証拠を掴まれたと考えざるを得なかった。
★
「西成先生、そういう事情なんです」
西成のもとを訪れた森山は明らかに焦燥していた。
東山総合病院に赴任してきたばかりの西成は医療事故の案件を扱った実績はまだなく、その手腕はいまだ認知されていなかった。
だから森山は藁にもすがる思いで西成の元を訪れたのだった。
「なるほど、事の顛末は理解できました。ところで、少々お尋ねしたいことがあるんですが」
「はい?」
「下調べをさせていただいたのですが、森山先生は医療には相当、真面目に取り組んでいらっしゃる方なのですね」
その言葉はいくばくか森山を安堵させた。
経験不足は医療ミスの原因となるが、多忙を極める日常もまた、医療ミスの原因となる。軽微なインシデントすら経験のない医師は、医療をおこなっていない者だけだ。
西成は森山の医療に対する姿勢や能力をまるで否定しなかった。その柔和で寛容な心遣いは、頑固な森山にさえ、西成を信用するに足る人物と思わせるのに十分だった。
森山は思わず西成に向かって頭を垂れていた。
「どうすればよろしいのでしょうか」
「判例では裁判になればほぼ敗訴しますから、示談にした方がよろしいかと思います」
「そ、それは困ります!」
野心的な森山にとっては、自分の意志で非を認めることは許されなかった。ほんとうにビタミンB1が欠乏していたとは限らないのに、判例に倣って罪の烙印を押されるのにはひどく抵抗があった。しかし、森山の抱えていた事情はそれだけではなかった。
東山総合病院は大学病院の関連施設である。診療が主要な業務とはいえ、研究実績の少ない者は将来的に重要なポジションにつけないのだ。診療実績でそれをカバーしようと躍起になっていた森山にとって、医療上のミスを犯したという汚点は、彼の客観的な評価を下落させることになる。
臨床医としての「売り」を失うことは、出世における大きなデメリットとなってしまうのだ。
飄々とした要領の良い男、金井の顔が脳裏をよぎる。金井は研究の実績は非の打ち所がなく、臨床もそつなくこなす。
同期の金井にだけは、病院の重要なポジションを奪われたくない。
自分に非があるのであれば、裁判沙汰は避けたいと考えるのが正常な思考である。しかし金井に後塵を拝している森山にとって、示談であっても負けを認めることは許されなかった。森山にとっては進退を賭けた事態だったのだ。
「裁判に持ち込んで構いません、どうにか勝てる方法はないでしょうか」
森山は必死の形相で西成に迫る。すると西成はいくぶん思考を巡らせてから、こう言った。
「科学的に見れば……ビビタミンB1の欠乏を否定する証拠があれば、敗北は避けられるでしょう。しかし、患者が生きていた時のビタミンB1の血中濃度を調べることは不可能です。時間を巻き戻すことなど、私たちにはできませんからね」
その言葉を聞いた森山は、驚きのあまり目を見開いた。
そう、森山は知っていた。患者が生きていた時の、時系列で採取された血液サンプルが存在することを。
――俺の無実を証明できる証拠を、金井が持っているはずだ。
森山は、ドラキュラと皮肉っていた男が、まさに時を止めていたことに気づいたのだ。
逆転の希望に胸が躍るが、息を整え冷静に思考を巡らせる。
研究に前向きだった金井をあれだけ否定しておきながら、そのライバルから自分を救うためのサンプルを受け取るなど、森山のプライドが許すはずはない。
しかし、この状況は森山にとっては追い風だった。決意を固めて西成に事情を説明する。
「――じつは、血液のサンプルが保存されているんです。それも週二回、患者の死亡直前まで定期的に採血されています」
「なんと!」
冷静沈着な西成でさえも、その事実に驚きを隠せなかった。
「金井という同期の医師が研究のために採血を行っていました。しかし、あいつがサンプルを正確に採取しているかどうかは、はっきりとはわかりません」
すると、西成は銀縁眼鏡の奥から森山を鋭く見つめた。
「『あいつ』と呼ぶとは、さほど良好な関係ではない相手なのですね。しかも、森山先生の患者さんのサンプルなのに、採取の精度を把握していないということは、先生はその研究にあまり関心がないようですね」
西成の洞察に、森山はぎくりとして背筋を伸ばし、慌てて冷静を装いながら言葉を選んだ。
