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私の嫌いな三人/創作短編(後編)

私の嫌いな三人/創作短編(前編)


女は車掌に食ってかかった。

「いえ、私、なにもしてません」
「はあ、そうですか。一応、そちらさんにも話を伺いますので、そちらさんも来ていただきますねえ」

車掌は、捲し立てる女をはあ、はあ、とのらりくらり交わしながら、無線で連絡を取り始めた。電車が動き出し、大阪駅に着いた。ドアが開いた。私は女の横を擦りぬけ、ホームに出た。

「あッ!」
「おい、逃げんなや!」

女は喚きながら私を追いかけようとしたが、ホームの溝にハイヒールを引っかけ、派手に転んだ。その隙に私は階段を駆け降り、フロアを横切り、神戸線へ続く階段を駆け上った。そして、ちょうど入ってきた姫路行新快速に滑り込んだ。


十月末の日曜日。LUCUA 1100で買い物をしていた私は三階に降りるため、エスカレーターに乗った。前方にカップルが二列に並んで立っていた。二十代後半くらいか。互いの腰に手を回し、顔は今にもくっつきそうだ。

「急いでるんです! 通して下さい!」
叫びながら私は突進し、カップルの女に体当たりした。
「きゃあ!」
女はよろけ、エスカレーターに突っ伏した。男が女を抱えながら私を睨み付けた。
「おい! 危ないやろ!」

私は構わずエスカレーターを下り降り、建物の外へ出ようとした。しかし追いかけてきた男の足が速く、私は休日の午後四時の、客でひしめくフロアの中で捕まった。女もやってきた。客はみな、固まった表情で私たちに視線を集中させた。

「お前、俺らになんか用事か?」
男は私を正面から見据え、凄んだ。

「エスカレーターに二列で並んだら後ろの人が通れませんよね」
「それは俺らが悪かったけど、あんな乱暴することないやろ。ミカ、脚挫いたかもしれんなあ」
「ほんまや。脚、痛みが引かへんねん」
病的に腰の細い女も、しなを作りながら応酬した。
「ここじゃ迷惑やな。外で話しよか」

接近した男の瞳はうすく茶色を帯びており、その中心に怒りの炎が揺れていた。炎は盛り、とぐろ を巻き、男の精の激しさを想像させた。激しく憎まれているというのに私には男が私を愛しているのではないかと思えてきた。

男が私の腕を取り、引っ張るのと同時に私は背伸びし、男の顔を両手で挟み込んだ。そして男の唇に、自分の唇を捺しつけた。フロアに、ああっと悲鳴が走った。

生まれて初めての口づけだった。口づけとはどういうものか。どんな気持ちになるものか。幼き頃より夢見ていたのだ。繰り返し小説で読み映画で見たその場面のように、血は逆流し世界は反転し、何も見えずなにも聴こえず、そしてその先は――。

なのに、男の薄く冷たいくちびるに、何の感慨も沸かない。冷たいゴムに口を押し当てているみたい。落胆し、唇を離しかけた瞬間、男の舌が私の唇を割って入ってきた。

生暖かい生き物のように、男の舌が私の舌を捉え、絡めとった。下腹部を押し付けた男の股間が硬くなり、微妙に擦り付けてきているのを感じた。瞬間、密着部分がかあっと熱くなり、頭がくらくらした。

もっと、もっと……。私がさらに下腹部を密着させ、彼の舌を吸おうとすると、急に男が身体を離し、口を手で拭った。すかさず女が私の頬を張った。

口づけのあいだ、男の全意識は私のものだった。私は二十余年、願い焦がれていたものを手に入れた。あなたの彼、一瞬だけど、私を愛したわ・・・・ 。私は女をまっすぐに見、笑みを保ったまま女を張り返した。女が二発目を振ろうと上げた手を男が掴んだ。

「ミカやめとけ、頭おかしいわこいつ」

男が私から顔を逸らせながら言った。私は騒然となったフロアを駆け抜け、建物を出、直結するJR大阪駅の改札を通り抜けた。


……新快速の車内で、私は立ったまま火照った額を窓に押し付け、流れてゆく煩雑な街並みを眺めた。

――医者は、カルテに目を落としたまま、入院してしばらく様子を見ましょうと言った。それから顔を上げると急に笑顔になって、うん、それがいいよ、と繰り返した。傍らで母が泣いていた。

だから私は明日、緑の城と呼ばれている建物の、302号室に行かねばならない。予感だが、かなりな期間、いや、死ぬまでそこで暮らすことになるのかもしれない。

だがいったい、私がどのような咎をおかしたというのであろうか。
私はもう二度と見ることのない淀川の夕景を目に焼き付けた。




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