佐藤の日常
おれは呻いた。
岡野先輩の作成ファイルを、削除しちまった・・・うああ・・・。
おれの会社は、デルタ株は本当にヤバいらしいと言われ出した昨年の初夏になってようやく、テレワークに切り替えた。
貧しい会社なので人数分のノートPCとモニタが用意できなかったのである。
就業中はSNS、スマホ、テレビ、ラジオの類は厳禁、例え休憩中でもダメ。という縛りがあるのだが、監視カメラが無いのをいいことに、そんなもの守ってるやつは一人もいない。
いや、一人だけいる。・・・それがおれだ。
上記の記事で書いた通り、はっきり言っておれにはこの仕事に「拾ってもらわれた」意識がある。
今でこそ重要案件も任せてもらっているけれども、研修に受かったのは、
「まあ佐藤は一年、Bでがんばってもらったし、今さらクビにするのはかわいそうだな。レベルに達してないけど、下駄履かせて合格させてやっか~」
というお情けで、Cに移してもらえた気がしてならない。
だからおれは、会社に足を向けて寝られない。残業が終わった後、自分の作成ファイルとチェックしたファイルに誤りが無かったか納品ファイルをすべて洗い出し、修正が来そうな案件はあらかじめシュミレーションしておき・・・気づいたら日付が変わっていたこともある。残業代が出るのはもちろん、あらかじめ決められた時間までだ。
バカだなあ、そんなことしても1円にならないのに。
ミスったって死ぬわけじゃあるめいし、佐藤は気にしすぎなんだよ。
同僚はそう言うけれども、おれはこの日課を止めることが出来ない。
おカネをいただいている以上、質の高いものを作りたいのだ。
もちろん、おれって偉いでしょ? と言う気持ちは毛頭なく、逆に、ここまでしなければ寝られないおのれの小っささが呪わしい。
おれ以外にも(おれほど長時間ではないが)、修業後もしばらくチャットのランプが消えない何人かは、やっぱり仕事が止めれないのだと思う。
よりよいものを作りたいから、カネ度外視でやりたい。いまの時代に沿わないけれども、おれはそういう気持ちを無くしたくない。
こういうおれだから、仕事中にSNSなどとんでもない! 不器用な自分がそれをすれば、おそらく仕事に集中できず何かミスって、とんでもないことに発展するだろう。
ところが今日、つい、それをしてしまった。
連日の不穏なニュースが気になりスマホを見ていて、チェック途中だった岡野先輩のファイルが無いことに気づいた。
あれ・・・ない・・・ゴミ箱にも・・・ない・・・
ゴミ箱の中身も・・・さっき・・・削除した・・・
ああ・・・心臓が痛い・・・おれは岡野先輩にメッセした。
岡野先輩は、おれより3つ年上の、素晴らしくすごいスキルを持った方である。Cの研修のときから、おれがしつこく質問しても、面倒がらずに何でも教えてくれたんだ。映画好きの先輩は毎日、映画を3本観ながら仕事をしているらしい。それでいて、うちの誰よりも作成が速いし、上手いのだ。
もちろん映画も厳禁なんだが、会社は稼ぎ頭の岡野先輩に頭が上がらず、黙認している。東京オリンピックの開催中、課長が岡野先輩に更新面談の電話をしたところ、
「すんません、もうすぐ瀬戸大也のレースあるんで、それ終わったらこっちからかけなおします」
とつい正直に言ってしまったが、お咎めなしであった。
すげーよ。かっこよすぎるよ先輩。
「オレ瀬戸大也ってさあ、浮気しないと泳げないタイプだと思うんだよね」
「はあ」
「もし文春にスッパ抜かれてなかったら、金メダルだったって、思うんだよね」
「さあ、それはどうでしょう・・・」
「性欲の強さが泳ぎに反映されるタイプ。それも奥さんだけじゃダメなの。色んな女と交わらないと結果が出せないの」
「でも、奥さんからするとたまったものじゃないでしょうね」
「奥さんも黙認してたかもね。いや、しらんけど。人の2倍仕事をする男は、奥さんを2人持ってもよいって、田中角栄が言ってる」
東京オリンピックが終わった頃の、オンライン飲み会での会話。
なんか、すごい自信。先輩それは、自分のことを指しているのでしょうか??
調子に乗ったおれは突っ込んだ。
「先輩さては、浮気願望があるんですか??」
「浮気? 浮気する相手がいないよ。彼女いない歴38年だよ」
「あっ・・・、失礼しました」
僕もそうです、とは言えなかった。悲しい酒になりそうで。
しばらくして岡野先輩からファイル添付メッセが来た。
覚えてます・・・自分が作ったのじゃない、けど、ずっと自分が作ったのよりずっと綺麗なファイルを・・・
先輩・・・4時間かけて作った力作なんです・・・けど・・・お客さまはそりゃ、綺麗な商品のほうがいいよね・・・ハハ・・・
どれほど努力をしたとて、仕事は、結果が全てです。はい。
自分はまだまだ修業が足りないと、実感した佐藤であった。