「まあ、そんなに良い関係というわけでは……。ですから、俺が頼んでもサンプルを提供してくれるかどうかはわからないです。あいつは臨床よりも研究を重視しているようですから」
少々嫌みが入っているのは森山自身、よくわかっていた。西成はそんな森山の心中を見透かすように見つめている。
「わかりました、では、私がサンプルの提供について金井先生と交渉したいと思います。ただし――」
西成はポケットからなにかの器具を取り出した。
それは記録のために用意していたボイスレコーダーだった。録音状態を示す赤いライトが点滅している。
「森山先生、じつは今の会話はすべて録音させていただいています。単なるメモ帳代わりのつもりですので、普段なら記録を書き写したら消してしまうのですが、これは重要な証拠の一部となります」
「証拠? なんの証拠でしょうか」
森山が不安そうに尋ねると、西成は悠々と説明する。
「物証を用いる裁判になった場合、サンプルの信頼性がきわめて重要になります。サンプルにはどんな操作も加えていないことを証明する必要があります。ですから私が金井先生からサンプルを受け取り、預かったものを業者に直接、提出します」
「ああ、なるほど。サンプルの存在を知った時点から業者に提出するまで、中断せずやり取りを記録するんですね」
「はい。検体の収集は何時頃でしたでしょうか」
「えっと、確か、午後三時です」
「それなら録音時間は間に合いそうです。では、急いで金井先生の居場所を突き止めてください。それからサンプルの使用目的については金井先生には秘密にします。事情を知った同僚が捏造の手助けをしたと解釈する人間もいるかもしれませんから」
森山は驚きを隠せなかった。西成が恐ろしく頭が切れる男だということを、いやおうなしに実感させられたのだ。
同時に西成が味方となったことが心強くもあった。
森山が金井のPHSを呼び出すと、金井は医局で遅い昼食をとっていた。居場所を確かめ、「西成先生が探しているぞ」とだけ伝えて電話を切る。
森山は西成からのサンプル提供の依頼に応じるか不安だったが、予想外に金井はあっさりと応じたのだった。
西成は金井とともに検体が保存してある地下倉庫に足を運ぶ。金井がディープフリーザーを開け、几帳面に並べられた時系列のサンプルを取り出す。
「西成先生、採取した日付はチューブに書いてあります。亡くなるまでの約一か月間、毎週二回、水曜と土曜に採取しています」
金井の歯切れの良い対応と、それにもまして行き届いたサンプル管理に西成は少なからず驚かされた。
しかも役に立てたことが嬉しいのか、金井はにっこりと白い歯を見せて、セットになったチューブを惜しげもなく手渡した。
臨床研究できっちりと成果を上げる人間というのは、ひとつひとつのプロセスにぬかりがないのだな、と西成は感心した。
けれどもそれだけではない。善人を絵に描いたような金井は、たしかに医者の貫禄というものがまるでないのだ。むしろ医者らしい振る舞いすら、金井には無用の長物に思えた。
それにもまして、苦労して集めたサンプルを手放すことを、事情を尋ねることもなく了承したことが西成には不思議でならなかった。
西成は金井という人物に、えもいわれぬ興味が湧いていた。
★
ほどなくして裁判が開かれた。
傍聴席には原告側の家族、つまり妻と子供たちだけが座っていた。彼らは原告ではなかった。見舞いにすら来なかった患者の兄が起こした裁判だったので、場の雰囲気は緊張感に満ちている。医者を屈服させようという強気な姿勢がありありと見て取れた。
森山と西成は被告側の席に座り、対面に視線を送る。原告側の弁護士は石渡という名で、西成と同年代に見える。おもに医療訴訟を扱う弁護士で、このような案件を多く手掛けているようだった。その自信満々の態度から、彼が勝訴を確信していることがうかがえた。
提出したサンプルのビタミンB1濃度の分析結果は、検査センターから裁判所に送られることになっていた。現在、未開封の状態で裁判官がそれを保管している。
森山は囁き声で西成に尋ねる。
「西成先生、サンプルの分析結果はご存知ないんですよね」
「はい、この場で科学的にビタミンB1欠乏がなかったことを証明できれば、裁判官が無罪を言い渡し、先生がこれ以上罪を問われることはありません。私が録音したボイスレコーダーも証拠品として提出してありますので、サンプルの質については問題にならないでしょう」
