小説『海を駆ける』(著・深田晃司)の感想(5)
(5)ラウの正体
※この項目にネタバレ要素が強く含まれます※
さて、小説『海を駆ける』を読み終えた読者にとって、最大の関心事はやはり、「謎の男」=ラウは一体何者だったのかという点になるのではないだろうか。
この論点に関しては、ネタバレ要素を抜きに語ることが難しいので、未読の方や映画版を楽しみにされている方は、読了後・鑑賞後にお読みいただくなど、適宜ご対応いただきたい。
ここまでの各項目で「後述」とした内容についても、この項目で合わせて触れていく。
まず、ストーリーの最終盤で、ラウの存在は以下のように語られている。
(引用 P.123「サチコ[6]」)
ようやくわたしはラウが死をもたらす者であったことを確信した。
確かに、ストーリーの「現在時間」の中で、ラウの動く先々には次々と「死」がもたらされている。漁村の老人、犬のルンプ、村の子供たち、そして主要人物の一人。しかしサチコが断じるように、ラウの存在に「死」の側面「だけ」を見るのには、何か少し違和感がある。作中でラウが人々にもたらす「死」には、どこか自然で、ナチュラルな感触があるからだ。
深田晃司作品のファンにとっては、まずは『歓待』の加川や『淵に立つ』の八坂のように、安定した状況を掻きまわし破壊するジョーカー的な存在として、ラウがイメージされるだろう。もちろん、小説『海を駆ける』において、ラウにそうした一面があることは確かだ。
しかし構図としては似ていても、ラウにはそれ以上のものが仮託されているように思えてならない。
◆ラウがもたらしたもう一つのもの◆
前述した、イルマが目撃し、動画に収めた「とある不思議な現象」は、熱中症的な症状に陥り瀕死の状態で路上に倒れていた女児を、ラウが超越的な力で復活させた、という出来事だった。また序盤には、トラックの荷台の上の籠の中に入れられてぐったりとしていた魚たちが、ラウの歌の力によってほんの一瞬だけ蘇生するという描写もあった。
そして、上記の引用部分でラウを「死をもたらす者」と断じているサチコ自身が、実はラウの力によって病から復活していたのではないかと読み取れる(類推される)シーンもある。
(引用 P.109「サチコ[5]」)
風のせいか虫のせいか、まるで水面に落ちた木の葉のようにわたしの影はゆらゆら揺れて、ふたつに割れた。割れた? 違う。その影はふたり分あった。隣に誰かいる、と思った途端、わたしの眼前は大きな手の平に覆われていた。そして潮の匂いがした。
この部分、サチコの隣にいたのがラウであったことは明示されていないが、前述の女児を復活させた際にもラウが「手」を用いたこと、その後サチコが前日の不調がウソのように回復したこと、そして最後の一文が象徴するものなどを踏まえると、ラウであった可能性が高い。
項目(2)において、私は、2018年の記憶を40数年後から回想するサチコが「そこそこ長生きしている」という点を指摘した。同じラウの「手をかざす」という行為によって、漁村の老人は程なく死を迎えたが、サチコはその後もだいぶ長く生きている。このことは、ラウが必ずしも「死のみ」をもたらす存在ではないことを示唆しているのではないだろうか。
では、人間に時に「死」を、時に「生」をもたらす、ラウの正体とは一体何なのだろうか? それは端的にいえば「海」そのものだろう。あるいは「自然」そのものと言ってもいいかもしれない。
改めて言うまでもなく、小説『海を駆ける』が誕生したきっかけには、2004年のスマトラ島沖地震と、2011年の東日本大震災(=東北地方太平洋沖地震)によって引き起こされた大津波のイメージがある。「海」は津波のような破壊や「死」をもたらす存在であるとともに、水産資源、鉱物資源といった豊かな恩恵をもたらす存在でもある。また人間の身体を構成する要素の約60~65%が水であることを考えれば、「海」は我々の「生」の究極の源といっても過言ではないだろう。
◆巧妙に仕かけられたトリック◆
