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瓶を売る男 第三話 ~偽造と捏造~

瓶を売る男 第三話 ~偽造と捏造~

著:増長 晃


《専門用語》



霊素:霊魂を構成するとされる物質。魂だけでなく、記憶や人格、技能や感情なども形成する。半物質、半エネルギーとして存在し、その観測は困難である。

霊素結晶:霊素が結晶として物質化したもの。結晶中の霊素の結晶構造によって結晶内に情報を記録し、記憶や感情を結晶に記憶させることで人格を保存する。
結晶で瓶を作って人格を保存したり、指輪を作ってその瓶を開け閉めすることに使われる。

結晶師:霊素を結晶化、あるいは結晶を分解してエネルギーを抽出する技術を持つ者、あるいはその職業。

漂着瓶:K市の住民の心の空白がK市内の霊素に感応し、結晶化して瓶になった物。その心の持ち主の空白を満たすことで瓶が解消され、住民の心の空白も解消される。

《人物》
小林:主人公。K市の仕立屋TWENTYでアルバイトをする中学一年生。無表情であらゆることに無関心。アルバイトを通じ、人の心を理解しようとしている。

遠藤:TWENTYの店主で、結晶師。小林を雇い、仕立屋の仕事をしながら小林とともにK市の漂着瓶に対処している。よく小林や他人をからかう。

高千穂 郷:かつてTWENTYでアルバイトしていた高校二年生。芯が強く、他者との距離の保ち方が上手い。現在は探偵助手のバイトをしており、ハッキングが得意。



小林Ⅰ


 九月中旬、K市はまだ暑さが残り、小林は学校でもTWENTYでも半袖である。学校帰りにこの店に出勤したとき、店主の遠藤から郵便物を渡された。宛先は小林、重要書類在中と記された一通の茶封筒だ。A4サイズで、手にしてみると厚みがある。

「遠藤さん、これ何ですか?」

 小林は遠藤に尋ねた。遠藤は白い長袖のシャツにノーネクタイで、ブラウンのベストをその上に着ている。髪型はサイドを短く刈り上げて、少し伸ばしたトップをワックスで固めて流している。控えめな清涼感と暖かさを感じる装いだ。そろそろ肌寒くなってくる季節である。

「ああ、それか。結晶協会から送られてきたんだが、お前の結晶師免許に関する書類だ」

「結晶師免許…」

「ああ、お前の指輪や霊素瓶、そういった霊素に関する事業は許可証が要るんだ。まあ店でやる分には俺が営業許可証を取ってるからいいんだが、お前が指輪と瓶を扱う以上、お前自身のための権限があった方が便利だろう」

 結晶師免許とは、この店の瓶や指輪を扱うための資格である。瓶や指輪は“霊素”という物質でできた結晶であり、それを扱うには正しい知識と技術が必要になる。医薬品の製造や販売に免許が必要なものと同じだ。霊素は目に見えない分、薬品より慎重を期する。

 七月に結晶協会の中村から、小林に結晶師免許の誘いがあった。それから小林は八月の間、TWENTYでのバイトと掛け持ちしながら結晶師の勉強をし、免許を取得した。

 とはいえ、取得より一年間は権限が限られており、未成年はなおさら制限がある。大して小林に有利な資格ではなく、むしろ制約の方が大きい。結晶協会が小林や遠藤を監視するために与えた資格というのが遠藤の見立てであり、小林も同意見だ。

「遠藤さんなら断ると思ってました。貴方は外部の干渉を嫌がるから」

「そりゃあ俺だってお偉いさんに監視されるのは嫌だぜ。ただ、形だけでも首輪付けとけば少しは窮屈じゃなくなる」

 “形だけでも”か。封筒から一枚の結晶師免許を取り出すと、小林の顔写真と「小林」の名が刻まれていた。生年月日も住所も偽物。遠藤が偽造した個人情報だ。結晶協会は、「存在しない何者か」に首輪をつけている。

 小林は結晶師免許をカードホルダーの、学生証の裏に仕舞った。

「それにしても警部補殿も、いや、結晶協会も質(たち)の悪いことだ。こんな少年に首輪をかけるとは、良識ある大人のすることではないな」

 遠藤の声が珍しく曇っていた。怒りとも呆れとも取れないそれは、何やら煙たそうな不快を読み取れた。何が気に食わないのだろう。まるで自分に似たような何かに身に覚えがあるようだ。

「まぁたそんなつまらないこと言って。免許だの資格だの、協会が飼いならせないほどの手腕を身に付けてこっちが主導権取ればいいだけの話なのに」

 声のする方を見ると、眼鏡をかけた女子高生がいた。名前は高千穂郷たかちほきょう、受付カウンターの椅子に座り、夏休みの短期バイトの給料をもらっている。黒髪は肩まで長く、薄手の青のパーカーに黒の短パンにサンダルと、暑さの残るK市で過ごしやすそうな格好だ。

「強気だなぁ高千穂。そっちの上司に似たんじゃないのか?」

「それはそう。あの人の自己肯定力には敵わないけどね」

 郷はこの店で中一から中三の三年間バイトをしており、中二のときに結晶師免許を取得したらしい。高校生になってバイトを辞めたのは、遠くの学校に進学したからだとか。この夏は帰省しており、学校は現在リモート授業らしい。なんでも、セカンドシティ—その学校のある地区—で一時的なロックダウン状態らしい。その話をすると、確かなことは言わず遠藤や郷が謎の笑みを浮かべるだけだ。どうやら詳しく聞くべきではなさそうだ。何か大変なことをしでかしたのだろう。

「高千穂さんは資格を取ってからどんな仕事をしてたんですか?」

 小林が問うと、郷は答えた。

「特に変わらないね。流れ着いた瓶を拾って、持ち主を探し当てて、その心を満たす、あるいは“納得させる”。それを繰り返す。何か変わったと言えば、“仕事を貰う”立場から、“自分で仕事を見つけに行く”立場になったことかな」

「そういう経験は若いうちに身に付けておくといいぞ小林。社会人になってから役に立つ」

 遠藤が付け加えた。からかうわけではなく、筋の通った意見だ。

「ところで高千穂。これから来店予約が入っているんだ。いつまで居座るんだ?」

「お客さん誰?小夏?」

「違うけど、同じK高校の人だ。名前は、百瀬(ももせ)梨乃(りの)」

「おっと、帰りまーす」

 客の名前と所属を聞いた途端、郷が去ろうとした。K高校は、小林が通う中高一貫K中学の高等部で、つまり百瀬は小林の直接の先輩にあたる。

「ごきげんよう高千穂、そうだ、瓶でも見ていかないか?ちょうど流れ着いているぞ」

「えぇ…、今日の来店予約って瓶の仕事?」

「いや、オーダーメイドワンピースの注文だ」

「は?アクセだけでも数万するよね。女子高生がなんでそんな予算が?」

「彼氏社会人だっけ?」

「ああ、なるほど。面白い瓶漂流ながれてそう」

 社会人と付き合う女子高生が高い服を買いにこの店に来る。それ自体は珍しくない。しかし当人の心の瓶が漂着している。つまり心に空洞があるのだ。金銭や立場に恵まれているように思えるが、それでも心は満たされていないらしい。