「けれど、もし結果が――」
森山は続きを口にするのをためらったが、西成は察してみずから言葉をつなぐ。
「その場合は、非を認めざるを得ません。しかし、判例では必ず敗訴する事例について、科学的に真実を問いただして判断を求めるというのは、なかなかできることではありません」
西成はけっして病院の職員を贔屓しているわけではなく、真相を追求しているだけである。そこには虚偽や邪念などが混じることのない、純粋な探究心のみが存在していた。
裁判は厳かに開始され、被告人への人定質問、検察官による起訴状朗読、そして黙秘権の告知が滞りなく進む。
森山にとっては、自身の非を詳細に書き連ねた起訴状などどうでも良かった。落ち度は認めるが、この裁判で最終的に無罪と判断されればそれで良いのだ。
罪状認否といわれる被告人と弁護人の陳述の時間となり、森山は裁判官に発言を求められる。
「あなたは高カロリー輸液投与に際し、ビタミン剤の併用が必須だという認識はあったと思うのですが、これを失念したことについてどのように受け止めているのか、説明してください」
向かいの席から突き刺される視線をものともせず、森山は堂々と自身の非について述べた。
「はい、高カロリー輸液にビタミンB1を添加しなければならないことは、医学生でも知っている初歩的なものです。その点はインシデントケースであったことを認めます。しかし医療過誤が患者の健康被害に直結したのかどうか――つまりアクシデントケースであったのかどうか――それは明らかではありません。ですから私は科学的根拠を持たずして自身が裁かれることに、大きな矛盾を感じています」
実施するべき処方を失念したというミスは、書類への記載漏れというミスと同程度で起こり得る。しかし、それが医療の現場で起きたのであれば、あたかも犯罪のように扱われ、時には裁判にまで発展してしまう。
医療が担うリスクという脅威に、会場の空気が不安定に揺れた。だが原告にとって、それは医療サイドの事情に過ぎない。患者の兄は声を荒げた。
「なんだと、あんたはミスするのが当たり前って言っているのか、この無能な医者が!」
審理がまだ始まっていないにもかかわらず、患者の兄は感情に任せて罵声を浴びせた。森山は裁判官が秩序を律する前に反論を仕掛ける。
「では、命がかかっていなければミスをしても許されるとでも言うのですか。あなたはそうやって生きてきたんですね」
「貴様……ッ!」
法廷はまさに一触即発の雰囲気となった。原告は拳を握りしめ、いまにも殴りかかりそうな鬼の形相をしている。
森山もまた、きわめて挑発的な態度だった。どんなに心象が悪かろうが、それは裁判の行方とは別問題だからだ。勝気な森山は被告の立場でも臆することはなかった。
険悪な雰囲気を察した裁判官が、「静粛に。裁判を進めます」と一喝し、証拠調べを開始する。
森山が西成を一瞥すると、西成は岩のように堅固に構えていた。自信が溢れているようにも見えたし、虚空な雰囲気とも受け取れた。信頼したいと思うが、沸き立つ不安はまるで拭えなかった。
「それでは原告の代理人である石渡弁護士に、被告の非を示す証拠を提示していただきましょう」
「はっ。高カロリー輸液の添付文書には、1日あたり3 mg程度のビタミンB1を補充しなければならないと記載されています。しかし開示されたカルテの点滴オーダーによりますと、ビタミンB1製剤が投与された形跡はなく、その期間は一か月におよびました。これは明らかな医療過誤といえます」
石渡は自信満々に独り舞台の主役の座を続ける。
「高カロリー輸液使用中はエネルギー代謝のためにビタミンB1を多量に消費します。その消費量は、1000キロカロリーあたり0.45 mgと報告されています。体内にどの程度のビタミンB1が残存していたかは明らかではありません。ですが一か月という期間を考えれば、担当医であった森山医師は患者にビタミンB1の投与を怠り、患者をビタミンB1欠乏症による重篤な代謝性アシドーシスに陥らせ、死に至らしめたと考えるのが妥当と思われます」
歯に衣着せぬ、殺人者扱いだ。森山は奥歯を割れんばかりに噛みしめる。石渡はどっと深く椅子に腰を下ろし、かすかに口元を緩めた。裁判官は続ける。