この小説の著者である深田晃司は、実はこの答え「ラウの正体=海」を、作中にはっきりと読み取れる形で示している。それも文芸作品でありながら、巧みなビジュアル的トリックを用いながらだ。完全な私見にはなるが、その解釈内容をご紹介しよう。
項目(1)で、小説『海を駆ける』は各章とも一人称での語りを「原則」にしていると述べた。またそのメリットとして、「謎の男」=ラウの心理や内面にいたずらに踏み込まず、距離を置いて客観的に描写できるという点を指摘した。
既に示唆したように、作品のほとんどを貫くこうした「原則」には、「例外」がある。その唯一の「例外」である章が、冒頭の「海」と題された章である。このブロックでは、「彼」という三人称の主語を用いて、後に貴子によってラウと名付けられる「謎の男」の内面心理を、独白まで含めて直接的に描写している。
なぜこの章だけ、他の章とは違う書き方をしなければならなかったのか。それは、この冒頭の章をプロローグ(あるいはイントロダクション)的に見せる、視覚トリックを仕かけるためだ。
文学界4月号のP.66-67の見開きを目にした読者は、「海」と題されたブロックと「サチコ[1]」と題されたブロックを見る。このとき読者は、「サチコ[1]」という少々デジタルな雰囲気もある題の付け方を見て、なるほどこの小説は「サチコ[1]」「サチコ[2]」といったように、断章形式で展開されていくのだなと直感的に理解する。
そして同時に、冒頭のブロックの題「海」を、脚本で場面を示す柱(あるいはト書き)のようなものとして捉える。これは著者である深田が映画作家であるという先入観も多分に影響するだろう。そして読み進めていくうちに「イルマ[1]」というブロックを目にするにあたって、冒頭の「海」は柱(ト書き)であり、その章は他の章とは違ったプロローグ(イントロダクション)的なものだったと見事に勘違いしてしまうのである。
◆そのトリックを解くヒントとは?◆
が、しかし、その一方で深田は、このトリックを解くカギも、実は作中にしっかりと提示している。
一人称での語り、あるいは手紙で展開される各章を人物別に整理すると、サチコは[1]~[6]、イルマは[1]~[4]、タカシは[1]~[3]、クリスは[1]~[3]とそれぞれ複数の章があるのだが、ただ一人1章分しか立てられていない人物がいる。それは「レニ」だ。
作中で、若いイルマが撮影したラウの映像を横取りし(カネで買い)、手柄を我が物にしたジャーナリストであるレニ。作中のヒール役を一人で担っている感のあるレニだが、このレニの章は若干違和感のある章だ。一言でいうと、何か不要な感じがする中身だということだ。
イルマの経済的な問題につけこみ、カネによってラウの「不思議な力」の映像を奪った経緯は、続く「イルマ[4]」でイルマ自身に語らせても全く問題のない情報だ。ではなぜレニの章が必要だったかというと、それは、冒頭の章のトリックを解くヒントを示すためである。
繰り返しになるが、このレニには1章分しか与えられていない(同じ手紙形式のクリスが3章分を与えられているというのに)。そのためこの章の題は「レニ」で、「レニ[1]」には決してならない。つまり、このレニの章によって指し示されているヒントは、1章分しか与えられていない人物の章は、その章の主体となる人物の「名前」のみが題に据えられる、という作品全体を貫く「記述上のルール」なのだ。
再び、冒頭の「海」の章に目を転じる。この章の主体となる人物は、後に貴子によってラウと名付けられる「謎の男」だ。そしてその男の「名前」は、レニの章が指し示すヒントに従えば、章の題の位置に示された言葉ということになる。それは、言うまでもなく「海」だ。この「海」はプロローグの柱(ト書き)などではなく、「謎の男」の名前であり正体だったのだ。
【参考】作家・秋沢一氏のブログ「小説『淵に立つ』(著・深田晃司)の感想。」
http://blog.livedoor.jp/akisawa14/archives/1872350.html
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