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美空ひばりの歌

1.「川の流れのように」と「愛燦燦」

美空ひばりの「川の流れのように」と「愛燦燦」のどちらが好きかと問われれば、いやいや柔だ、悲しい酒だ、という声もありましょうが、そこはひとまず置いておいて、私は「愛燦燦」と答えます。なぜかというと「愛燦燦」のほうが歌詞の陰影が深いように感じられるからです。

振り返れば 遥か遠く
故郷が見える
でこぼこ道や 曲がりくねった道
地図さえない それもまた人生

川の流れのように/美空ひばり

「でこぼこ道や/曲がりくねった道」2番では「雨にふられて/ぬかるんだ道でも」とは言いながら、曲は最初から最後まで明るいトーンで貫かれている。影もあるんだけど、光が強すぎて光しかない感じ。あくまで私の捉え方です。人生をテーマにした曲としては平明すぎて、私には何となく物足りなく思えるのです。

対して「愛燦燦」ですが、私がこの曲で一番好きな箇所が、冒頭にもう出てきます。

雨 潸々と この身に落ちて
わずかばかりの運の悪さを
恨んだりして
人は哀しい 哀しいものですね

愛燦燦/美空ひばり

「わずかばかりの運の悪さを/恨んだりして」くぁー!ここいいわー!なんか深いわー!と、子供の私は既に冒頭で感極まっていたものでした。その感覚は大人になった今でも消えていません。

こちらも明るい曲なんですが、光のなかに影が複雑に織り込まれて微妙な陰影をつくっている感じがして、それが琴線にふれてくる。

発売日は愛燦燦が1986年、川の流れのようにが1989年です。作詞者の当時の年齢をざっくり算出しますと小椋佳42歳に対し秋元康31歳。約10歳の開きがあります。そりゃ10歳年上の人の方が人生経験積んでいるから歌詞に厚みも出るやろと考えることもできますが、単純に言って、小椋佳の書く詞のほうが自分は好みなのだと、まわりくどい言い方になりますがそういうことなのでしょう。

決して秋元康をディスっているのではありません。夕やけニャンニャン見ていましたとも。私はこの方の凄さはバレンタイン・キッスを書いたことにあると思っています。

バレンタイン・キッスを超えるバレンタインソングってある?
ないよね!?


いやあるよ!と仰る方もおられましょうが、バレンタインデーに日本で流れるバレンタインソングで圧倒的に多いのはやはりこの曲ではないでしょうか。発売1986年ですから、約37年間ずうっと、不動の1位ですよ。流行り廃りの激しい音楽の世界でこれは、めちゃくちゃ凄いことだと思うのです。この点で私は秋元康を尊敬しております。

ちなみに曲名を今の今までバレンタインデー・キッスと勘違いしておりました。


2.車屋さん

美空ひばりで私が一番好きなのは「愛燦燦」よりもこちらになります。

昔なつかしい「オールスター家族対抗歌合戦」でこの曲を知りました。歌っていたのはおそらくひばりさんご本人だったと思うのですが、もしかすると別の歌手だったかもしれません。(記憶が曖昧。なんたること!)とにかくものすごく上手かったのは覚えています。

ちょいとお待ちよ 車屋さん
お前見込んで たのみがござんす この手紙
内緒で渡して 内緒で返事が
内緒で来るように 出来ゃせんかいな

車屋さん/美空ひばり

当時小学校低学年だったので歌詞の意味もよくわかってなかったのですが、心を鷲掴みにされました。前奏がジャズっぽいところとか、「~出来ゃせんかいな~」の低音でうねりながらの言い回しから「エ~~~」への繋ぎとか、とにかくかっこよすぎて。 演歌っぽいけどこの曲は演歌とちょっと違って変わってると思い、子供心に強烈に記憶に残りました。以来、美空ひばりで一番好きな曲です。

この動画はたぶん吹替えじゃなくて演技しながら実際に歌ってると思うんですが、 歌唱力凄・・・。

昔、職場の中年おじさんに美空ひばりで一番好きなのは車屋さん、と言ったら通やなと言われました。そ、そうなのか??

3.人生一路

記事は「車屋さん」で終わる予定だったのですが、動画を漁っていてこれを見てしまったので追加せずにはいられませんでした。1988年4月東京ドームの不死鳥コンサートです。
映像では元気そうにみえますが、病気が進行していて、立っているのもやっとの状態だったそうです。Youtubeのコメ欄で皆さん仰っていることを私も述べますが、まさに魂の歌唱。

雪の深さに 埋もれて耐えて
麦は芽を出す 春を待つ
生きる試練に 身をさらすとも
意地をつらぬく 人になれ

人生一路/美空ひばり

中盤、拳を上げながら「意地を!つらぬく人になれ~」と叫ぶところで心をぎゅううっっと持っていかれ、気がついたら目から熱い水が流れていました。意地をつらぬくって、今どきの価値観とは真逆ですよね。

ラスト、ファンに手をふり笑顔をふりまきながら花道を進んでゆくひばりさん。病み衰えた姿ではなく、この煌びやかな衣装を来た一流の歌手としてあの世へ旅立ってゆくさまに感じられてなりませんでした。

このコンサートからわずか1年後の1989年6月24日、特発性間質性肺炎の症状悪化による呼吸不全の併発により逝去。享年52歳・・・。


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