「では次に、被告の代理人である西成弁護士に意見をうかがいましょう」
西成がゆったりと立ち上がる。森山のひたいには西成に託す願いを示すかのような、大粒の汗が噴き出ていた。
「裁判官、今、石渡弁護士は『患者をビタミンB1欠乏症による重篤な代謝性アシドーシスに陥らせ』とおっしゃいました。しかし、ほんとうにビタミンB1が欠乏していたのでしょうか」
西成は厳かに述べて着席する。すると原告側の弁護士である石渡がすかさず立ち上がる。
「判例では物証などなくてもビタミンB1欠乏症に陥っていたと類推されます。必要な処置がなされていなかったのですから、この医療過誤を認めなければ法廷に正義などありえません!」
石渡の熱弁は反論すら許さないという雰囲気だった。しかし、裁判長は一息ついてから思慮深く口を開く。
「じつは、被告側から物証が提出されています。研究のために週二回の血液サンプルが保存されていたのです。患者が死亡する直前までです」
「なんですと!」
原告側の席には驚きと疑念が混ざり合った複雑な表情が広がった。
「そのサンプルにどれだけの信頼性があるというのですか!」
西成は挙手をし、「西成弁護士、どうぞ」という裁判官の合図でふたたび立ち上がった。
裁判官が石渡を制すると、石渡はしぶしぶと席に着いた。
「その点につきましてはご安心ください。サンプルの存在を知った時点で、私がみずから手を加えない状態で検査センターに提出をいたしました。一緒に提出したボイスレコーダーが信頼に足る証拠になると思います」
しかし石渡の疑念が払拭されることはない。無論、西成もそれを想定していた。西成はさらに続ける。
「そう思いましたので、サンプルを提供して下さった金井先生に証人として来ていただきました。裁判長、呼んでもよろしいでしょうか」
――金井が、ここにくるだと!?
森山は自身が承知していない、ふたりの間の打ち合わせがあったことにぞっとした。森山はライバルである金井には医療過誤を起こした事実を心底、知られたくなかった。西成が金井からサンプルを拝借した時、分析結果の信頼性を保証するために用途は伝えないと言っていた。そのことに安堵したのに、西成はサンプルを提出した後、金井にサンプル分析の理由を話していたのだ。
すかさず西成を睨みつける森山。しかし西成はいたって冷静なままだ。
「西成弁護士、ではその証人をお呼びしていただけますかな」
「はい、それでは金井先生に入廷していただきましょう」
西成が手を挙げ合図をすると、裁判員のひとりが法廷の扉を開く。重厚な軋音が静寂をまとう法廷に響き、皆は固唾を飲んで見守る。
すると、場の雰囲気にそぐわないカジュアルな服装の青年が、軽やかな足取りで法廷に踏み込んできた。
裁判官、西成、そして原告側のふたりに会釈をすると、裁判官に促され証言台に向かった。
そして、証言台に立ち傍聴席に目を向けた。その瞬間、金井の表情が明るくなった。傍聴席を指さして無邪気な声をあげる。
「あーっ、おっちゃんの奥さんですね。はじめまして、僕、金井といいます。直接お会いしたことはありませんが、写真で見せていただいたので覚えています」
ぺこりと軽く頭を垂れる。まるで患者さんと生前、たいそう親しかったような口ぶりだ。
「奥さんが料理の研究で本を出版してマスコミに取り上げられた時、おっちゃんは『器量よしの妻で、いくらなんでも俺にはもったいない』って照れながら言っていたんですよ!」
森山は露骨に眉根を寄せた。ここは人間が人間を裁く場、法廷であるということに気づいていないのだろうか、いや、そんなはずはないのになぜ、と疑問が沸く。
それにもまして、担当医の森山が知りもしない家族の情報を、金井が知っていることが癪でならない。
しかし傍聴席に佇む女性は目を潤ませ打ち震えていた。表情がみるみる崩れ、ついには目頭を押さえて顔を伏せた。
森山の心中をよそに金井は続ける。
「息子さんはサッカーが上手で、国立競技場で試合をしたんですよね。将来はJリーグだと言い張っていましたよ! それから娘さんは学校の成績がトップクラスだから、将来は医者か弁護士になるはずだって嬉しそうでしたよ!」
母の右隣の青年と左隣の少女もまた驚きの表情を浮かべていた。
