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余情 19 〈小説〉

 
「私とは、本当は会いたくなかったんじゃない?」
 あなたのおばさんは、やわらかく本心を揺らした。お店の席に着き、注文も終わり、あとは料理が運ばれてくるまでの小さな手持ちぶさたな時間が残されたテーブルの上。水が回っている。光が細かな不純物を影にうつしこみ、まわりの喧騒は穏やかで、私はテーブルの木目を眺めていた。
光の広がる店内は概ね埋まっており、背もたれの繊細な細工や、いくつか設けられたソファで組まれた低めのテーブル席が、店内をゆったりと落ち着ける空間として形作っていた。
「そうですね。そうかも、しれません」
「あら、素直」
 彼女は、驚いたように目を少し大袈裟に開いて見せた。その様子には少しも不快な空気は織りこまれていない。私はそれを確認して
「私、猫を被っていたわけじゃありません。ただ、本当に話をしたいと思っただけです。だから、気遣いや嘘は省こうと思いました」
「うん。そのほうが私も嬉しい」
 彼女は頬杖をついて、そっと顎をおいた。これから仲のいい友人に打ち明け話をしようという顔に、私も彼女の顔に少し近付く。
「どうして、会いたいなんて言い出したんですか」
 彼女は口端にくぼみをつくるように笑った。うすく塗られた口紅に、彼女の心が地平線を覗いていることが感じられた。そこには晴れやかな、今日のような空が広がっているのかもしれない。
 私は水を一口飲んで、また彼女に顔を近づけた。
「あの本を頂いたこと、別れの時間をとってもらったこと、とても感謝しています。ただ、私と会ってもそちらに何か得になることがあるとは思えないので」
「また正直ね。たしかに、あなたが思いつくような得はないかもしれない。得、という考えがプラスという言葉に置き換えられても、やっぱりあまり思い浮かばないかもね」
 彼女は、自分の言葉に何度か頷き、それでも、と目が言葉の枝葉を接いだ。
「私は、あなたよりずっと年上だけど、あなたとは同じ出来事で傷ついた痕がある。それは同じ病気を励まし合った、とか、同じ苦手を克服しようとか、そんな関係を築ける可能性をもっているんじゃないかと思ったの」
 分かる?
 彼女の目は、本当に言葉をはっきり話す。そのことに驚いていた。私は彼女に向かって、二度ほどきっちりとした瞬きを返した。
「こんな考えは嫌いかしら」
「嫌い、とは思いません」
「よかった」
 目元が下がる。光に透けると透明がつよくなる彼女の髪は、肩先で切りそろえられ、まっすぐな首をきれいに彩っていた。あなたと似た肌の色に、まったく違う色は踊って、こうして、こんなところで血を巡らせて顕現することもある。こぼれそうになった気持ちがあった。それが、かなしい、なのか。手のひらで掬って、鼻先を近付けてみたけれど、そこから上る匂いは、少しも湿っぽくはなかった。どこか懐かしいと感じたけれど、全く知らない匂いのようでもあった。
 料理が運ばれてきて、テーブルを埋めていく。鮮やかな彩りが、楽しい気持ちを高めようとしてくれていた。友人同士や、恋人、家族でも、お互いに心地よく過ごしたい人間と訪れる場所特有の、決まり事のような配色だった。彼女が先にフォークを持った。青々としたサラダには、可愛らしく花も散っている。紫色と黄色のその小さな花びらを、いっしょに刺し貫いた彼女は、さっと口の中に放り込み、小さく「おいしい」と呟いた。私も同じようにサラダにフォークを刺した。水を多く含んだ音が、指先を湿らせる。私の刺したレタスには、紫色の花がくっついていた。口の中にかき消したそれは、やさしく私の内側に溶けていくのだろう。あなたのおばさんが嬉しそうに笑った。
「食事、ちゃんと摂れているって聞いて、安心したの」
「食べられませんでしたか」
