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西成弁護士の奇妙な事件診療録(第5話 ふたりの過去)


#創作大賞2024 #ミステリー小説部門

【目次とリンク】

第1話 神様と小さな天使
第2話 オーバーカム・ザ・バイアス

第3話 怪異の復讐劇
第4話 時を止めた研究者
第5話 ふたりの過去
最終話 銀鱗躍動 

西成はテーブルの上に広がった論文を視線で拾いながら話し続ける。

「それからというもの、森山先生と金井先生はともに協力して研究を進め、いくつかの論文を出版することができたんです。

金井先生は研究業績が認められ、米国のMDアンダーソン・キャンサーセンターのスタッフとして活躍されています。

もともと海の向こうに飛び立つつもりだったようですから、ポスト争いなんておくびにも考えてなかったんですよ」

「……それで森山先生は、この東山総合病院の外科部長に就任できたわけですね」

美談を耳にしたはずの前田だが、表情はますます険しくなってゆく。まるで導火線に点いた小さな火種が爆弾との距離を詰めているようでもあった。

西成はその不穏な空気を知ってか知らずか、論文を眺めながら悠長に語り続ける。

「ふたりの研究の最初の論文がこれですからね。いやぁ、彼らの研究を皮切りに、この施設でも臨床研究が盛んになりました。それに、一編の論文を仕上げるには最新の知見を取り入れますから、医療の質自体も良くなってくるんですよ。不思議なものですね」

その論文は筆頭著者がKazuhiko Moriyama、二番目がKeisuke Kanaiであった。しかも、タイトルページの下段にはふたりが研究において同等の貢献をした証である、「KM and HS contributed equally to this work」という一文が記されている。

西成はふたりのわだちでもあるその論文を手に取り、前田に手渡そうとする。しかし前田はうつむいたまま論文を受け取ることはなかった。声を震わせながら西成に言い返す。

「……西成先生は、そうやっていつも煙に巻くような方法で裁判を勝利しているんですね」

「ふむ、それはどういう意味なのかな、前田さん」

「先生にとっては、裁判で勝つことがすべてじゃないんですか?」

「そう思いますかね? 私は勝敗ではなく、人間・・を見ていただけですよ」

「じゃあ先生は、その患者さんの名前を覚えているんですか。今の話、患者さんの名前は一度たりとも出てこなかったですよね」

挑発的な質問に、西成は指先で眼鏡を押し上げて天井を仰いだ。わざとらしく間を置き、とぼけた態度で答える。

「ああ、覚えていますよ。確か――前田恒吉まえだつねよしさんとおっしゃいましたかね。その患者さんは」

そう答えた瞬間、前田は西成の論文を奪い取り、ぴしゃりと机の上に叩きつけた。保っていた表情は激しく崩れ、鬼夜叉のような憎悪に満ちた表情となった。

前田の口からは、烈火のごとき怨念が吐き出された。

「西成先生、あなたのせいでわたしの母がどれだけ苦労したか、わかっているんですかっ!」

前田の怒りは頂点に達していた。八年間、ずっと溜め込んできた怒りのすべてが爆発したのだ。前田の胸中には、西成に対する意趣遺恨が溢れていた。声を荒らげて西成に盾突く。

の兄は、あなたの仕掛けた騙し討ち・・・・のせいで負けたんです。あなたがいなければ、判例に従ってこの裁判は幕を下ろしたはずだったんです!」

前田は西成に刃のような視線を突きつける。まるで親のかたきを目にしたかのように。

「わたしの母は、受け取れるはずの賠償金を受け取れず、苦労して兄とわたしを育ててきたんです。自分の楽しみをすべて捨てて、休まず仕事ばかりしていました。わたしはその復讐をするために、あなたのいるこの東山総合病院に就職したんです!」

前田は西成の秘書となった時、すべてが思い通りに運んでいると確信していたのだ。

しかし、衝撃の真実を打ち明けた前田に対してさえ、西成は冷静な表情を崩すことがなかった。

いや、まるでそうなることを予見していた・・・・・・かのように、不自然なまでに粛然としているのだ。

西成はおもむろに腕時計を確認し、そっと口を開く。

「前田さん、お気持ちはわかりますが、お座りになって五分お待ちください」

この場の雰囲気にそぐわないほど落ち着いた口調だったことに、前田は身の毛がよだった。唇を噛み締め、これ以上、西成の思うように操られてはならないと警戒心を剥き出しにする。西成の行動の裏には、自分の知らないなにかがあると感じ取ったからだ。

