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小説『海を駆ける』(著・深田晃司)の感想(1)

映画監督・深田晃司が、映画作品の上映とほぼ時を同じくして小説版を発表するのは、前作『淵に立つ』(2016)に続いて2度目になる。

ポプラ社から刊行された前作、小説『淵に立つ』については、映画版との違いや、映画作家としての深田があえて小説版を並立させることの意義などについてブログ記事で述べた。

今回の小説『海を駆ける』(文学界4月号)は、前作『淵に立つ』とのスタンスの相違という点においても、興味深く読むことができた。以下、そのあたりのポイントも踏まえて感想を述べていきたい。

※文芸春秋社より単行本の刊行が予定されていますが、まだ手元にないので、文章の引用・ページ番号等は初出の「文学界4月号」に準拠します。

さて、小説『海を駆ける』を読んで、私は以下のような点に注目した。

(1)視点の置き方と叙述のスタイル
(2)各章の語られる「時点」の差
(3)移民・マイノリティーについての問題提起
(4)カメラ(レンズ)が象徴するもの
(5)ラウの正体  
※この項目にネタバレ要素が強く含まれます※
(6)まとめを兼ねて最後に

以下、順に述べていく。

(1)視点の置き方と叙述のスタイル

前作『淵に立つ』は、三人称を用いて、語り手のメタな(高次の)視点と一人の心理描写を基本軸とし、そこに映画監督でもある著者・深田晃司ならではの様々な映像的・実験的手法を持ち込むスタイルで叙述されていた。それは、かつての記事で指摘した通りだ。

対して、今回の『海を駆ける』では、だいぶ細かな断章形式を採用すると同時に、各章とも一人称(わたし、私、僕、ボク)による叙述を「原則」としている。「原則」であるならば、やはり「例外」があり、そのあたりにこの作品の隠れたポイントがあると思われるが、それは後述。

また、それぞれの登場人物たちの一人称によって語られる各章のうち、クリスの章とレニの章については、特定の相手に向けた手紙、いわゆる書簡形式を採っている。

多視点からの断章形式により同じエピソードを多角的・立体的に叙述する方法や、書簡形式といった手法は、日本文学の中に伝統的かつ古典的なスタイルとして存在している。一方で、そういった手法には、語りや表現が冗長になりがち、情報の整合性が怪しくなりがちといったデメリットも指摘できるかと思う。

その点、小説『海を駆ける』は、メインとなるエピソードの時間の流れをキープした上で、前の章で振ったネタの周辺やその後の展開を、次の章の中でしっかりと受けてリレーしていく形で展開されていく。各章における一人称の語りによって群像劇的にそれぞれの登場人物たちの個性を十分に肉付けし引き立てながらも、読み手にストーリーの本流を容易に見失わせず、先へ先へと読み進めていく推進力を与えている点は、さすがの構成といえるだろう。

それから、各章を一人称で叙述することの効用として、物語のキーマンである「謎の男」の存在を、距離を置いて「謎のまま」客観的に描写できるという点もある。一人称であるということは、常に描写の視点者が彼以外の誰かになるので、彼の内面や心理には踏み込みようがない。

そして唯一、「謎の男」の内面・心理に直接的に踏み込んでいるブロックは・・・、それは後述。

つづき、感想(2)は、こちら。


【参考】作家・秋沢一氏のブログ「小説『淵に立つ』(著・深田晃司)の感想。」
http://blog.livedoor.jp/akisawa14/archives/1872350.html

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