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前夜

 私は羽田空港へ向かっていた。車内には私と母と姉と甥っ子、それと大きな緑色のスーツケースと当時の恋人が乗っていた。運転しているのは母だ。我が家のドライバーはいつも母なのだ。縦長で奇妙な色合いのマークXジオに積まれた一同が、果たしてどんな会話を取り交わしていたか、今となっては思い出すことができない。けれど、確かなことは、あの緑色のスーツケースは母が餞別だと言ってオーストラリアへ行くことを決めた私に買い与えてくれたもので、母の運転は足の悪かった父方の祖母を運ぶために訓練された神経質で丁寧なものである一方、母本来の気質が垣間見える平凡な運転であったということくらいである。
「お母さんはぽっちゃり好きだからね」
 それが色恋沙汰の話をするときにどんな人を連れてきても良いよと言う意味を込めて母が言う口癖であった。(一時期は男の子を連れてきても良いとまで言わしめた不甲斐ない息子が私だ。)流石にそれを当の恋人の前で口走るほどではないが、口を滑らせないとは断言できないというのが、我々姉弟の共通認識である。

 国際線はおろか空港自体がもの珍しく映る我々家族は搭乗開始時間のおよそ四時間前には第三ターミナル近くの駐車場に到着していた。暇を持て余した我々は、まだ幼稚園児の甥っ子を遊ばせるための施設を探すことにした。姉が事前に調べた情報によれば、空港内を走るシャトルバスに乗って、第一ターミナルまで行くと、いくらか子供が遊べそうな施設があるらしかった。我々はバスに乗り込み、姉が指定したバス停へ向かった。降りた先には人気のない建物があり、本当にここに子供が遊ぶような施設があるのか不安を抱いたが、まずは第三ターミナルへ戻るためのバスの時刻を確認することにした。どうやらそれほどバスの本数は多くないようで、チェックイン開始時刻に戻るには二本後のバスに乗る必要があることを知った。
 甥っ子をやや急かしつつ、人気のない建物内で子供が遊べる場所の探索が始まった。あの建物がどのターミナルのどのあたりに位置していたのかわからないが、そこにはほとんど人通りがなく、園児が走り回っても全く人の迷惑にならないほどであった。ただし、人のいない分、そこには稼働しているお店や施設もほとんどないようであった。甥っ子は初めて来る場所を独り占めしているようで楽しそうであったが、私は慣れない大きなスーツケースの操作とチェックイン時刻ばかりを気にしてソワソワしていた。結局、目ぼしい施設は見当たらず、我々はバス停に戻ることにした。そのことを悟った甥っ子は、遊びの内容を「探検」から「かくれんぼ」へ変更したようであった。初めての国際線に緊張していた私の心には、彼の遊び心が悪戯心として映った。ただ、別れ際に機嫌の悪い姿を見せたり、叱られたという印象で彼に記憶されるのは気が引けたので、両脇に滲む汗とこめかみに蠢く神経虫をやり過ごしながら必死に平静を装ったことを覚えている。

 それから予定通りのバスに乗り込み、一同は第三ターミナルへ戻った。そこで早速大荷物を預け終えると、私の心は安堵に満たされた。一時間ほど前に初めて訪れたはずのその場所がまるで我が家のような安心を私にもたらした。
 そのこと自体が私が平常心ではなかったことを表していた。油断をすれば恐怖に苛まれてしまいそうであった。初めてジェットコースターに乗るための列に並んでいる心地、というとしっくりくる。落ちるために登るあの不思議なアトラクションは人生をよく表しているのかもしれない。人間は結局元いた場所に戻るだけなのだ。もちろんまた新しいアトラクションを楽しむことは可能だが。
 私は緊張をほぐすために一杯のビールを摂ることにした。緊張をほぐすためではあったが、今思えば軽度のアルコール中毒であったのだ。ビールと共にうどんを啜った。同行した家族もそれぞれにフードコートで早めの夕飯を調達して、あれやこれやと向こうに着いてからの予定を聞かれた。姉は不機嫌そうで、甥っ子は楽しそうで、母と恋人は不安な顔で応援してくれているように見えた。我々はあまり感情を言語化するのが得意ではなかったし、本音で語り合えるような家族ではなかったのだと思う。言いたいことを言えずにそれぞれの決断を尊重するという綺麗事を並べて離散への道を進んでいたのかもしれない。私は彼らから逃げたかっただけなのかもしれない。
 搭乗口に向かいながらそれぞれと別れの挨拶を交わして、姉と母と初めてのハグを交わした。もう後戻りできない線を越えた。チェックインカウンターの列に並んでいると、後ろから甥っ子の叫ぶ声が聞こえた。けれど私は振り向かなかった。振り向くことができなかった。彼らに涙を堪えた顔を見せるわけにはいかなかった。

 保安検査と出国審査を終えると、私は指定の搭乗口近くで喫煙所を探した。徐にスマートフォンを取り出すと右上には見慣れない圏外という文字が映されていた。向こうについてからSIMカードを買うことにした私は、すでに国内の電波にアクセスできない状態であったことを思い出して、また嫌な汗をかいた。フリーWi-Fiに接続しようかとも考えたが、今更誰に何を連絡したいのかと考え直して、タバコを咥えながら深呼吸をした。燃え進む光と残された灰のコントラストが美しかった。

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