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前登志夫のこと

前登志夫がセミナーをするとしって、さっそく予約を取り、出かけた。
氏が亡くなる2008年4月の、2~3年前のことであったと記憶する。

会場は近鉄奈良駅ビル(地下が近鉄奈良駅になっている)の、小さな会議室だった。最前列の真ん中に座りたかったが、なんとなく気後れし、真ん中らへんの端の席についた。

前席がご婦人方で埋まってゆく。氏の主催する「ヤママユの会」の同人の方々かもしれない。やがて前氏が入ってき、壇上の椅子に座られた。

開始時間までの間、じっと正面を見詰めて動かない。御年八十の、小さな老人。その様子は、日なたの田道の石地蔵を思わせた。

セミナーで何を語られたのか、断片的にしか思い出せないが、西行と吉野の桜については仰られたように思う。(その時の記録ノートを探したが、どうしても見つからない・・・なんたること)

短歌研究はつまらない雑誌になった、と仰られたことと、
お話のなかで「青虫」に話が及び、

「青虫をなあ、潰すと、こう、ぶちゅう~っと青い汁が出て、気持ち悪いんや・・・へ、へ、へ」

と言って、にやっとされたことが、強烈に記憶に残っている。

2時間ほどのセミナーが終わった。ご婦人方に取り巻かれ、しばらく歓談する前登志夫。私は氏の、

 崖の上にほんのしばらく繭のごと棲まはせてもらふと四方を拝めり

この歌に涙したと、どうしてもお伝えしたかった。だがご婦人方の間に割って入る勇気が出なかった。

遠くからみている間に氏は、ご婦人方と一緒に会議室を出て行かれた。それから時を待たず、西行が往生したのと同じ桜の季節に逝ってしまわれた。

なぜあのとき御挨拶申しあげなかったのか。
そのことが今でも悔やまれる。


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