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余情 28 〈小説〉

 リビングに通された私は、あなたの母親が勧めてくれたソファへと座った。
 部屋は落ち着かないほどものがなかった。テレビや音楽を聞く機器もなく、食卓用の足の長いテーブルと四脚の椅子があり、そのそばに私が座っているソファがあった。ソファは窓の方へ向いて置かれていて、窓の前には背の低い棚が一つ置かれていた。そこには、色とりどりの硝子瓶が並べられており、そのいくつかには何かが入っていた。色のついた瓶の中、栓をしっかりされた状態のそれは、液体ではなかった。
 私は思わずその棚の前へと体が傾いた。フローリングの冷たさがタイツ越しに感じられる。少し打ち付けるようにその前についた膝、その音に、あなたの母親は気付いただろう。それでも、声は掛けられなかった。私はそれを了解と受け取って瓶のひとつを手に取った。
 私が手に取ったのは、砂浜のような黄色が透き通った瓶。細い首、四角い底、瓶の硝子は思っていた以上に分厚いようで、私の手にずっしりと重たかった。中には、本当に砂のような、おそらく、あなたの骨が入っていた。
「お茶、ここへ置くわね」
 あなたの母親は穏やかに聞こえる声で、私に言った。あなたの骨を様々な色付き瓶に分けていれて並べてある、棚の上。ことりと白いシンプルなカップが置かれた。
 私は離れていくその指先を捕まえていた。あなたの母親の体を駆け上がっていった視線が、辿りついた目を見つめた。あなたの母親は、驚いた様子もなく、私の掴んだ手を見ていた。そして振り払わずに、そっと私の手を握り返した。驚いたのは、私の方だった。言葉がなかなか出てこず、私の口はぱくぱくと開いたり閉じたりをくり返していた。
「いいのよ。別に手をはなさなくったって。だから呼吸を乱さないで」
「は、い」
 あなたの母親は床に座り込んだ私の隣へと、同じように膝をついた。黒い髪の毛が、ふわりと揺れる。私を覗き込む目が、やはりあなたと似ていて、胸ぐらを掴まれたような、内側に広がった空洞を大きな振動が満たすような感覚が湧き上がった。私はこの人を、怖いと感じているような気がした。こんなにやさしそうに私を気遣うような人を。
 どうして。
「あなたが、あの子が言っていたお嬢さんでしょう?」
「はい」
「私のことを怒っているのよね」
 あなたの母親は、それはやさしく微笑みながら私を覗き込んだ。その目は、本当にあなたと似ていた。血の繋がりに、どうしたらいいのか分からなかった。混乱が、私の中で湧き上がっては、踊り狂っている感情に、さっさと舞台を開けろと怒鳴りつける。
「いいのよ。当たり前だと思う。あの子が私のことをどう言っていたのか、想像しかできないけれど、きっとあなたは私が許せないと思ったんじゃない?病室にはあまり顔を出さない。あの子といても暗い顔しか出来なかった。妹のほうがよっぽどあの子の支えになってくれていたわ。それなのにあの子が死んでしまったら、骨は墓にいれずに独占して、あの子を偲ぶ場所のひとつも設けない。まるでものすごく愛していたみたいよね」
「愛されていましたよ」
 口にして、私の方が驚いていた。あなたの母親も、閉じられないでいる口をそのままに、私を見ていた。さっきまで止めどなく零れていた、罪状の読み上げのようなきれいな声が、もう一音も漏れては来ない。
「私は、あの人から一度もお母さんを否定する言葉を聞いたことはありません。いつも、あの人は心配していました。お母さんはきっと自分のそばに来ない方が、心が安らかで居られるのだろうけど、って。お母さんを苦しめているって、言うばかりで、そんな、嫌いだったとか、憎んでいるとか、聞いたことはありません」
 私はあなたの母親の目を覗き込みながら、あなたに向かって口を開いていることに気付いた。こんな風につよい気持ちで覗き込んだことが、どれくらいあっただろう。こんなに近く、あなたを見つめていたら、言わなくていいことをどこまでも並べてしまっただろう。
「病院で、あの人は寂しかったと思います。そんなふうに見えました。でも、それを不満に思ってはいませんでした。あの人は自分の気持ちを抑えて苦しんでいるだけではなかったと思います。少なくとも、私は、許せないなんて気持ちになったことはありません」
 あなただったら、なんて言葉を掛けるだろうか。それを考えることは無駄なことだと思った。あなたの言葉は、あなたが口にしてはじめて意味があるのだ。あなたの目が見つめて、あなたの喉が震えて言葉に成長するから、意味がそこに含まれる。だから私が口に出来る言葉は、私の言葉だけなのだ。目の前の、あなたとよく似た目を見つめながら、あなたのことを注ぎ込むことしか、私にはできない。
 色のついた瓶を片手に握りしめたまま、私はあなたの名前を呼んだ。胸内で血を流すような言葉にしてしまったことを、心から申し訳ないと思った。
 やわらかでうっすらと重なるような、外の光が床を照らしていた。私の体の小さな震えを拾って、瓶の中で流れるあなたの骨。その動きが、なぜだろう懐かしい気持ちにさせた。
「あの人は、どこまでもやさしいひとで、それが私も寂しかったです。あの人は、お母さんに本当に似ていると思います。目が」
「目?」
「あの人を見ているみたいな、気がするくらい、似ていると思います」
 私の言葉に、あなたの母親は笑った。それは年齢を透明にしてしまうような、様々な年齢の母親として生きた時間が重なった、不思議な笑顔だった。
 その笑顔はあなたが笑った顔とは、あまり似ていなかった。