――この冷静な対応は、わたしが激怒すると予測していたかのようだ。

荒ぶる胸中をなだめながら、西成の意図を汲み取ろうとする。

――だとすると、論文を見せたのは、わたしを怒らせるための意図があったのかもしれない。

その時前田は、ある仮説にたどり着いた。いや、たどり着いてしまった。

――もしそうならば、西成先生はわたしの素性を知っていたのではないだろうか。

そのひらめきが的を射ているのなら、西成は前田を裁判で負かした相手の身内と知った上で、あえて秘書に採用したということになるのだ。

重く沈んだ空気が診療部門特別相談室を覆い尽くす。

前田は狼狽の色を浮かべ、うつむいて時が訪れるのを待つしかなかった。

一秒ごとに刻まれる壁掛け時計の針の音が、この部屋の唯一の音となっていた。

悠久にも感じられる時が流れ去って、ようやっと診療部門特別相談室にノックの音が響き渡る。

「おや、誰かがきたようですね」

西成はしらじらしくも予定外のことが起きたかのように振る舞い、扉に歩み寄りノブに手をかける。

前田は開いた扉の先に佇む人物の姿を見た瞬間、驚いてまぶたを大きく開いた。

前田の瞳に映ったのは、西成の回想の中にいた登場人物のひとりである、亡くなった患者さんの妻――前田の母親である。

「お母さん――?」

「ご無沙汰しております、西成先生」

前田の母は西成に向かって深々と腰を折る。

「お気遣いなさらずに、どうぞお入りください」

「失礼いたします」

西成は手を差し出し、母をソファーに案内する。前田は予想しなかった来訪者の登場に、さらに混乱し理解が追いつかなくなった。

――なんで、お母さんが西成先生に会いに来ているの?

ただ、不自然なほどに息遣いの揃った挨拶に、ふたりは面識があるのだろうと容易に察しがついた。

絶句する前田に対して、母はにこやかな笑みを見せてこう言う。

「今日は、あなたに話さなければいけないことがあるの。西成先生にはほんとうにお世話になったのよ」

けれども前田は腑に落ちない。世話になったどころか、憎むべき相手に違いないのだから。ぶっきらぼうに西成を指で差して声をあげる。

「お母さん、この人のせいでわたしたちは裁判に負けたのよ。あの時、勝ってさえいれば、お母さんはそんなに苦労しなくても――」

「ちゃんと聞きなさい!」

母は前田を撃ち抜くような厳しい表情で一喝した。

「あなたはなにも知らなすぎるの。しっかりした社会人になるためにも、ちゃんと聞いてもらわないと困るのよ」

そう言う母の眼差しは、すべてを告げる決心を物語っていた。

「隣に座りなさい」

母は自分の隣のソファーを指さす。前田はわけがわからず、いわれたとおりにおずおずとソファーに腰を据えた。

「わたしたち家族が救われたのは、西成先生のおかげなのよ」

ローテーブルを挟んで西成と対面したが、前田は西成と向き合うことができないでいた。西成は前田の怒りのすべてを飲み込んでしまうような、寛容な眼差しで前田を見つめている。

母はおもむろに手土産の菓子を西成に差し出す。西成はにこやかに和菓子の包みを受け取った。ふたりの間には、落ち着きのある空気が流れていた。

「美穂……お父さんが亡くなった原因の胸膜中皮腫という病気はね、アスベストによって引き起こされるものなの」

「アスベスト……?」

アスベストは、かつて建築物の壁材として用いられ、その耐熱性や扱いやすさから、「奇跡の鉱物」と呼ばれていたものだ。しかし、さまざまな肺病の原因となることがわかり、建築に携わっていた作業者の健康被害が問題となった。

そのため、特定の肺病に罹患した患者がアスベストを扱う建築業に従事していたことを証明できれば、救済措置の申請をおこなうことができるのだ。

「裁判で負けて、わたしは路頭に迷っていたわ。お父さんの兄は、勝訴したら折半するから任せておけと意気込んでいたけれど、敗訴が確定してからというもの、二度と連絡してこなかった。お父さんの命と引き換えの賠償金が目当てだったって、よく理解できたわ」

母は当時の心情を思い出し、瞳を潤ませる。

「頼れる人がいなくなったわたしに、西成先生から連絡がきたの。わたしは電話で相手が誰かわかるやいなや拒否したわ。でも、手紙まで書いて送ってくださって……結局は根負けして手紙を開封したの」

前田が西成に目を向けると、西成は顔色ひとつ変えることなく静聴している。母は隠してきた真実を解いて伝える。

「西成先生の手紙の内容は、訴訟の原告側であるわたしのことを気遣うもので、意外に思えて驚いたわ。それに、西成先生は救済制度について詳しく説明してくださり、その対象になるかもしれないと提案してくれたの」

母から聞いたものの、にわかには信じられなかった。

――西成先生が、父の亡くなった後の、母の支えになっていたなんて!