「おっちゃんから聞いたことはきりがないんですけど、全部家族の自慢話でしたね。なんかいい家族だなぁってほっこりしました」
金井は彼が言うところの「おっちゃん」が話していた家族と対面できて嬉しかったのか、場違いの笑顔を遺族に向けていた。
裁判長が牽制の咳払いをし、法廷を本来の姿に戻そうとする。
「それでは証人は、無駄話はそこまでにして――」
「無駄話じゃないですよ、裁判長。患者さんの言葉を正直に伝えることのなにが悪いんですか!」
金井はこともあろうに裁判長に言い返した。森山は、これ以上心証を悪くしてくれるなと心の中で怒りの叫びをあげていた。
西成は森山の血走る目に気づいて小声で伝える。
「金井先生に証人になっていただくには、ちゃんと話しておくことが誠意だと思いました。ただでさえ大切な研究のサンプルを提供してくださったのですから」
正論で説き伏されては反論できる余地がない。森山は納得せざるを得なかった。
裁判長は金井に質問を続ける。
「では、あなたは、提出したサンプルになんの操作も加えていないことを誓いますか」
「はい、誓います、っていうか、当然です。僕が言えることといったら、『取っておいたサンプルは西成弁護士と一緒に検査センターに提出しました』と、『おっちゃんは家族が大好きで、採血する時に、しょっちゅう僕に自慢話をしていました』です」
にっこりと笑い、八重歯の口元を傍聴席に向かってみせた。
その時初めて、森山は気づかされた。金井は採血をしながら、主治医である森山すら知らない話を傾聴し、しっかりと記憶していた。だから金井がみずから採血をするのは、研究のサンプル収集であると同時に、患者とコミュニケーションを取るための貴重な時間でもあった。
金井が患者の血を吸う理由は、研究のためだけではなく、孤独な患者に寄り添う意味もあったのだと。
――俺はそんな気遣いを、一度でも考えたことがあっただろうか。
しかし原告である患者の兄は表情を険しくし、怒鳴りつけるように主張する。
「弟はそんなに口数の多い人間じゃない! 今のは印象操作の作り話だ!」
「静粛に!」
裁判長は原告を諌め、脱線した議論を元に戻す。
「では証人の金井さん、あなたは担当医ではありませんでしたが、研究対象としていた患者に医療過誤があったことに気づきましたか?」
すると金井は一瞬だけ逡巡し、不可解なことを口にした。
「うーん、その点はまだ黙秘権を行使させていただきたいです。でも、おこなわれた医療が正しかったかどうかは、サンプルの分析結果を見ればわかることです。でも、その結果を説明できるのはたぶん――僕だけです」
法廷は金井の怪しげな言動にざわついた。そして金井の言葉を戯言とみなすのは原告側の人間だけではなかった。眉根を寄せる森山も疑念に駆られたひとりだ。
「では、話を進めましょう。金井さんが提出されたサンプルのビタミンB1濃度の測定結果を開示したいと思います」
「僕もぜひ、結果を知りたいです」
金井は奇妙なほどに目を輝かせている。
「西成弁護士も、よろしいですね」
「はい、この分析結果によって真実を明らかにしていただきたい次第です」
裁判員のひとりが白茶色の封筒を掲げる。
「それでは開封します」
裁判員が用意されたペーパーナイフで慎重に封を切る。中にはA5サイズの検査結果報告書が八枚入っていた。
結果報告書は日付順に並べられている。サンプル採取は週に二回実施され、問題となった高カロリー輸液を開始した直後から死亡する三日前までの期間であった。
検査センターによると、ビタミンB1の基準値は20から80 ng/mLに設定されている。
裁判員が検査結果の数値を読み上げる。
「〇月〇日、1回目の採血、濃度は34 ng/mLです」
森山はぐっと奥歯を噛み締めた。正常値とはいえベースラインで低目だったことは大きな懸念である。裁判員は結果報告を続ける。
「〇月〇日、二回目の採血、濃度は30 ng/mLです」
「〇月〇日、三回目の採血、濃度は26 ng/mLです」
徐々に下がる数値に、森山は心臓が掴み取られるような恐怖を覚えた。数値が基準値を割ることがあれば、客観的にビタミンB1の欠乏があったと判断されるに違いない。
「〇月〇日、四回目の採血、濃度は23 ng/mLです」