「第二客室にある?瓶だけ見て帰るわ」

 遠藤は微笑を浮かべて郷を促した。「お前も行ってこい、小林」そう言われて、小林も第二客室に行った。

 相変わらず第二客室は外の世界と隔てられている。風の音も、太陽の光も無い。時計も無ければ窓も無い。モスグリーンのカーペットに紺色の壁、その壁を埋め尽くすような棚には大小色とりどりの瓶が収められている。

「あった、これかな」

 部屋に入ってすぐ、郷は一本の瓶を手に取った。小さく、そして薄くて脆そうな瓶だ。中身は満たされたり、乾いたりを繰り返している。そのラベルには、「百瀬梨乃りの」と記されてある。

「どうしてすぐに見つけられたんですか?」

「うーん。霊感?この仕事してれば身に付くよ」

 郷が笑いながらそう言った。しかし小林は郷が左のポケットに何かを仕舞うのを見逃さなかった。やはりこの人も指輪を使えるのだ。だとしても、察知が早すぎる。相当な熟練者だ。

「ふーん。前からそんな気はしてたけど、やっぱりか」

 眼鏡の奥の瞳は暗い海のような深みがある。指輪を使わずに何を見ているというのか。

「じゃ、頑張ってね。困ったら助けてあげる」

 郷は瓶を小林に渡し、部屋を出た。満ち引きを繰り替えす小瓶は、手にすると驚くほど重かった。自ら一定のリズムで満ち引きを繰り返す瓶に、あるはずのない体温を錯覚する。他人の命そのものに触れるようで、背筋が凍った。

 小林は瓶を棚に戻した。すると、瓶と小林の指との間に一枚の紙が挟まっていた。誰かの「ファイン」—K市で流行しているSNS—のIDのようだった。

—困ったら助けてあげる—。去り際に郷はそう言った。郷の連絡先だろうか。


梨乃Ⅰ


ある土曜の十七時、K市はまだ暗くない。多田の車の助手席に乗った梨乃は今日のデートの余韻を多田と語っていた。これから向かうのはTWENTYというこの町一番の仕立屋で、梨乃のワンピースを仕立ててくれるそうだ。服は所有するだけで武器になる。より良い物であればなおさらだ。安い市販の服ではなく高級店のオーダーメイド。服そのものの仕上がりはもちろん、並大抵の同級生では手が届かない代物であることが肝要である。

それも汚い金ではなく、若く好印象な男性からのプレゼントであることが大事だ。多田は二十五歳、最近ニュースにもなった八朔テックという大きなIT企業の社員で、しかも清潔感のある二枚目であり、誠実である。

二人のプリクラや日記をブログに上げることで梨乃のネット上での評判は好調である。気を付けるべきは、低学どもが囁く不純関係である。ツーショットは昼間の写真しか上げないだとか、試験期間などは更新を控えて健全な学生生活を送っていることを示したりだとか、そういった努力で周囲の確固たる信頼を築いている。

人から信用される。それだけで全てが良く流れる。ゆえに梨乃は、印象作りに余念が無い。

「着いたよ」

 多田が言いながら、車をバック駐車でTWENTYの前に停めた。

「ありがとう」

 礼を言って梨乃は助手席から降りた。高級感のある店の看板だった。黒地に金の文字でTWENTYと書かれ、ショウウィンドウの奥に格式のあるスーツを着た首無しのマネキンが、メンズとレディースが二体ずつ立っている。その堂々たる立ち姿に思わず荘厳な面立ちを思い浮かべてしまう。

 やはり服には、着る者をより上位に位置づける力がある。そう思いながら、梨乃は多田とともに店に入った。店内は間接照明の落ち着いた雰囲気で、衣類のみならず靴や鞄、ハンカチなどの服飾も棚に揃えてあり、そう言った布の香りと、ラベンダーの香りが穏やかな空気を作っている。

「いらっしゃいませ」

 正面の受付カウンターの男が微笑みを浮かべて言った。清潔感のある身だしなみに、きっちり着こなされたスーツ。年の頃は四十代だろうか?誠実そうで好印象だ。

「どうも、十七時から予約の多田です」

「あぁ、多田様、オーダーメイドのご予約ですね。お待ちしておりました。そちらのお嬢様が百瀬様でしょうか?」

「はい、百瀬です」

「ようこそお越しくださいました。改めまして、当店の店長の遠藤と申します。それではお見積もりの話からさせていただきますので、そちらへおかけください」

 彼は受付カウンターの椅子を差して言った。遠藤が書類を用意している間、一人の少年がお茶を持ってきた。歳は十代前半だろう。しわの無い白いシャツに黒いベスト、そして紺のネクタイ。風格のある身だしなみだが、顔はやはりあどけない。胸の名札には、「小林」と書かれている。

「気になりますか?うちのアルバイト」

 クリアファイルに書類を入れた遠藤がこちらを見て言った。

「い、いえ!すみません」

 そう言う遠藤は微笑みながら席に着いた。

「あの子、K中の一年生でね。たしかK高に内部進学するんだとか」

 遠藤が横目で少年を見ながら言うが、少年は否定も肯定もしない。表情は少しも変わらず、窓際のマネキンよりも人間味が無い。人ならざる空白を感じる。

「じゃあつまり、私の後輩になりますね」

 梨乃は小林に笑いかけて言った。しかし小林は微笑みすら浮かべず、お辞儀を返すのみだった。

「さて、それでは仕立ての話をいたしましょう。ご予算と納期を中心にお話しさせていただきます。じゃあ小林、またあとで呼ぶ」

 遠藤が言うと小林少年は会釈をして、店の奥へ消えた。空白、垢抜けを感じないあどけなさに、“書き足す余地”を感じて目が離せなかった。あの少年は何が似合うだろう。いや、何でも似合う。何でも書き足せる。もしかしたらレディースも着せられるかもしれないほどに、アレンジの余地を秘めた素材だ。

 自分でも驚くほど無性に、あの子を飾りたいという衝動がこみ上げてくる。それほどまでに魅力的な素材だ。そしてこの少年を引き立て役として自分の側に置きたい。動物やスイーツ、夜景と同じように。

無論、自分よりは映えさせないつもりだ。


小林Ⅱ


 九月中旬某日、その放課後のホームルームで十月中旬にある学園祭のスケジュール表が配られた。初日は舞台発表が主である。バンドやダンス部のパフォーマンス、男装・女装コンテストやコスプレなどが計画されており、その最初がミスコンである。男子の部はまっとうな二枚目もいれば、運動部の悪ノリの参加者もいる。対して女子の部は少ない。それは出場者に、梨乃が居るからだ。

 ホームルーム終了後、クラスは学祭のステージ発表の話題で賑わった。部活の先輩が楽器を弾くだとか、伝統芸の帰宅部の漫才が楽しみだとか、来年は何をやりたいだとか、そういった話題だ。

 小林は、まるで興味が無い。定まったグループの定まったメンバーが定まった盛り上がり方をしている。そのテーマが学祭だろうがテストだろうが芸能だろうが変わらないように見える。人は群れると個性が死ぬ。ありったけの絵の具を混ぜると、似たような汚い色になるように、人は集まりすぎると一様に汚くなるのだ。