「いいえ。姉さんは、―あの子の母親ね、一般的な法要は必要ないっていう方針だったから、今もあの子の骨は姉さんの家の戸棚にあるの。訪ねていく度に、そうやって会えるからか、なんだか気持ちが割とすぐに落ち着いたわ。命日から一週間後には手の込んだカレーを作って食べていたもの」
「納骨しないってことですか」
「そうみたい」
 圧倒的な日曜日の空気のなか、おおよそこの店内には不似合いの言葉を零しあいながら、私たちは食事をした。
 ぽっかりと空く沈黙には、互いの食べる姿をそっと見つめた。しっかりと噛み締めて、野菜も肉も花も、体に受け入れられている。その様子を見守った。そして目が合うと、たちまちに親しげな色が行き交った。
 不思議だと思う。
 勘定をすませたあなたのおばさんと、並んで店を出て、空を見上げた。夏の空は高い。色は濃く、なのに深さは感じない。立体的な雲を光が駆け巡っていた。
「また、食事をしましょう」
「私、お金はあんまりもっていないんです」
「奢ります」
「それは楽しくありません」
「なるほど」
 店のドアを開けながら、彼女は考えていた。短い階段を下りきって、彼女は声を漏らして笑った。
「じゃあ、今度からは飲み物とおやつを持ち寄って、どこかでおしゃべりをしましょう。カラオケでも、ファミレスでもいいし。とにかく、話ができて、喉が潤って、快適な場所。それならいいかしら」
 彼女は歩く時、小さく腕を振る。その振り子の様子を眺めながら、私も少しだけ腕を振ってみた。
車の鍵が開けられ、助手席へと滑り込む。熱の籠もった車内の空気を、窓を開けて放り出す。手で仰ぐ彼女をちらりと見て、私は言った。
「いいですよ」
 彼女はしっかりと私の返事を受け取って、うれしそうにクーラーの風量を上げた。
「約束ね」
 約束。
「そうですね」
 シートベルトを装着し、車は静かに滑り出した。
「母と連絡をとってもらうのはいいんですが、今度から、できたら私に直接連絡をもらえますか」
 今日の私の小さな鞄の中身。携帯を取り出して揺らす私に、彼女は、ふふふと笑った。
 
 
 夏休み。それはとても遠い存在だった。社会にでてからは、こんな広大な休みを与えられることはない。空白は大きいのに、それを埋める資金は少ない。学生の夏は、各々の鋭意工夫次第だった。
 あなたに会う前の夏休みは、もう思い出せなかった。その時々に、両親がどこかへ遊びに連れて行ってくれたことは覚えていても、その他の日常は新品のノートと同じだった。書かれていたとしても、薄いその文字は全く読めない。きっと暑くて、たぶん退屈だったのだろう。
あなたに出会ってからは、休みだけではなく、すべての日常があなたのことへ線を結んだ。何をしていても、結局はあなたに会うことをスムーズに叶えるための行動だった。勉強も、母の手伝いも、何もすることがない時間さえ、あなたのことを想っていた。
もしもあなたのそばにずっといられたなら。それを考えないことはなかった。夢をみる年頃だったけれど、けしてあなたの状況を軽く考えてはいなかった。だから、想像の中でさえも、私はあなたのそばにいるだけだった。病院の見慣れた壁紙に、触れる光のつよさがかわるだけの想像だった。あなたが、生きている間、私がそばにいられますように。それを言葉として形にすることはできなかったけれど。願っていた。あなたが、どうか少しでも長く生きることを。
 
 
 あなたのおばさんからメールが届くのは数日に一度、向こうの生活の忙しさや、話題の有無で、その頻度は月に一回のこともあった。
 文面だけを並べると、まるで文通をしているようだった。彼女は、自身の近況を置いてから私のことを訪ねるのだ。
