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余情 26 〈小説〉

 冬という季節は、なんだか道幅がどんどんと狭められていくような感覚におちいる。この道の先には、簡易的な死が口を開けていて、私たちはそこへ無防備に落ちていく運命にある。そんな気持ちになるのだ。
 光が差し込むにはまだ遅く、隣に眠る後輩の寝息を耳元に流しながら、私はゆるく目を閉じた。
 泊まりにいくようになった去年の夏、後輩は私の為の布団を一式買い揃えた。要らないと言ったけれど、お客さん用に置いておけばいいものだと、立て板に水の滑らかさで説かれたのだ。
 いつでも来て、泊まっていけばいい。後輩はそう言った。彼女の母親もそれを了承していた。
 それでも最初にその布団を目にした時は、申し訳ない気持ちになった。出来たら全額を、せめて半分はお金を出したいと申し出た。しかし、後輩にも、彼女の母親にも、それは頑なに拒否された。
「これがあるからこなくちゃいけないとは思わないでほしいです」
 後輩はそう言った。これはあくまで後輩の家の来客用の布団なのだと。だから泊まる際はこれを使ってほしいし、気持ちが乗らなければ帰ることを選択したっていい。
「先輩にも、使わせてあげていると思ってください」
 後輩はそう言って笑った。
 そうして彼女の家に泊まる時はこの布団を使わせてもらうようになった。あっさりとしたオレンジ色の掛け布団と、同じ色の枕。白いシーツの掛けられた敷布団は、クッションがしっかり入っていて、ベッドに慣れている私でも違和感なく眠ることができた。
 そうやって後輩の部屋に泊まる夜、後輩は、はじめは自分のベッドで眠って居るのだが、電気を消しておしゃべりをしているうちに、こちらの布団の中へと潜り込んでくるようになった。
 夏くっついている肌の暑さに、早々にもとの場所に戻るように言っていたが、秋を過ぎた頃から、ちょうど暖がとれると考えるようになった。季節が秋から冬へ移るころには、後輩が自分の枕を持参で、言葉通り転がり込んでくるのを受け入れるのが当たり前になっていた。
 そうやってくり返してきたことも、寒い季節から脱却し、そのうち暖かい季節にはいったところで、私の言い訳は通じなくなっていた。
 熱帯夜。冷房を付けて眠っても、そばで体温が横たわることが、まったく不快ではないといえば嘘だった。それでも、私は後輩にベッドへ戻るようには言わなくなっていた。
「こんな狭い場所に眠って、ちゃんと眠れているの」
 そう聞いた私に、枕の上に髪の毛を好きに広げた彼女は、薄手の闇の向こうで頷いた。
「ここが一番よく眠れます」
 その言葉に、私は喉が詰まるような感覚を覚えた。誰の言葉で私の喉は詰まったのか。どんな言葉が私の喉に丸まってしまったのか。
 彼女に狭いと言っておきながら、私も彼女が隣に眠っているとき、一人の部屋で眠るよりも、すこし深く眠れているような気がしていたのだ。
 私は、後輩の部屋の窓から差し込む朝に、十年を遡った自分の部屋に慣れるよりも早く慣れていった。
小さな布団の上で、私と彼女はできるだけ自分達の体を触れさせないように眠った。お互いの息遣いだけが、薄暗闇のなかでぼんやりと灯り、髪の毛が流れる音や、シーツに残った温もりばかりが、くっきりと耳や肌に触れた。いつも私の方が先に目を覚まし、彼女を起こさずに夜を越えられたことを、そっと安堵した。
まだ明け切らない時間に目を覚ました時も、もう一度目を閉じて彼女の呼吸音を聞いているだけで朝に流れ着くことができた。
 いつから、こんなにも彼女の存在が大きくなってしまったのか。そんなことを考えることもあった。それを考えることは、なんとも不毛なことだった。それでも、ただの時間潰しだと頭に文字を進めると、それはすごい勢いで数を増やし、やがて私を小さな存在に押し込んでしまった。広大な思考の世界で、私はあまりにもあっけないものだった。彼女が私に示すあれもこれもが、とてもではないが私の手には負えないものだったのだ。
 何度同じ部屋で朝を迎えようと、彼女が私のそばで眠ることを願ってくれても、私と彼女はけして同じ朝にはいられないことが明白なのだ。
「先輩は早起きですね。私、休みの日はもうちょっと寝坊するタイプなんですけど」
「寝ていたらいいじゃない」
「いやですよ」
「どっちなのよ」
「先輩も、もっと惰眠を貪ったらいいじゃないですかって話です」
「十分寝たんだから、もっといいもの貪ったらいいじゃない」
「貪るものだから、いいものじゃだめなんです」
 寝間着からさっさと服に着替える私に、後輩は布団の中に潜り込んだまま話続ける。
「その服、この前買ったやつですね」
「そう」
「似合ってます」
「ありがとう」
「でも」
 言いながら布団に洞穴をつくって出てきた後輩は、私の服の袖をやさしく引っ張りながら、
「全然着てくれてないんですね」
「着てるじゃない」
「他の、先輩が今まで着てきた服みたいに」
「新しい服なだけよ」
「いつまで、新しい服なんです」
 後輩の目を見つめ返した。朝の清廉なひかりが、カーテンを押してそっと落ちる。そして液体のように床に広がっていく。途中で受け止める白い背の本棚が、眩しかった。
「まだ寝ていたらいいじゃない。私、本を読んでいるから」
 彼女のやわらかな指先を引きはがした。ただ少し袖を自分の胸の方へ引っ張っただけのことだった。猫のような姿態で私のそばについていた後輩は、ゆっくりと私を見つめたまま、布団の洞穴へと戻っていった。その目はたしかに私が答えをはぐらかしたことを記憶していた。本当はその言葉が適切ではないことを私が自覚している。それをきちんと確認してから、彼女は生ぬるく残る、二人の体温の上に寝転がり直した。

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