 SNSがそうではないか。芸能人や政治家のスキャンダルに、似たような語彙力で悪意を綴る。その群衆が国の規模だろうがクラス一つ分の規模だろうがその汚さは変わらない。人の群れは汚い。小林は汚れたくない。個性を希釈され、自我を殺され、混濁たるストレスの渦中にいる価値など無いであろう。

 やはり分からない。梨乃は何故その中心に立とうとするのか。

 漂着瓶の主たる百瀬を調べた。中学の頃から顔が広く、人付き合いが良いと評判が高く、当時は可愛らしさから学校全体のみならず他校からも注目されていたが、高校に進学してからは大人びた美しさを見せるようになり、さらに注目されるようになったという。

 高校に進学してからブログを始め、美容関連の記事や私生活の華やかさのアピール、そしてIT企業の若い社員と付き合っているという事実から、女子生徒のカースト最上位に君臨しているらしい。

 無論、彼女を良く思わない者たち、俗にいうアンチも大勢いる。特に女子生徒に多い。しかし表立って彼女に反発するわけにはいかない。梨乃を囲っている匿名のフォロワーを敵に回すまいという潜在的抑止力。自分より目立つ女子を未然に黙らせる地盤の固さ。表に出ないだけで彼女らの不満は沸々と煮えており、噴きこぼれ寸前である。

 だからこそ梨乃はその強い不満が爆発しないよう抑え続ける必要があり、しかし抑えるほどに不満は強まる。そして当の女子たちは自分以外がその不満を爆発させ、梨乃が地に堕ちればいいと思っている。梨乃には不満があるし、かといって自分が矢面に立ちたくない。火中の栗をいかに他人に拾わせるかという争いが女子の派閥の間で行われている。

 泥沼だ、汚い世界だ。胃もたれがする。どうして彼女らは自分の評価を気にしたがるのだ。いや、評価を求めているというより、悪く見られたくないのだろう。小林は荷物をまとめ、ざわつくクラスを後にした。

「あ、小林くん!」

 廊下に出たとき、聞き覚えのある声に呼び止められた。この中学棟にめったに訪れない女子高生、梨乃だ。

「こんにちは」

 振り返って温度の無い声で答えると、彼女は慎ましい笑顔でこちらに歩み寄った。彼女がいる時点で廊下での視線はすべてこちらに向けられる。しかも教室を出てすぐの場所だ、瞬く間にクラス中に注目される。

「中学棟に何か御用ですか?」

「ううん、小林君に会いに来たんだよ。ねぇねぇ、この子可愛くない?」

 そう言うと、梨乃は後ろにいる高等部の女子生徒数名に言った。校内で、梨乃派と呼ばれる女子グループの一部だ。

「わぁホントだ。めっちゃ童顔!ゆるふわメイク絶対似合う!」

「クール系もよさそうじゃない?あ、でも透明感あるからスーツ着せてミステリアスな感じにしたい」

「昨日スーツ姿見たよ、超ミステリアスだった!あー写真撮っとけばよかった」

 クラスがざわつき始めた。ああ、注目されたくない。知られたくない。

「ねぇ小林君、連絡先交換しない?」

「すみません、携帯持っていないので」

 本名がばれていないのが幸いだった。連絡先まで知られてはたまらない。小林はクラスメイトにすら交わらず生きてきた。人の集まりなど煩わしく、群れるほどに澱みが溜まる。何より人の群れの中で自分の明確な位置づけを、他者に強いられることが苦痛であった。

 今小林は、梨乃派に与するか否かを暗に迫られている。梨乃の魂胆は、小林を利用して注目度を上げることだ。百瀬に与すれば、反百瀬派が総じて小林を敵視する。しかし梨乃に反すれば、梨乃派からの風当たりが冷たくなるだろう。K高のように偏差値の低い学校は、そういった関係性が顕著だ。

「お、小林じゃん」

 背後から声がした。振り返ると、上り階段からやってきた郷がいた。薄手の青のパーカーに、黒の短パン、そして紺のロングソックスに学校のスリッパを履いた彼女は黒のキャップを被り、紺のリュックを背負っている。キャップにはピアスが空いており、リュックには刺々しいスタッズが着いている。その装いに、この階にいる中一の生徒たちがやや怯えている。ましてや郷の雰囲気では、レベル1のヤンキーに見えかねない。

「お、梨乃ち久しぶりー」

 やる気のない表情で郷が手を振る。梨乃は笑顔を返して手を振るが、郷のことが誰かは察しがつかないようだ。

「高千穂さん、何か御用ですか?」

「べつに、ただの母校訪問だよ」

「高千穂さん…あ、中学の時同じだった高千穂郷さん!?」

 梨乃の顔が輝いた—ように見えた—。なるほど。高千穂も梨乃もK中出身で、高千穂は他校に進学したが梨乃はエスカレータ進学したのだ。二人はかつての知り合いなのだ。

「あ、覚えててくれたんだ。それにしても中学の時より大人っぽくなったね」

 二人は嬉々として話しているが、梨乃の後ろにいる女子たちは笑みを浮かべつつ、顔色が良くない。梨乃の敵意を察しているのだ。梨乃は小林に会いに来て、恐らく自分の派閥に加えようとしたのだ。しかしそこに郷が介入した。梨乃は顔は笑っているものの、郷のことを良く思っていないのだろう。

 クラスがさらにざわつき始めた。郷は中一から見ればヤンキーじみていて、その郷と梨乃が笑みを浮かべて話している。梨乃からすれば、自分の印象が下がりかねない状況だ。

「それじゃあ小林君、これ、私のファインのID。携帯持ってなくてもブラウザ版で使えるから、連絡してね!」

 そう言って梨乃は小林に一枚のカードを渡し、取り巻きの女子たちを連れて去った。小林は思い出したように大きな息を吐いた。梨乃が去ってもクラスのざわつきが治まらず、背中に不快な汗が流れている。郷は息を吐き、小林の背を叩いた。

「変わんないなぁあの子は。取り巻きの子たちも中学からのイツメンだし」

「高千穂さん、本当は何しに来たんですか?」

「んー?ただの母校訪問だけど?ただ、次からは二度と来ないからね」

 薄ら笑みを浮かべる高千穂に、小林は真意を察した。

「高千穂さん、教えてください。あの人の瓶の満たし方」

 言うと、郷は笑みを浮かべて踵を返した。まるで遠藤のようだ。遠藤の何かを真似たのか、あるいは影響を受けたのだろうか。

「いいよ、教えてあげる。遠藤さんに連絡しといて。高千穂が“第三客室”使うって」


梨乃Ⅱ


 仕立屋の少年からファインで連絡が来た。内容は、TWENTYにて特別なオプションがあるから紹介したいという事らしい。日曜の昼なら空いていると答えたら、その時間に合わせてくれた。

 ブラウンのワンピースに白いベレー帽、髪の後ろを黒のヘアピンで留め、黒のチャンキーヒールを履いて出かけた。格式ある仕立屋へ出向くにあたり、軽すぎる服装は良くない。

 連絡していた時間より十分ほど早く着くと、受付カウンターにはすでに小林がいた。学校では制服、ここではスーツを着ている。彼のオフを見たことが無いし、想像もできない。ドアを開けると、彼と目が合った。