「〇月〇日、五回目の採血、濃度は21 ng/mLです」
じわりじわりと目の前に迫りくる崖の縁が、自身を吸い込んでいるように思えた。
基準値の下限が目前に迫った時、森山は向かいに居座る石渡が口角を上げたことに気づいた。原告だけでなく、弁護士同士の戦いの場でもあるのだと見せつけているようでもあった。
縋るように西成に目を向けるが、当の本人は微動だにしない。一時は頭が切れる男かと思ったが、すでに諦めているのだろう、とんだ見込み違いだったと絶望に瀕する。
ところが、裁判員の次の言葉は、法廷の雰囲気をがらりと変えた。
「〇月〇日、六回目の採血、濃度は――あれ? 29 ng/mLです」
「そっ、そんな馬鹿なことがあるものか!」
石渡は立ち上がり喚声をあげた。
「いえ、間違いではありません。その後は――〇月〇日、七回目の採血では濃度は36 ng/mLです。最後の八回目では、45 ng/mLまで上昇しています!」
法廷がざわめき立ち、森山自身も驚きを隠せない。検査結果は自分を救うものであったが、どうしてそのような結果になったのか、まったく心当たりがなかったのだ。
西成はすかさず挙手し、結果の解釈に釘を刺す。
「では、この結果をもってすれば、ビタミンB1の欠乏は経過を通じて認められなかったことになりますね」
しかし石渡はやすやすと引き下がらない。すかさず反論する。
「裁判長、これは明らかに虚偽の結果です。診療録を隅から隅まで確認しましたが、この間、食事は止められていましたし、ビタミン剤の補充もありません。ビタミンB1の数値が上昇する理由などどこにもありませんから、サンプルになんらかの手が加えられたとしか考えられません!」
裁判長は結果と患者状況の乖離に困惑している様子だ。
「では、金井さんにお尋ねしますが、このような矛盾した結果となった理由について心当たりはございますか?」
原告側は明らかに疑念の目で金井を見ていた。しかし、金井は表情に湿り気を浮かべ、思い出すようにこう言う。
「……これから話すことは、ほんとうはおっちゃんとの約束で、誰にも言わないつもりだったことです。だから、黙秘権を行使したかったんです。でも、僕はおっちゃんとの約束よりも、僕の友人を守ることを選びます。
おっちゃん、どうか僕を許してください――」
金井はおもむろに矛盾した結果の真実を語りはじめた。
★
「おっちゃんは、いつも無口な人でした。どこか思い詰めているようで、たぶん自分の死期を悟っていたのだと思います。
でも、研究協力のお願いをさせていただいたところ、二つ返事で承諾してくださいました。
週二回、おっちゃんは僕が訪れるとなにも言わずに腕を差し出します。僕はその腕に針を刺し、血をもらいました。診療で必要な採血と合わせて取りますから、毎回、50ccくらいはいただくのです。
結構な時間がかかるので、その間、僕はおっちゃんにいろいろな話を持ちかけました。趣味や仕事のことなどです。
さすがに食事がのどを通らない人に食べ物のことを尋ねるのは酷だと思い、やめましたが。
おっちゃんは、なんでも深くは話したがらない人でした。けれども唯一、顔をほころばせたのはおっちゃん自身の家族の話でした。
僕はおっちゃんから血をもらう間、話の聞き役となりました。おっちゃんは家族のことを誇りに思っていて、誰かに話したかったようなのです。
きっと、僕は初めての聞き役だったのだと思いました。
ある日、おっちゃんは言いました。妻が栄養剤を病院に持ってきたのだと。皆様もコマーシャルでご存じの『アルゲニーノV』です。
おっちゃんの奥さんの言い分は、「せっかく森山先生に手術してもらって飲み物を摂れるようになったんだから、しっかり栄養をつけましょうよ」ということらしいです。
おっちゃんは困惑して言いました。少しでも体にいいものを、という妻の気遣いは嬉しいのだけれど、どうしたものかと。森山先生に尋ねると、余計なものはやめておきなさいと一蹴されそうだからという理由で躊躇していました。
ですから、おっちゃんは担当医ではない僕にそれを飲んでも良いかと許可を求めたのです。
僕は森山に黙って、栄養剤を飲むことを許可しました。そして、このことは森山には隠しておこうと思いました」