「だからわたしは藁にもすがる思いで連絡をしたの。そうしたら、この『診療部門特別相談室』に案内されたわ。

西成先生はこの制度について懇切丁寧に教えてくださって、申請も手伝ってくださったの。石渡先生は、そんなことはひとことも教えて下さらなかったのにね」

母は前田を諭すように続ける。

「結局は救済制度の補償のおかげで、あなたを大学に進学させることができたの。

あなたが大学に進学したいと言っていたから、どうしても行かせてあげたかった。だから西成先生は神様のように見えたわ」

あっけにとられ、声が震える。

「ど……どうして……教えてくれなかったのよ……」

「それはね、お父さんの死後、あなたが弁護士になりたいと言い出したからなのよ。わたしはすぐに気づいたわ。美穂は西成先生に報復したいと思っているのだと」

学生時代、勉強をおろそかにしがちな娘が、父の死をきっかけに真剣に取り組むようになった。その変化に、母は娘の心中を察していたのだ。

だから前田が弁護士を目指さず、東山総合病院の就職試験を受けると言い出した時、母は前田が西成の居場所に気づいたのだとすぐに察した。そして西成に連絡を取った。

母は柔和な笑顔で続ける。

「もちろん、わたしは西成先生への誤解を解くため、あなたにすべてを話そうと思ったのよ。でも、西成先生はこんなふうにわたしを諭したの。

『もしも美穂さんに弁護士を目指す志があるのでしたら、けっして伝えるべきではないでしょう。なぜなら司法試験の合格率はたった二割台でしかありません。善かれ悪かれ、強い動機付けがなければ合格できるだけの実力をつけることができませんから』――って」

「じゃ……じゃあ……」

前田は西成を親のかたきとして憎み、岐路を己の意思で選んでいたはずだった。それなのに、すべてが西成の手のひらの上で踊らされていたことだと知り愕然とした。おずおずと西成に目を向けると、憎らしいほど涼やかな表情をしていた。

――今までだってそうだった。西成先生は、呼吸をするくらい軽やかに、医療従事者を泥沼の危機から救い上げていた。

――裁判で争う相手の身内に手を差し伸べるなんて考えられないことだけど、西成先生ならばそうしてもおかしくない。

西成が論文を見せて過去の裁判について語り、前田を煽ったのはすべて、真実を語るための布石だったことにようやっと気づいた。

前田は床に頭を叩きつけられたような衝撃に全身を震わせる。西成仁という男は、いともたやすく人間の心理を手玉に取る、悪魔じみた狡猾な弁護士であった。

――ううっ、わたしは……わたしは、今までなんのためにッ!

思い起こせば採用試験の際、西成は審査員のひとりとして前田と向き合った。それが憎むべき相手との再会であった。前田は西成に対して反抗的な視線を突き刺してみせたが、西成は不思議と寛容な笑みを浮かべていた。真実を知り得た今ではその笑みの意味が明確に理解できた。

母は西成と穏やかな世間話を交わした後、面会を終えることとなった。

「西成先生、つたない娘ですが、おかげさまで努力することを覚えたようです。どうか、今後もよろしくお願い申し上げます」

「はい、私のほうこそ、よろしくお願いします。前田さんにはいつも助けられていますから」

それからというもの、西成がみずから口を開くことはなかった。むしろ前田からの言葉を待っているような雰囲気があった。

前田は察し、長い沈黙を経てぽつりと口を開く。

「……西成先生は、わたしが報復を企ててあなたの下に就いたのを知っていたんですね」

西成はとぼけたような口調で答える。

「ふうむ、まぁ、私は採用においては、仕事に対する真摯さとモチベーションの高さを重視しますから」

西成の言うモチベーションが、自身への復讐を意味するものだと前田は察した。知っていた、という肯定の意味に思えた。

「西成先生、わたしが調べたところ、あなたは過去に裁判で負けを喫したことが一度たりともありません」

「たしかに敗訴したことはありませんが、なにかおかしいでしょうか」

西成は不思議そうな顔を前田に向ける。なにを言いたいか察しているからこそ、そんな素知らぬ演技をするのは西成の常套手段だと、前田は重々承知している。

「ええ、おかしいです。そんなのは証拠の捏造でもしないと無理だと思いました。ですからわたしは不正行為を見つけ出し、あなたを日本弁護士連合会に提訴しようと考えていました」