「いらっしゃいませ、お待ちしておりました」

 カウンターから出てきた小林がお辞儀をして出迎える。この歳で大人のような丁寧な所作だ。綺麗なスーツがそれを際立たせている。

「えっと、今日はこのお店でオプションがあるって聞いたんだけど」

「はい、オーダーメイドとは別のサービスがございまして、それをご紹介させていただきたく、お越しくださりました。こちらの部屋へどうぞ」

 小林に招かれて、梨乃は廊下の奥へ進んだ。すると、不思議な部屋へ招かれた。最初に目に映ったのは壁を埋め尽くすほどの棚と、そこにびっしり詰め込まれている大小色とりどりの瓶、時計も窓もなく、外の音も聞こえない。そんな部屋の中央に一つのテーブルと、向かい合わせで置かれている椅子が二脚ある。小林は片方の椅子に座るよう促した。

 テーブルは紺のテーブルクロスが敷かれてあり、その上にはティーセットが置かれている。

「お飲み物はいかがされますか?コーヒーとお茶、ホットとアイスがご用意できますが」

「えっと、ジャスミンティーのアイスをお願いします」

 かしこまりました。そう言うと小林は慣れた手つきで茶を淹れはじめた。ティーパックでいいのにと思ったが、この店のこだわりなのだろう。

「そういえば、オプションって具体的にはどんなもの?」

 小林はティーポットにお湯を注いで蓋をし、茶葉を蒸している。砂時計を逆さにし、目線をこちらに合わせた。

「この店は服だけではなく、お客様の“お気持ち”を取り扱います」

「客の“気持ち”?」

「正確にはもっと幅広く取り扱います。感情、感覚、感受性、記憶、技術、意欲、潜在意識、人の内側に在って、しかし決して形にならないものを形として変え、それを売買することができます」

「人の内側にあるものを売買?」

 ばかげた話だ、と思った。しかし見渡してみると周囲の異質な瓶、これらは瓶であることは見えるが、瓶の中身はまるで分らない。液体だったり結晶が混じっていたり、光ったり濁ったりと、現実では考えられないものを取り扱っている。

「それで、私にも売買ができるってこと?」

「ええ、そして、お金は一切いただきません。ご自由にここの瓶をお持ち帰りし、あるいは百瀬様の“何か”をお売りくださっても構いません」

「何を売ってるの?」

「ちょうど、今の貴女にぴったりの商品があります。こちらです」

 そう言うと小林は棚から一つの瓶を取り出して机に置いた。ワインのボトルのような形と大きさで、表面は低いところに花、その上に蝶と鳥、そして細くなっている瓶首に差し掛かるところで月と星の彫刻がある。

「これは?」

「とあるお客様が残した“美意識”です。何かを見たり聞いたりして美しいと感じる心。何を見てどのように感動するかは、人それぞれです。しかしこの瓶はとあるレディースファッションの著名人が有していた美意識です。少しだけお試しになりたければ、瓶に触れてください」

 そう言って小林が差し出した瓶に触れてみた。すると、指の肌から内側の血肉に何かが響き、骨を揺すりながら全身に脈を広げていく。驚いて指を放すと、その感覚が消えた。

「恐ろしいですか?」

 小林が言うが、梨乃はもう一度試した。他人の美的センスを自分のモノにできるのだ。試すだけなら、ぜひ知りたい。

 もう一度瓶に触れ、瓶に封じられた感性を自分に溶かした。なるほど、見る世界が変わった。小林のスーツの着こなしが、いかにこの場に相応しいかがわかる。自分のコーデの抜け目が目立つように感じるが、逆に家にある服でより良いコーデを幾通りも思いつく。自分の知らないメイクが泉のように湧き出て頭に浮かぶ。

 これが欲しい。これが必要だ。

「いかがでしょう?」

「これ、貰います」

 そう言うと、小林は瓶を白く長い箱に入れ、黒地に金の文字でTWENTYと書かれた外紙で包装をした。金のリボンで結ばれ、まるで星空を持ち歩いているようだ。

「最後にこちらを差し上げます。この招待状があれば、いつでもお越しくださることができます」

 そう言うと小林は一枚のカードを差し出した。黒地に金の文字でTWENTYと書かれた名刺大のカードだ。

「ねえ、小林君、お願いがあるんだけど」

「はい、何でしょうか?」

「学園祭のミスコン、一緒に出てくれない?このお店のワンピースもそのために作ってるの」

「どうして私なのでしょう?」

「この美意識に触れてわかったんだけど、私なら君を学校で一番かわいい子か、かっこいい子にできる。だから私と同じステージに立ってほしいの」

「——考えさせてください」

 ガラスのように透き通った声で小林はそう言った。梨乃は思わず笑みをこぼした。これで自分のセンスをより広くアピールできる。学祭とはそういう場だ。より輝かしい者が君臨するための場だ。

 この店の服と美意識があれば、校内で一番になれる。そうすれば、誰も私を嗤わないだろう。


小林Ⅲ


「いいぞ、第三客室使っても」

 遠藤は軽々しく承諾した。第三客室とは何であるかという説明は郷から聞いたが、そう軽率に使えるものではない。

「それはそうと、彼女のワンピース完成したぞ。見てみるか?」

 作業部屋に行くと、出来たてのワンピースがハンガーにかけられていた。濃いネイビーブルーを基調とし、袖とスカートには花柄の黒いレースで飾られている。シルクでできた質感たるや、息をするのも憚られる品格があり、一片の皺をつけることも許されぬ緊張感がある。

「いやぁ、大人だねぇ、これを着こなすにはメイクにヘアアレンジはもちろん、靴や鞄にも気を使わないといけない。サンダルだったら足のネイルもアレンジ利きにくいし、何より女子高生のファッションにしてはTPOが限られてるんじゃない?無理やり大人びてる感が丸出しなんだけど」

 同席している郷が言った。それに遠藤が口を挟む。

「服は様々な役割がある。集団への帰属を促すものや、自己表現の一手段など。だからファッションに正解は無いし、ゆえに誰が何を着ても許される」

「ファッションに正解は無いけど不正解や不適切はあるよ。百瀬さんの場合、服そのものではなく、金持ちの彼氏に高い服を買ってもらえるというステータスが欲しいわけで、自分が着るであろう服を軽んじてる。それは正しくない気がする」

「そうかもな。小林はどう思う?」

 遠藤が唐突に話題を振ってきた。遠藤は仕立屋としての持論を持っている。郷は梨乃の人となりを知ったうえで否定的な意見だ。梨乃が大人の財力で、身の丈に合うかも分からない高い服を買う。別に誰に迷惑をかけているわけでもあるまい。小林は何とも思っていないというのが本心だ。

「特に何とも思わないです。着たければ着ればいい。それだけです」

「なら質問を変えよう。彼女はこれを手に入れて、どうなると思う?」

 小林は少し考えこんだ。隣では郷が頭を悩ませている—か、そのフリをしている—。服が人に影響を与えることは自分でもわかっている。しかし、幾度か女装をしたことがあっても自分を女性だと思ったことはなかった。それどころか今こうしてメンズスーツを着ていることが本来の自分であると疑わずにいる。結局のところ、誰が何を着ようが、当人は当人なのだ。たかが一着や二着の服で内心が揺らぐようであれば、その人は大した自己形成ができていない。あるいは、自己形成を外部に委ねすぎているのだ。