診療録には家族が持ち込んだ飲み物の種類や摂取状況まで記録されているわけではない。石渡は慌てて手元の分厚い資料を確認するが、看護記録に「家族が持ってきた飲み物を口にしていた」とちらと書かれていただけだった。
金井は淡々と続ける。
「じつは一本のアルゲニーノVには、5 mgのビタミンB1が含まれているのです。おっちゃんはこの飲み物を、長く生きてほしいという奥さんの願いなのだと受け取ったようで、律儀に毎日ちゃんと飲んでいました。森山先生に手術してもらったから、これを飲めるようになったのだと、細長い小瓶を眺めながら、少しだけ嬉しそうに。
ですから最期までおっちゃんのことを大切に思っていた奥さんも、気づかないうちに医療の手助けをしていたのです。
そして、僕は奥さんの想いを反故にしてまで、勧めた飲み物を医療用の薬剤に切り替える提案なんてできませんでした。
つまり、森山の医療過誤に気づきながら、あえて報告せず黙認していたのです」
金井は傍聴席に体を向けて深々と頭を下げる。森山は金井の謙虚すぎる態度に、空いた口がふさがらなかった。
「ご家族の方には、隠していてほんとうにすみませんでした」
しばらくの沈黙があった。塗り固められたような重い空気に、誰もが身じろぎひとつできなかった。
裁判長は、膠着した空気を振り払うように西成に意見を求める。
「西成弁護士、この証言については事前に打ち合わせをされていたと思うのですが、言い足すことはございますか」
西成はそっと腰を上げ、厳かに言葉を紡いでゆく。
「じつは今、金井先生が口にしなかったことがひとつありますので、私が補足いたします。
彼は原告を気遣い言わなかったのだと思いますが、ここは法廷ですので真実を明かしたいと思います。
金井先生の話では、患者さんは実のお兄さんに心底会いたがっていたようです。余命が残されていないことを直接、自分自身で打ち明けたかったそうですが、仕事が忙しいの一点張りで顔を見る機会がないのだと残念がっていました。
昔の思い出話がしたかったそうですが、そうしているうちに病状が悪化してしまったのです」
それは事前に金井が西成に伝えたことだが、金井はその言葉をうつむいたまま聞いていた。
「金井先生がそう言及しなかったのは、訴えた相手とはいえ遺族となった兄への、ささやかな気遣いだったのではないでしょうか」
患者の兄の表情はひどく歪み、幽霊を見たかのように青ざめていた。
彼の弁護士である石渡は、手中に収めていたはずの勝利が指の隙間からこぼれていったことに愕然としていた。
雌雄を決するという言い方をするならば、それは明らかだった。けれども、皆の意識を支配していたのは、どちらが是で、どちらが非かという明確な結論ではなかった。
闘病中の患者に目を向けることなく、死後に裁判という手段で医療に非を押し付けた患者の兄。
診療技術ばかりを追求するあまり、患者に寄り添うのを忘れ重大な見落としを起こした外科医。
医療過誤を恣意的に看過し、同僚を守るために患者との約束を反故にしたもうひとりの外科医。
医療従事者の非に付け込み、消えた命を利用して自身の名声にしようと画策した狡猾な弁護士。
そして登場人物の心理を俯瞰し、法廷をドラマの場に創り上げた、もうひとりの聡明な弁護士。
この法廷には最初から正義や悪など存在しない。
ただ、この場に集められたそれぞれに、強固な信念と小さな過ちが散りばめられていたのだ。
それが医療という現場で起きた事象であったため、法廷という厳粛な場で顕在化したのである。
西成は最後に締めくくる。
「これ以上、互いを苦しめ合うのは不毛なことです。我々がこれからすることは、患者さんのご冥福をお祈りし、自身を省みることでしょう。
今日の裁判は、そのためにおこなわれたものなのでしょうから――」
★
帰路につく三人は無言だった。
金井と西成の尽力が功を奏し、罪を被ることはなかった森山だが、それでもなお自分から頭を下げることははばかられた。
ただ、どうしても拭えない違和感については西成に尋ねてみたかった。
「あの、西成先生」
「はい、なんでしょうか森山先生」
西成は今日の裁判を忘れ去ったかのように、さらりと返事をする。
「西成先生はこんなに不利な裁判だっていうのに、最初から結果が見えていたような雰囲気でした。ほんとうに勝算はあったのですか?」
