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個人的な過去のことからのしくじりと反省・後悔(第1章)

この投稿から。第1章から

そして以前書いた過去のことについてこれから書いていきます。
(以前書いたのですが、はてなブログは年明けしてまもなく閉鎖します)


小学時代のこと

詳しい内容を書くと個人情報がばれる場合があり、色々と文句が出たりする場合もありますので、ギリギリのラインで書きます。
(まあ、忘れてはいるとは思いますが。個人的に受けたりした感情です)

主なことを箇条書きで
 ・先生から、馬鹿者とか大馬鹿者と常に言われ毎週事あるごとに𠮟られ、怒鳴られることがあった。
 ・連帯責任が常にあり、失敗されない雰囲気が少し感じた。
 ・考えろ。そう言われ続け、教えることがあまりなかったように感じた。(家で教えなかったか。でも家では 学校で教えなかったのかと。それは中学でも同じことが起きました。)指示を与えることはなく自分で考えろと。
 ・また、私語が多く今すぐ出ていけ。か帰れとか注意しろとか、また悪いところを見つけろとか。(注意するため指摘する練習なのか・・・)
長所よりも短所を無くせ 完璧であれ。いいところよりも悪いところを見つけて直していく。それが社会で生き残るためと言う事だったのかもしれない。それが指導だと。
 ・忘れ物があった時、全員が持ってくるまで授業をさせない。忘れ物を家に取りに行かせて持ってきたらやる等(授業中に起きたことです)ちゃんと持ってきた生徒もいる中でも。
(忘れることはよくないけど、度を越えた指導も受けてきました。一応言いますが平成の話です)


 補足はしますがゆとり教育が始まった頃の時期です。
(これは後々別の章でも触れます)

 スパルタ教育のように感じられても仕方がない感じもありますが、学習指導要領もゆとり教育仕様で授業を受けております。また、総合的な学習の時間というものがあり、国語等基本的な学習よりもそっちのほうに傾いた感じもありました。

普通の勉強よりも総合的な学習の時間しか記録がない。

 常に𠮟られるか怒鳴られるか(教えている・気付かせると言われるかもしれませんが)の環境ですが、全ての先生がというわけではなく一部の先生です。その一部が当時の担任でしたが。 


 ただ、担任だけではなく、当時いた学年そのものが荒れていた感じもあったかなとも。荒れたといっても暴力とか頻繫にあったではなく、言葉には言い合わせない雰囲気や他人任せな感じ、別になんとでもいいだろとか。担任と生徒との壁。さらに、蟻のようにその人が行ったらじゃその道に進むという感じも特にありました。特に意見もないからと当然、差別も目立たない程度にあったり(そうしないとグループにという感じも今となっては思っています)学校を良くしょうと別にいいし。周り(その同級生だけで)が楽しければそれでいい。という感じも個人的には当時を振り返ってはありました。


 先生に怒られないように頑張ったおかげで真面目になった。

 周りが𠮟られるのを見て反面教師のようにやってきた。

𠮟られたのも 𠮟られるのも
全部自分が悪い

 でも、のちにトラウマになったり、無理し過ぎて合唱の際に声変わりの時期に声を壊して(その自分の声が嫌いです)話すの苦手なのに無理やり言い争いをした。無理やりといっても先生から活発な意見もないことで𠮟られることが多かったのでなぜか。責任あるポジションに真面目だからとかという理由でよく就かれたことも(もちろん、断れず)恐らく浮いた存在だったかもしれません。私がいたから𠮟られることがと思うことも。自傷行為もその頃からやり始めました。