「残念ながら、その目論見は外れたようですね。なにせ私は不正行為とは無縁ですから。その点は一緒に仕事をして納得しているのでしょう?」

西成に瞳を覗き込まれると、心の内を見透かされているような気がしてしまう。降参の意思表示のように、うつむいて首を横に振る。

「正直、西成先生にはいつも感心させられてばかりでした。わたしでは敵うはずがないってこと、さんざん思い知らされました」

「けれど落胆することはありません。私だって、あなたに助けられたことは多々ありましたから」

「助けになりたいなんて思ったことは一度もありません。ただ仕事として尽力しただけです。

わたしはあなたに復讐できたのなら、退職して法科大学院に入学し、弁護士を目指そうと思っていたんです。

でも、ひとり相撲だと思い知らされたわたしにはもう、頑張るための理由がなくなりました」

社会人となった理由のひとつは、大学院入学のための資金稼ぎだった。しかし、もはや弁護士を目指す動機も気力も失われてしまった。お門違いの目論見を明かしてしまった以上、この東山総合病院で勤務を続けることなどできるはずがない。

前田が本心を露呈すると、西成は普段よりもなおさら穏やかな口調で尋ねる。

「それでは、一緒に仕事をしていて、私の采配はどう思いましたかね」

前田は一瞬、言葉を選ぼうとしたが、もはや気を遣う意味もないと考え直す。勇気を振り絞って西成を直視する。最後の反抗のつもりだった。

「西成先生はずるいです。だって、人間を知りすぎていますから」

前田の西成に対する印象に、西成はふっと小さく笑った。

「そうですよ、私も人間ですから。でも、なにをするにもひとりでは限界があります。運良く同僚や患者さんに助けられたこともありましたしね。それに――ゴホ、ゴホッ」

西成は話し途中に、急にむせこんだ。すかさずポケットからハンカチを取り出し、口を押さえる。

数回、咳込んだ後にハンカチをちらと見て、隠すように握りしめ、そそくさとスーツの内ポケットにしまい込んだ。

前田はその仕草にはっとなったが、西成は素知らぬ顔で続ける。

「世の中の医療は年々、複雑化しています。これから先、判例にはない、さまざまな問題が出てくることでしょう。

けれども、一般的な事故や訴訟を扱う弁護士には、医療にまつわる裁判を解決するだけの手段も糸口もないのです。

やはり医療現場の声を知る者こそが、人を救う真の解決に導くことができるのです。私はあなたにそういう人間になってほしい。そう、心から願っているのです」

銀縁眼鏡の奥に光る眼差しには、一縷いちるの曇りもなかった。

「この一年、あなたの活躍は素晴らしいものでした。ですから私はあなたならなれると思っているのです。

人間を救うための、本物の『医療弁護士』という存在に。

なにせ、私にはそうそう時間がないものですから――」

そう言って西成は、ふたたび軽い咳払いをした。西成の不穏な様子に前田は狼狽する。

「西成先生、先生はまさか――」

けれども西成は普段と変わらない笑顔を返す。

「ははっ、私は大丈夫ですよ。ただ、あなたに弁護士の資格を取ってほしいと思っているだけです」

その言葉に前田は思う。西成はどんな難問が目前に立ちはだかったとしても、けっして屈することはなかったことを。

――希望を捨てなければ、わたしにだって!