 
 あなたのお母さんと思いがけず出会って数日後、あなたのおばさんから電話がかかってきた。彼女の声は驚いていて、それは私があなたのお母さんの家に行ったこともだけど、あなたのお母さんがあなたの遺骨を庭に撒いたことに対して驚いていたからだった。
「姉さんに何か言われたりしなかった?」
 それは言葉を換えているだけで、私に「姉さんに何を言ったの?」と聞いているのだと分かった。私は携帯電話を一度耳から離し、そっと息を吐いた。感情の持っていき場所に困っていた。私の内側は自分が思っているよりずっと狭い空間しか空いていないのだ。嵐を防ぐためと言うよりも、私から嵐を隠そうとするような荷物たち。
 耳に思ったより強く携帯を押しつけていたのか、まだそれほど話してはいないのに、戻したそこは少しじんと痺れていた。
「何も」
「そう。ごめんなさいね。突然電話しちゃって。びっくりしてしまって」
「いえ」
「姉さんは、あの瓶が並んでいないと家に居られないんじゃないかと、私も義兄さんも思っていたから。だけど、たぶんこれで良かったのよね」
「よかった?」
「ええ」
「でも、お二人にとっての安心材料が失われてしまったんですよね」
 電話の向こうで彼女が息を呑み込むのが気配で伝わった。音としては拾われないそれが、一度分解されて私に届いたのだ。どうして私はそんなものを拾うようになったのか。不純物を抱えて、ますます荷物は増えていくというのに。不思議だった。
「だいじょうぶ。私も、義兄さんも、自分で向き合っていかなきゃいけない頃だと思う」
「どんな人ですか」
「うん?」
「お父さんは」
「ああ、義兄さんのこと」
「はい」
「会ったことはないのよね」
「病院ではお見かけしたことがなくて」
「そうね。義兄さんは、病院にはほとんど顔を見せない人だったから」
 口の大きさのままの空洞を吐き出して、彼女は言葉を探していた。
「義兄さんは、あの子がベッドに寝ている姿を見ることが怖いと言っていた。それは、義兄さんの家族が、義兄さん以外体は体が弱い人ばかりで、義兄さんの親戚は今ではほとんど居ないといっていたわ。両親とも早くに亡くしたって聞いた。義兄さんは、その血をあの子に流してしまったことを、ずっと後悔していたのだと思う。あの子が伏せる度に何度も謝っていたから。だから、姉さんとはまた違う追い詰められ方をしていたの。それはやっぱり、あの子が亡くなった今、言い訳にしかならないけれど。どうしてもあの子の病室に行くことが出来なかった。繊細なところは似ていたのかな」
 あなたは繊細だった。でもそれは、たしかなしなやかさが生む繊細さだ。だからあなたの父親のそれが、あなたと似ている部分なのかは分からなかった。もしそれが似たものであるのなら、父親もあなたのお母さんのように、それを拠り所とできるのかもしれない。たしかに血が繋がっているのだから。
 また、あなたのお母さんの目を思い出した。まるであなたがまだここに居るような気がしてしまう。あの目が私にもあったなら。暗い窓の外を思い浮かべながら、そんなことを想像した。
「よかったら、また寄ってみてあげて」
「はい」
 それじゃあ、と彼女からの電話を切って、私はそれを手の中から落とした。きっともうあの家には行かないだろう。
 あの日、私のお茶を入れ直したあなたのお母さんは、おもむろに庭に続く大きな窓を開き、色付きの瓶を次々に逆さまにしていったのだ。瓶の口から零れていく白い粉が、曇り空の下、きらきらと光となって消えていった。
 何本にも分けられていた瓶の中の骨を、全部撒いてしまうと、あなたのお母さんは数度肩を上下させるほど大きく呼吸を繰りかえした。
 倒れてしまうのではないかと背中を見守っていると、彼女はすっともとの姿勢にもどり、私の方へと向き合った。
 しっかりと目を合わせた私と彼女は、瞬きをくり返したあと、ふ、と笑い合った。そして私は彼女に帰ることを告げた。
 彼女は笑ったまま、寂しそうに顔を傾けた。そして来た時と同じように、あっさりと「さよなら」と言った。
 ベッドに体を投げ出して、カーテン越しの夜を私は見つめた。深く底を外した闇は、散りばめられた星を縫ってどこまでも暗い方へ流れていく。

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