「服に負けるような人間は、きっと何を着てもその程度の人間です」

「ふむ、いい答えだ」

 遠藤はそう言ってワンピースをハンガーから取り外し、丁寧に畳んで紙で包み、箱に入れた。

「美意識の瓶はもう売ったんだろう?もしあれを使うのなら、この服は彼女のセンスに刺さるはずだ。何としてもそれを着て、何としても人に見せようとするだろう。SNSにでも上げる気だろうな」

「それにあの子は校内でカースト上位になることに固執している。多少の敵を作ってでも自分のカリスマ性を高めたいと思っているのよ」

「じゃあつまり、この服は高い確率で学校の生徒さんたちにお披露目しようとする」

「そう、そしてその絶好の機会は、学祭のミスコン。調べたんだけど、あの子は誰よりも先に参加申請したんだって」

 一般のミスコンは制服着用が義務づけられている。しかしK高校のミスコンは自前の衣装が許されている。郷の調べによると、今回梨乃が注文した服は、ミスコンの服装規定に抵触しないようだ。

「じゃ、小林くん。あたしと仕事しよっか」

「え?」

「今日は商品の受け取りと支払いに、梨乃ちと彼氏の多田さんが来るらしいの。二人を尾行するわよ」

「どうして二人を尾行するんですか?」

「このワンピースでミスコンに出場するなら、他にもコーデを揃える必要がある。ヘアアイテムや靴、アクセサリー、メイク道具まで知り尽くさないと。梨乃ち一人で買えるものじゃない。だから彼氏さんがいるときに揃えるはず。だからあの子たちを尾行して情報を得る」

「どうしてそんな情報を得る必要があるんですか?」

「あの子の漂着瓶見た?」

 梨乃の漂着瓶、第二客室に流れ着いていたものだ。薄くて脆く、小さい。そして内容物は満ちたり減ったりと、まるで海の満ち引きの様だった。

「霊素生物学において、生命は“リズム”と“網”という要素で形成される、という概念がある。彼女の瓶、周期的に満ち引きを繰り返していたでしょ?心臓の拍動や呼吸のように。そういった性質は“リズム”に属し、より生命の根源に近しいものなの」

 そう言われて、梨乃の瓶を手に取った不快感を思い出した。たしかに一定のリズムで満ち引きするあの瓶は、まるで誰かの生きた肺を手に乗せているような不気味さがあった。

「あの子は生命を脅かすレベルで心が自身から乖離している。手遅れになる前に手を打たないと」

郷の声色はいつしか少しだけ緊迫しているようだった。

「それはそうと、どうして百瀬さんのコーデを知る必要が——」

 すると、ドアベルの鳴る音がした。来客だ。

「おっと、ターゲットだな。俺が出てくる。じゃあお前ら、裏口から出て後をつけるといい」

 そう言って遠藤は商品をもってエントランスに出た。残された小林と郷は、足音を忍ばせて部屋を出た。

「その前に着替えなさい。まさかスーツで尾行するわけじゃないでしょ」

 郷にそう言われ、そしてロッカールームに行くように言われた。

「壁際の一番奥のロッカー、変装用の服がいっぱい入ってるから、目立たない服に着替えて、他にも三組くらい鞄に入れて持ってきな」

「え、なんで変装用の服が常備されてるんですかこの店」

「変装するためよ」

 答えになっていない。

 ひとまず小林は郷とロッカールームで一時別れた。その時、郷からあることを聞かれた。

「ねぇ、偽造と捏造の違いって分かる?」


 ターゲットが退店。二人は車に乗って中央通りに出た。郷は小林をバイクのパッセンジャーシート(二人乗り用の座席)に乗せ、ヘルメットを被って発車した。

 百瀬たちが乗った車は中央通りを上り、市内最大のショッピングモールへ向かっていた。二、三台他の車両を間に挟みながら追従し、目で追いながら彼らの注意範囲の外側に居続ける。

 車はショッピングモール、Kモールに停まり、二人は下車した。多田はフォーマルなジャケットにスラックス。ヘアスタイルも落ち着いており、温和で柔らかい表情や立ち居振る舞いに適している。対して百瀬はロゴの大きいバッグや煌めかしいアクセサリーが最初に目立ち、ブランド物にひたすら身を包んでいる。手の込んだヘアスタイルに、足し算に特化したようなメイク。煌びやかな女性がいるというのは分かるが、その人らしさが見受けられない。

 気付いていようか。他の誰かが同じ服を着ても、今の貴女と同じようにその目に映るという事に。つまり、貴女は他の女に簡単に埋もれてもおかしくないのだ。

 郷と小林はバイクを降り、ヘルメットを外した。こちらの正体がばれないように服装だけでなく顔も変えている。郷は男装をしてきた。ウィッグで短い茶髪を装い、黒ぶちの眼鏡とピアスを着けている。遠藤は小林を幾度となく女装させてきたそうだが、気持ちは分かる。小林は素朴でありながら顔が整っているのだ。そういった少年を可愛らしく描きかえて変化を楽しみたいのも分かる。だがそれは郷の趣味ではない。

 小林には、何もしなかった。

 黒のパーカーとデニムのジーンズというありふれた衣装を着せた。小林は無個性、自らを飾ろうとしない極めて希薄な存在。それが活かされる時がある。例えば、今のような隠密行動など。

 百瀬と多田は二階へ向かい、靴屋に向かった。Kモールで最も高価なハイブランドを扱う店だ。郷と小林は店の前まで行ったが、店には入らなかった。その代わり、郷は店の近くのベンチに腰かけ、パソコンを開いた。

「じゃあ子機、いってらっしゃい」

「誰が子機ですか」

 小林にモバイル受信機を持たせ、二人に接近させた。狙いは多田の携帯、そのキャッシュレス決済アプリだ。TWENTYでもそのアプリで支払った。その時多田のIPは盗んでいる。だから逆探知も容易い。だが小林に持たせた受信機を中継することでアプリを覗き見る精度が高まる。

 多田の購買履歴を、すべて盗む。プライドの高い百瀬はミスコンで高価なものしか着ないし、それは多田しか買えない。ゆえに多田が買い与えたものをすべて覗き見ればミスコンでの百瀬のコーデの材料を知ることができる。

 百瀬は流行に敏感で、なおかつ飽き性である、購買履歴から直近の、せいぜい一か月以内のものが分かればいい。その中であのワンピースに合うものを探し出せばある程度のコーデの予測はつく。

 さらに、今の彼女はあの“美意識”の影響下にある。その美意識に誘導されて、より一層コーデが絞られてくる。しかしそれでは不十分だ。

 しかし百瀬よ、時間かかりすぎ。

 多田と過ごす時間が楽しいのは分かる。しかし靴ひとつ選ぶのに一時間はかかりそうだ。小林には彼らから常に十歩以上離れるよう指示を出しているが、見るからに退屈そうである。小林は店員から声をかけられた。読唇したところ、「迷子ではないです」と答えている。