『昨日は、最近では珍しく少し暑さがましでしたね。暑いのはしかたありませんが、冷房に当たりすぎないよう気をつけて。あの子は病院の空調があまり好きではありませんでしたね。夏はできるだけ設定温度を上げてもらうようにしていました。おかげで私は少し暑いくらいだったのですが、あなたは平気だった?あの子は窓から見える木々の色も、とても好きでした。緑色が好きだったのかしら。何が好きかを、あまり言わない子だったのだと、最近気がつきました。それはあの子のやさしさだったのでしょうね。おそらく好きを口にしたその時から、そうではないものを区別してしまうと考えていたのかもしれません。そういうところが、本当にあの子らしい。今度はアイスを食べに行きませんか?たくさん上に重ねていくやつです。私もあの子も食べたことがないので、是非あなたと行きたいです。あの子に自慢できるからね。』
 そしてそこにはいくつもあなたの思い出や、あなたを思い返しての気づきが書かれていた。実際に会うと、それほど話すことはないのに、文字にして送り合うとき、彼女はあなたをいくつも浮かび上がらせて、私に分けてくれようとした。
『こんにちは。私の部屋のエアコンは古いものなので、あまりききません。だから病院でもそんなに暑いと感じなかったのかもしれません。彼が、いつでもミルクみたいに冷たい色をしていたから、なんだか側にいるだけで涼やかな気持ちになっていたのかもしれません。彼は、甘い物をよく喜んでくれたけれど、あまり食べることはありませんでした。お見舞いにもらった物を、いっしょに食べてほしいといつもお菓子をお裾分けしてもらっていました。私のほうがいつもたくさん食べてしまって、それが少し恥ずかしく感じたこともありました。でも彼がいつも先に手を止めて、食べている私を見てにこにこしてくれていたから、結局渡された分を食べてしまっていました。私、彼に会ってからおやつの時間が習慣になってしまった気がします。アイス、いいですね。空いている日曜日をまた教えてください。』
 夏休みに入ると、平日の夕方に集まって花火をした。蚊に刺されたと悔しそうに笑いながら。小さな袋にすればいいのに、彼女は大きな家族向けの花火を買って来た。最後の方は二本三本を一度に手にして火をつけた。色が変っていく、吹き出す花火。終わる時のあっけなさが、何度見ても胸を焦がした。それは彼女も同じだったのか、終わってしまった花火を見る目は、いつもうっすらと潤んでいた。小さな蝋燭を挟んで、私たちは何度も花火に火をつけては、色を散らした。
 海に行こうと言いだして、夜のはじまりから深みまでを過ごしたこともあった。恋人同士が、手を握りしめ合って歩くような海ではなく、もっと寂れたようなところを探した。彼女に車を出してもらい、遠足のような気持で出かけていった。夜に聞く波の音は、大きくて、湿っていた。まっ暗な空に吸音されて、それは遠く遠くの星のあたりへ飛んで行ってしまう気がした。海のある星の、役目なのかもしれない。水を恋しがる星々に配る鼓動の音。
彼女は「こんなにさみしい場所じゃなかったら、私たち何をしているんだろ、って不思議に思われそうね」と言った。
 あなたとは、どこにも行ったことはなかった。いつでも病院の中で、二人の時間は完結していた。だから道を歩いていて、あなたを思い出すものなんて一つもない。あなたに結びつくものだって、殆どない。町中に溢れる人も、物も、イベントも、だから私にはあまり感心の向かないものだった。それなのに、彼女がいろんな話をするから、あなたがしてみたかったかもしれないこと、好きになったかもしれないもの、食べたかったかもしれないものを、私は知ってしまった。それは想像でしかなかったけれど、彼女が言葉にして伝えるあなたは、たしかにここに行ってみたかったかもしれないと思えた。あなたはあまり自分の欲求を口にしなかったけれど、病院の窓の方を見るあなたの目には、たしかに望みの影が揺れていた。声を掛けてしまえば、すぐにそれを打ち消してしまうくらいの、淡いものであったけれど。あなたの中にはたしかにいつでも何かを望む気持ちが生きていた。


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