前田は決意を固めて西成に向き合い、こう言い切った。

「西成先生、わたしはあなたが卑怯な人間のはずだと決めつけていました。けれども、誰もが掴めないほどに先を見透かしていることが、妬ましくてなりません。

ですから、わたしはあなたを妬まなくてもいいように、自分のスタイルを見つけて、一人前の弁護士になってみせます。

これからもわたしのことを、どうか見守っていてください!」

すると西成はいつも通りの穏やかな、けれど重厚な質量の声で返事をした。

「人間という生き物の本質は、深海よりも深いものです。あなたが思うよりも、そして私が思うよりも、ずっと、ずっと――」

前田の心に情熱の火が灯った。

――できるだけ早く弁護士にならなくては。西成先生と肩を並べられる存在になってみせるんだ。

しかし、弁護士までの道のりは容易くはない。法学部を卒業しただけでは試験の受験資格はなく、二年間の法科大学院ロースクールに通う必要がある。

父を亡くした前田の家は、アスベスト被害の補償はあったものの、経済状況に余裕があるわけではない。社会人になってからの貯蓄も十分ではなく、法科大学院に通うほどの余裕はない。しかし、それでも仕事を続けながら弁護士を目指す道は残されていた。

それは、司法試験予備試験の合格を目指すことだ。

司法試験予備試験は年齢制限なく受験でき、これに受かりさえすればロースクールに通わなくとも司法試験の受験資格が得られる。

けれども、合格率はおよそ三パーセント、きわめて険しいルートである。

しかし、前田は西成のもとで働きながら、予備試験からの司法試験合格を目指していた。

――西成先生には、きっと時間が残されていないはず。

そう察した前田は今までにない真剣さで勉学に注力し、仕事以外の時間をすべて法の習得に費やした。

六法である憲法・刑法・民法・商法・刑事訴訟法・民事訴訟法、それに行政法を加えた基本七法はすべて暗記し、評判の参考書は読破し、過去問はすべて解き伏せた。

――西成先生の目の黒いうちに、絶対に合格してみせるんだ。

その決意は復讐よりもはるかに力強い原動力となっていた。

前田は西成の様子を注意深く見ていたが、具合の悪そうな様子は見られなかった。

――だけど、いつなにが起こるかわからない。

電子カルテをこっそり開こうと企んだ時もあったが、ロックがかかっていて閲覧できなかったことが、前田の不安をさらに煽っていた。

そして二年の歳月が流れた。

「西成先生、司法試験に合格しました!」

前田はかつての自分では想像できないほどの満面の笑顔で西成に結果を報告した。

「おお、よくやりましたね、前田さん。予備試験も本試験も一発合格とは恐れ入ります。これで、ついに私と同じ土俵に立つことができたのですね」

西成は心からの喜びを浮かべてうなずき、手を差し伸べた。しかし、前田の表情は一瞬で曇りを帯びた。

「西成先生、嘘をつかないでください。先生はわたしが先生と同じ土俵に上がれる人間だなんて思っていないはずです」

けれども、西成もたやすく同意するはずがない。

「伸びしろのある人間を評価できなくては、弁護士として務まるはずがありません。あなたの成長は、少なくとも当時の私よりも素晴らしいものです」

「先生、だけどわたしは……」

前田が言葉に詰まると、西成はその理由を察し、間髪入れずに口を開いた。

「理由はどうあれ、あなたは高いモチベーションでここまで頑張ってきたのです。その結果として、あなたは資格を手にしたのです。努力が実を結び、スタートラインに立ったことに変わりはありません」

スタートライン、それは前田がこれからしなければならないことを暗示していた。

弁護士になるためには、まず司法試験に合格し、その後一年間の司法修習を受け、最後に実施される「考試」に合格する必要がある。この司法修習は、いわゆる法曹の見習い期間であり、法を扱う専門機関での修習が求められる。弁護士として業務を請け負えるのは、その後からとなる。

「わたしはこれから一年、司法修習を受けてくるつもりです。考試には必ず合格し、この職場に戻ってきます。だから西成先生、絶対に待っていてください!」

前田は力説するが、西成は悪戯っぽい笑みを浮かべ、軽く受け流すような返事をする。

「ふふっ、私に待っていろというのですか。でも、その前に私があなたを司法修習に行かせると思いますか?」

前田は西成の否定的な言葉に瞠目した。

「西成先生、せっかく受かったんですよ! 先生がわたしの弁護士の道を閉ざすというのですか!」

「いやいや、誰もそうとは言っていませんよ。司法修習に行きたいのであれば、私の『卒業試験』に合格する必要があるということです」

――『卒業試験』ですって?

西成は立ち上がり、にスーツの上着を羽ばたくよう整え、悠々と前田の目前に立ちはだかった。

「明日、ここには厄介事が紛れ込んでくるようです。そこで前田さんの成長を見させてもらいます」

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