 郷はため息をつき、パソコンでファインを開き、小林に戻ってくるように指示した。小林はすぐさま戻ってきて、郷の隣に座った。

「高千穂さ——」

「シアン、私はシアン」

「そうでした。シアン、これ持ってきましたけど」

 そういって小林が差し出したのは、あろうことか、多田の携帯だった。

「ちょっとあんた——!」

「早く履歴盗んでください。すぐ戻してきますから」

 胸の内が冷えたが、急いで多田の端末にデータを繋ぎ、購買履歴を盗んだ。携帯を小林に渡すと、小林は足音もなく多田の背後に忍び寄り、ジャケットのポケットに携帯を入れた。

 その様子を見ながら郷はこの店の防犯システムに侵入し、監視カメラの映像をずらした。小林が多田の携帯を盗んだ映像と戻した映像の記録を誤魔化した。

 すぐさま小林はこちらに戻り、再び隣に座った。

「二度としないで。危険すぎる」

 小林は頷いた。

「これで欲しい情報は得られましたよね」

「まだよ、これから買うであろう商品の情報も得なきゃいけない。だからしばらく、君は受信中継を続けてもらう。彼の購買記録をリアルタイムで覗き見る」

 小林は音もなく頷いた。彼の知られざる特技を見た気がする。気配をここまで消せるのは、遠藤以外で初めてだ。事実多田は、自分が携帯を盗まれたことに気付いてすらいない。一緒にいた百瀬も小林に気付いていない。

 まるで、TWENTYの第二客室の構造と同じだ。郷は思った。あの部屋は、本来人に認識することはできない。部屋の主に招かれなければ入ることはできない。建物の構造上、どの位置にその部屋があるのかを分かっていても、その部屋の出入り口を脳が認識できないのだ。とすると小林は、人の形をした第二客室なのではないか?

「シアン、お会計のようです」

 小林に言われて我に返ると、確かに二人は箱を一つ抱え、レジに立っていた。パソコンの画面を見ると、多田がアプリで会計を済ませているのが分かる。

 二人は次の店に向かった。

「行こう少年」

 そう言って郷は立ち上がり、小林もそれに続く。

「そういえば、どうしてシアンって呼ぶんですか?」

「隠密行動中だから」

「いや、本名隠すのは分かりますけど、シアンの由来はあるんですか?」

「今の上司がマゼンタだから」

「今の上司?」

「そ、現在ロックダウン中のセカンドシティでのバイト先の上司」

「何のバイトしてるんですか?」

「うーん、探偵エージェント?」




梨乃Ⅲ


 学祭一日目、快晴であった。開会式は体育館で行われ、そのままステージ発表が行われる。体育館は二階建てで、ステージは二階、一階は卓球場や柔道場などがあり、今日は男女別の更衣室や準備室として使われている。

 午前中はミスコンから始まり、その次に男装、女装コンテストがある。そのあとコスプレコンテストで正午を挟み、午後はバンドやダンスなどのパフォーマンスが開かれる。

 梨乃が参加するミスコンは男子が先に行われる。着替えが少ないことと、開幕を盛り上げるネタ要因として会場の温度を上げる伝統があるからだ。その後の女子の部でも、梨乃は番手が一番後だ。前座の有象無象どもが適度に場を盛り上げつつ、最後に私が華を飾る。梨乃より前の番手を選んだ子たちは、自分が梨乃より劣っていることを知りつつ、何の努力もせず痛みの少ないポジションを選んでいる。

 彼女らは確かにいつもより可愛かったり美人だったりする。だがそんなものは日常とのギャップ頼みにすぎない。安い努力、安い満足、つまらない世界だ。ゆえに梨乃に敵がいない。

 韓流コーデやファッション誌の単なる模倣、メイクもアクセサリーも安上がりな仕上がりだ。ゆえに短時間で支度が整い、彼女たちは二階のホール前に向かっている。最も手のかかる梨乃は最後まで更衣室にいた。

 小林のことが悔やまれる。結局あの子からはファインで断られた。あの子が一緒に参加すればきっと誰もが注目しただろう。あの子と二人で知名度を上げられただろう。だが少なくとも他の女を引き立てる意志はなさそうだった。それだけでもまだましだったと言えよう。

 編み込んだ髪を低い位置で結び、パールのアクセサリーを着けたスタイルに、長いまつげと薄紅のチーク、淡いリップでようやく整えた。全て学生では買えない代物である。鏡を見ると、田舎の女子高生とは思えない淑女がいて、胸の内が満たされるのを感じる。誰かが捨てた美意識が満足しているのを感じるのだ。

 そして最近多田に買ってもらったハイブランドのハイヒールを履き、ホールへ向かった。ハイヒールで階段を上るのは骨が折れたが、これだけ着飾って靴だけ普段の汚い上履きというのはみっともなく思えた。

 体育館の扉の前に参加者の女子の列ができている。前の子たちはどう見てもお遊びのような身だしなみだった。梨乃とは本気度が違う。SNSでも他の子より梨乃を楽しみにしている声が多い。今日は私が主役。これは私だけのためのステージ。そう、他者を差し置いて自分こそが優位であるという愉悦こそが自分の追い求めるべき高みである。

 ホールのドアの向こうから熱気が伝わる。ドアを越え列の最後尾まで伝導する熱を帯びた待望。それは私に向けられているものだ。私の前にいる前座になど誰も興味を持たない。せめて彼女らの身内が盛り上がるだけだ。本物の熱源は、私だ。

 分かるまい。この昂りを。胸の芯が沸騰し、足が浮くような心地になるほどの高揚、この膨大な熱気を支配するという全能感。安い努力と安い結果に甘んじるお前たちに分かるまい。これが私の高み、私の成果。さあ、早く扉よ開け。早くその熱を浴びさせなさい。

「まもなく始まります。一人ずつ入ってください」

 案内係が言った。最初の一人が入場し、会場から歓声が上がる。なるほど、あの子であの程度か。では私の歓声はもっと賑やかになる。一人、また一人と入場するごとに、会場の熱気が増す。そしてこの胸も昂り、速く流れる血が冷たくなるのを感じるほどの緊張に苛まれる。いや、この緊張は私の味方だ。この足の震え、痛むほどの鼓動、詰まるような息、私が私を高めるとき、この緊張はいつも私の傍にいた。

 一人ずつ暗いホールに足を踏み入れるごとに会場は熱を増し、しかし声はだんだん落ち着いてくる。観客が退屈し始めた。このままでは私の番になると空気が冷めてしまう。早く早く私の番が来いと思うほどに、汗ばんだ手を握りしめる。会場に熱気を吸い取られていると紛うほどに、緊張で血が冷めていく。そしてついに、私の番が来た。

 ああ、ようやく報われる。ずっと待っていた。昂る胸は足を軽くし、開かれた扉の先の暗闇へと足を進めたとき、思いもよらぬことが訪れた。

『それではここで最後の百瀬梨乃さんの前に、飛び入り参加者が入場します!いったいどんな人なのでしょう!それでは、お入りください!』

 踏み出した足が急に重くなった。飛び入り参加者なんて聞いていない。だが大丈夫だ。何者だろうと、ここまで本気を出した私に勝てるはずがない。前座が長引くだけだと自分に言い聞かせた。しかしこの列にはもう梨乃一人しかいない。飛び入り参加者などどこにいるのだろう。