「ああ、勝算とは、ビタミンB1の血中濃度の結果を知っていたかということですか?」
「はい。明暗を分ける証拠といえばそれですから」
「そうですねぇ、知っていたと言えば知っていますが――」
「えっ!?」
しらじらしくも端正な顔のラインを撫でながら宙に視線を浮かせる。にやりと口元を緩めた。
「あなたはほんとうに優秀な同僚をお持ちだ」
視線を金井に移す。
「金井先生が分析されたんですよ、ビタミンB1の血中濃度を」
「まさか!」
森山は目を見開いて驚きをあらわにし、金井に視線を移す。
「サンプルは渡したんじゃなかったのか!?」
「うん。でも、サンプルは凍結と解凍を繰り返すと目的の物質が失活しちゃうかもしれないでしょ。だから、いつもいくつかに分けて保存しているんだ。渡したのはそのうちのワンセットだけだよ。僕たちの研究にはなんの支障もない」
「なんてことだ……でも測定の精度には自信あったのか?」
「まあね。高速液体クロマトグラフィーはしょっちゅう使っていたから。大学で何千サンプル分析したかわからないよ」
「お前、研究技術員に任せていなかったのかよ……」
森山は再三、驚かされた。ここまで研究者としての優れた資質と、愚直な努力を厭わない根性を見せつけられたのだから、さすがに負けを認めざるを得ない。肩が落ちるほどに脱力した。
西成はさも納得したようにうなずく。
「しかし、金井先生の分析精度の高さはほんとうに素晴らしいです。専門の検査機関との誤差がすべて五パーセント未満だったのですから」
「そうですか。……まったく、お前って奴はほんとうに呆れるな」
金井はほのかに照れたような笑みを浮かべて言う。
「でも良かった、友達を助けることができて」
森山はぎょっとした。そして同時に、金井が裁判中に自分のことを「僕の友人」と呼んでいたのを思い出す。森山自身、金井は目障りなライバルでしかなかったが、金井の寛容で真摯な性分に助けられたのだとあらためて思い知らされた。
森山の口からは、自分でも驚くような素直な言葉がもれた。
「……ほんとうに悪かった」
「ん、なにが?」
金井は今までの森山の態度など、すっかり記憶にないような顔でけろっと返事をする。
「いやさ……お前が俺の患者のサンプルを取っているのを悪く言ったことだよ。俺はそれで助けられたんだから頭が上がらない」
ほんとうは金井自身を全面否定していたことに対して謝るべきだが、そこまでは暴露できない自分自身が歯痒かった。
けれども、金井はそんな森山に向かってやわらかな笑顔で返事をした。
「じゃあさ、一緒にやろうよ」
「え? 一緒に、ってなにをだよ」
「そりゃあ臨床研究だよ。僕らが力を合わせれば、いろんな興味深い検証ができるはずなんだから」
医者の仕草とは思えない、茶目っ気のあるウインクを放つ金井。
「お前……この俺を、研究仲間に加えるってのかよ……」
「だって、もともと仲間じゃん」
あどけなさすぎる返事を聞いた森山は、柄にもなく打ち震える。
「俺……お前みたいに頭良くないし、続けられる根性もないかもしれないぞ。足引っ張るかもしれないんだぞ」
「いいじゃん、僕だってひとりじゃ限界があるから、きみみたいに頼れる臨床医がいれば心強いよ」
そう言ってにかっと白い歯を見せて満面の笑みを浮かべた金井は、無邪気な少年のようでもあり、手練の戦士のようでもあった。
森山もまた、ごく自然に一縷の不安もない笑顔を浮かべていた。なぜなら、こんなにも傍にいた仲間が、進めなかった未来への道しるべとなってくれたのだから。
森山は金井に向かって、みずから手を差し出して言う。
「俺はこんな意固地な奴だが、お前の能力は信頼できた。どうか、これからよろしくな」
けれども金井はにやりと口角をあげ、その手をぴしゃりと跳ねのけた。
「握手は研究成果が実ったらにしような。その約束、破らないでくれ」
「ひでえ、俺の商売道具の手を弾くとは、なんて忖度のない奴だ!」
「あはは、じゃあ手術代わってあげるからその間に勉強してなよ」
「なんだと! 俺は毎日、論文を三編は読んでやるからな。もちろん手術も渡さねえ。待ってやがれよ」
そんなふたりのやり取りを見て、西成は斜陽のような眩しさで笑った。
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