前回の投稿から一部修正はしております。


ここからは余談にはなりますが

自傷行為について

その自傷行為について少し触れます。

その行為というのは、頭を叩く(殴る)壁にぶつける リストカットや傷を開く行為等様々な形はありますが、そうしたことはこちらからご覧ください

もちろん、こうした行為を否定されたり、やめろと𠮟ってその行為に責める言動をされがちだと思います。

大切にしろということも大切ですが

それらがきっかけで

さらに悪化させるリスクもあると思います。

 それと、そうしないとダメだ。忘れたいという感情のコントロールすらも壊されてしまっていることもあります。

小さいうちに気づいていくことも大切ですが、それすらもできずに

耐えることに最優先し、だれにも見られないところでやり続けて
それが日常になってしまったり、トラウマが蘇るたびにやっていたらどうなるか

厳しい態度で責め続けてしまうと取り返しのつかないことになる。

そして、大人になっても、生涯これらに向き合うことになる。


と思います。(今でもそれと戦っているので)

悪いことを消えろ!忘れろ!だからあなたは と言っている人ほど
言い方は厳しいけど、そういう人ほど理解されないと思います。

とはいえ、理解し話を聴いてくれる大人は果たしているのかどうか


ここからはnoteのみで書いていきます。

簡単にまとめると
・出ていけと怒鳴る。正座させるなどのスパルタ指導や馬鹿者と常々言われてきた。これは指導であり立派な大人になりたかったら耐えろと言う姿勢と思われていたのかもしれません。反逆の精神で、反骨精神ってそれを小学生にさせるのかな・・・
 宿題・道具を持ってこない奴がいるから授業はしない。連帯責任だ。正座しろ!のことです。
・考えろ!
確かに、考えることは大事です。
が、ヒントは出さない。それが社会だ。騙すこともあるから、ひっかけもあるぞと疑うことも叩き込んでいく。
怒号・𠮟責で考えろと言ったり、何かありませんがということを言う前にやれ!考えろ!(でも、やっても怒られる)
社会はこうだというスパルタ教育のようなことを当たり前のように
・失敗=迷惑をかけること ミスはみんなのミスだ。
・最強の小学生になる 最強の〇〇(学年)になると言われてきた
・部活はやるべき。どんな理由よりも
・長い時間 塾・クラブ活動よりも学級でのこと
休み返上は当たり前。夜遅くまで何かやることは当たり前でそれが社会に出ることだ。今しかないことを無理しても
・無関心と人任せ
・完璧な人間になること。それが普通であること。教えるレベルはそこだ。
中学にいけば、教えることはしない。進学校のようなことが当たり前だ。(塾を敵視していたのかはわからないけど、塾と学校は私たち当時はライバル関係はあったかもしれません。その空気だと)
それらは第3章の中学校のことにも通じます。


無理をしていたのかもしれません。
でも、耐えるしかなかったのです。
みんなの迷惑になっていたから別教室寸前までに進めて、都合が悪い人になっていた。完璧主義になれなかった責任もあります。
すいませんでした。

自分が悪い。そう責任を背負うことが当たり前。でも、それはすぐに社会に出てもいいくらいと思われていたのかどうか。
(恐らく、小学生が社会情勢ですぐ社会に出てもいい人材と思われているのかな。その時点で、小学生らしさとはなにか。それすらもわからないままです。今の小学生に教えるのも、話すのも私には資格はありません

先生に怒られるから。
大きな声で言われるから
耐えることが当たり前だ。
失敗したらという責任を背負うこと
(それを小学生がやるのかどうかは人それぞれですが。中学年から高学年となれば話は別だ!と思われているなら・・・耐えられなかった私が悪いです)

怒られるから無理をすること
耐えること
それが、今に耐えるきっかけと
心を壊す一つの出来事にも過ぎません。

今考えたら、後悔という言葉と
逃げたら と言ったら
その方の価値観・偏見で

でも、それ以上のことが中学にもつながってしまいます。
(ここでのことはまた別の章で触れるかもしれません)

それは第3章として

第2章はこちら

その前に第2章は先ほども触れた連帯責任について以前書いたことを改めて載せます。
(これははてなブログでは触れてはいませんが)

12/19 追記

こうした投稿はしばらく続きますのでお許しくださいませ。


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