「お先に、失礼いたします」

 聞き覚えのある声に背筋が凍った。声の主を一瞥すると、一体どこにいたのか、急に現れるや否や、ドアの向こうの闇へ消えた。いや、待って——。

『さぁ、K高校中等部からの飛び入り参加です!拍手でお迎えください!』

 声でわかる。小林だ。私の誘いを断った小林が、サプライズ枠として参戦している。その姿を見て手先が震え、足に力が入らない。ああ、私の積み上げてきた努力が、全て奪われてしまう。

 やめて、行かないで。せめて私を先に行かせて。心が哭いていた。

 小林は女装していただけでなく、ドレスもヘアスタイルも、さっき一瞥した時に見たメイクも、梨乃と全く同じものだった。


小林Ⅳ


 入場したときは、盛り上がるどころか静まり返った。というより、驚いてリアクションが分からなくなったのだろう。中等部生だと紹介され、登場したのはおそらくみんなの予想を大きく下回る小柄な一年生。明らかな子供が参加したという意外性にみんなは驚いている。

 ホールの中央にランウェイを模したような高い通路があり、階段を数段上がってその道を歩いた。ハイヒールの歩き方は、遠藤と郷から嫌になるほど教わった。踵からつま先の順に着地、目線は前をまっすぐ見つめ、一歩踏むたび重心を揃え、背筋をずらさない。歩きだけで一日三時間は練習していた。体の軸をブラさない練習、一定の適切な歩幅を保つ練習、腕の振り方から手の軽い握り加減まで、とにかく姿勢を身に付けた。

 ドレス、メイク、ヘアアクセサリ―、ネイル、何もかも梨乃を模倣した。靴も梨乃の履いているものと同一のものを選んだが、これだけは遠藤が作った。靴は正しく選ばなければ正しい歩き方ができない。だが所詮田舎の高校の学園祭、そんな細かい差異など素人に分かるまい。むしろ、無理してブランドを履いている梨乃に対し、歩き方の出来栄えで差をつけることができる。

 小林は郷の指示で、あえてゆっくり歩いている。観客にこの姿を覚えてもらうため、そして待機中の梨乃のプレッシャーを増やすためだ。遠藤並みに悪質であると、小林は思った。

 すると徐々に歓声が上がり始めた。素人の彼らにも、「なんとなく本格的」な雰囲気が掴め始めたのだ。中学生という意外性と、ハイクオリティな仕上がりというギャップ。見たものの記憶と印象に深く刻まれることに成功した。

 美しいとか可愛らしいいとか、本来ミスコンに求められる評価は得られないだろうが、学生の祭りを盛り上げることには成功している。

 途中、何度か立ち止まっては振り返り、ドレスのスカートを左右の指でつまみ上げて膝を曲げる一礼、カーテシーというお辞儀を披露すると、歓声が上がる。学生はパフォーマンスが好きだ。初めは冷めていた会場が、今はこの日最大の熱気を放っている。全員が小林の一挙手一投足に注目し、この熱量を自分が操っている細やかな全能感。たしかに心地よいが、もうすでに小林は飽き始め、心は仕事モードに戻っていた。

 ひとしきり会場を盛り上げながら通路を渡り、ステージに上った時、改めてカーテシーを披露した。背を曲げず、膝を曲げるだけで優雅さを表す。静かでそれでいて品格を表す仕草だ。

『それではチャレンジャー、クラスとお名前を教えていただけますか?』

 司会者の高校生からマイクを受け取り、小林は名乗った。

「一年一組、  です。ちなみに、男です」

 この自己紹介で、会場は今日最大の驚嘆に包まれ、窓ガラスが微かに揺れるのを感じたほどだ。中一の男子が他の参加者を凌ぐクオリティの装いと、それを着こなして歩く高い完成度。ただの意外性だけでなく、本格的な出来栄えが彼らを興奮させ、会場は一気に騒がしくなった。

 さらに小林は、顔立ちが男と女のどちらにも偏っていない。つまり男装すれば男に、女装すれば女の顔になる。変装の名手である郷とその師である遠藤により、小林は高校生を凌ぐほどの風貌に作り替えられていた。

 このドレスはもともと遠藤が梨乃に納品する分と併行して作っていたもので、その他アイテムはシアンこと郷と一緒に情報を盗んで同じものを揃えた—TWENTYの経費で—。メイクやヘアアレンジは列の最後尾に並ぶ梨乃を、傍受した監視カメラで観察しながら郷が即興で仕上げた。

 今小林を見て興奮している彼らは、この後小林と全く同じ装いの梨乃が登場することを知らない。

『それでは最後の参加者、二年一組、百瀬梨乃さんです!』

 司会者のマイクからその名が発せられた時、会場は歓声に包まれた。実際校内では梨乃の名前はそれほどの影響力がある。きっとみんな期待しているのだ。自分の知らない感動、見たことのない驚き、勝手に期待し、その期待に相手が適うことを当たり前だと思って疑わないという罪。そして覚悟もなくその罪を散々煽った者がいる。

 罪を被る者がいて初めて、誰かがその罪に名前を付ける。

 名を呼ばれて数秒の沈黙があって、紺と黒の大人びたドレスを着た梨乃がランウェイに上がった。小林と全く同じ姿、全く同じヘアスタイル、全く同じメイク。意外性をもって期待を裏切られた観客は、次第に冷めていった。

 さっきのと同じではないか。でも女子高生であるならこっちの方が似合っている。いや、歩き方と表情がさっきの少年より下手だ。あの少年のメイクは落ち着いていて服と雰囲気に合っていたが、こっちは明るすぎて不釣り合いだ。なんだろうか、プロの後に素人が来たような感じがする。静まり返った会場に響く環境音の隙間に、そんな評価が零れて聞こえる。

 歩き方から緊張が伝わってくる。自信が折れているのが姿勢に表れている。青ざめた表情、震える足取り、それでも笑顔を取り繕っている。一部の男子生徒からカップル煽りをされて汚い笑いが起きていたり、百瀬派の女子の申し訳程度の声援が飛び交ったりと、当人にしてみれば最悪の空気だ。

 郷が言っていた。—他の誰かが百瀬と全く同じ装いを使えば、百瀬はきっとその他の誰かに負ける—つまり、百瀬は外面に執着するあまり、自分の強みを磨くことを怠っていた。そのツケが今ここに降りかかっているのだ。

 ランウェイを終えてステージに上がった梨乃は青ざめた笑顔のまま、マイクを受け取って明るく自己紹介をした。

「皆さんこんにちは!百瀬梨乃です!」

 高そうな装いに綿密なメイク、それだけで十分他の生徒を圧倒している。しかし直前に出鼻を挫かれたことで動揺し、パフォーマンスが鈍った。失敗したという焦りが観客にはっきりと伝わり、観客は彼女の美しさよりも「自信なさそうな人が歩いてきた」という方に注意が向かってしまうのだ。

 彼女が思っているほど、人々は外見など重視していないというのに。

『それではお配りした投票用紙に、今年のミスを選んで投票してください!ちなみに  くんは飛び入り参加なので、投票の対象外とします!』

 会場から落胆の声が一斉に響く。

 安心してください百瀬さん。彼らはきっとすぐ僕に飽き、来週には忘れています。そう伝える代わりに、小林は梨乃に歩み寄った。

「お話ししたいことがあります。正午、三号棟の理科室に来てもらえますか?」

 梨乃は笑顔を張り付けたまま、なにも反応しなかった。


小林Ⅴ


 昼下がり、長袖の制服に着替えた小林は先に理科室に着いた。真っ黒の机、背もたれの無い椅子、束ねられた遮光カーテン、重厚な蛇口。机上には試験管やビーカーなど、実験器具が置きっぱなしにされている。

 階下で微かな賑わいの声が聞こえるが、ここはそんな世界から切り離された孤絶感がある。校庭も教室もお祭りモードであるのに、この部屋はいつものままだ。部屋も、着替えることがあるのだ。

 少しして梨乃が入ってきた。いつもの制服姿に戻っているが、顔色があまり良くない。

「もう小林君、びっくりしちゃったよ。双子コーデ揃えてるなら言ってほしかったな。一緒に並んでればもっと盛り上がったはずなのに。あと、小林君の本名  君って言うんだね。なんだか覚えにくい気がするけど…」

「騙していてごめんなさい。でも貴女に必要なことだったんです。貴女が自分を満たすために」

「え、どういうこと?私は満たされてない人間ってこと?」

 張り付けたような笑顔から棘のある空気を発している。郷が言っていた“発動条件”に近しい心理状態だ。

「言わないつもりだったけどさぁ、君自分が最低なことしたの分かってる?予告も無しに舞台に上がって人の見せ場奪うのって最悪だよ?」

「誰にとって最悪なのでしょう?」

「それは…会場のみんなよ。そうよ、これは、みんなの思い出を作る場所なんだから、最後の最後が興ざめしたらみんながっかりするよ」

「では会場の人たちが求めることをすればよかったのではありませんか?観客が僕を見て盛り上がっていたのが分かっていたのなら、僕を引き立てれば会場は冷めずに済んだはずです。つまり貴女は会場の空気を言い訳にして、自分の出鼻を挫かれたことに憤っているのです」

「なによそれ、私がそんな自己中だって言いたいの?」

「貴女はこれまで、自分の外聞ばかりに執着していた。それは貴方の強みでもありますが、現状、貴女のためになっていません。未来が狭くなる思考です」

「何の話をしているの?」

「貴女は周囲や他人ばかり気にして、自分を磨いていない。せいぜいファッションやステータスなど軽々しい外付けばかりを磨いている。努力が自分ではなく他人に向いている。そんな人間は、遅かれ早かれどこかで折れる。早い段階で折れないと、取り返しがつかなくなる」

「ねえ、本当に何なの?どういう立場でそんな話をしているの?そろそろ怒るよ?」

 梨乃の眼差しに鋭さが宿り、声も震えはじめてきた。小林ですら、頬がピリピリするのを感じる。順調に梨乃の心をむき出しにしつつある。これまで彼女自身が疎かにした、あるいは避けていた心理に向き合わせる。それを怒りという免疫反応で拒絶している。これではだめだ。強制的にでも自分の心の弱点に向き合わなければ心の穴を埋めることはできない。

「貴女からフォロワーや世間体を奪って何が残る?他人からの評価を寄る辺とする生き方は疲れる割に報われるものが少ないはずです。ファッションにしても常に流行に合わせる必要があり、ころころと自分を変えていく必要があり、自分の好みに落ち着く暇がない。ネット上での立場と実社会での立ち位置も気を配る必要があり、当然に心に負担になる。

いつまでそんな生き方を続ける気ですか?」

「どの目線で言ってるの?」

「貴女の心に聞いてみてください。ネット上で評価されたときに感じる幸福感。それは一時的なものでしょう?貴女は自分を充足させる方法をそれしか知らず、その多くを他人に委ねている。自分の力で自分を満足させたことがありますか?その一時的な幸福のために、貴女は神経をすり減らしながら、一人でも多くの他人の目を引く努力をしている。

例えばそれでフォロワーが増えたとしたら、やがて貴女はその一時的な喜びに麻痺し、もっとフォロワーを増やさなければ満足できなくなり、より自己顕示がエスカレートしていく」

「そんな馬鹿な話いくらでも聞いたことあるよ。君と違ってそういう世界は長いから」

 ついに梨乃の顔から取り繕った笑顔が消え、少しずつ紅潮している。

「では自分がそれに陥っていると気づいたうえで、改善せず沼にはまり続けていると?」

 梨乃はついに怒り心頭に発したようだ。空気の痺れが頬を透かして血肉を震わし、息が詰まりそうだった。

 これが、人の怒り。心の乏しい小林もまた、他人の感情に共感することでしかその感情を理解できない不完全な人間だ。梨乃を悪く言うことはできない。自分とて同類なのだ。

 怒りに駆られた梨乃は涙を浮かべながら顔を紅潮させ、机に置いてあったビーカーをこちらに投げつけようとした。発動条件は満たしたはずだ。もうそろそろ頃合いだろう。郷さん。

 音もなく梨乃の背後に立った郷が、指輪をはめた左手で梨乃の背に触れた。

——第三客室——。


梨乃Ⅳ


 不思議な心地だった。まず景色が変わり、次に音が変わった。先ほどまでいた部屋の壁や天井が溶けてなくなり、代わりに別の空間が現れた。どの方向も薄明るい闇が揺らめき、足元も床が溶けて、代わりに浮遊感を踏んでいた。

 水中とも泥中とも言えぬおぼろげな空間。次第に意識すら曖昧になる。もうすでに自分の名前も言えなくなっていた。時間感覚もない。ただ泥のような水中に、浮くでも沈むでもなく漂っているだけだ。

「酔いそうね。すぐ終わるから頑張って」

 誰かの声がした。顔が見えるが、それが誰か分からない。

 やがて自分の体が溶け始めた。自分と、自分以外の境界が曖昧になっているのだ。初めからそうであったように、この体は周囲の空間に染み出していった。

「どう?怖い?貴方自身が少しずつ溶けていってるの。瓶に詰めた煙が空気に溶けて逃げるみたいに」

 瓶、煙、単語の意味が理解できなくなっている。もはや手足の感覚も、皮膚の感覚もない。限りなく“無”に近づいた気分だ。

「覚えなくていいけど、これは“第三客室”という技術。壁も天井も床も、入口も出口も、時間もエネルギーもない部屋。発動条件はその人の心の最も大きく占めている感情を最大出力すること。貴女の場合、虚無への恐怖心。なにも無くなる自分が怖かった。そうよね」

 言葉は耳に入れど、その意味を介することはできない。しかし外殻を溶かされ剥き出しになった本心は、彼女の言葉に頷いた。

「これが、貴女自身。この第三客室は他人に与えられたものを強制的に流出させ、貴女自身の主成分を最後に残す人格を抽出する手段。この記憶を外に持ち出すことはできない。最もコスパの悪い自白剤と言われている結晶術よ。つまりこの部屋にすべてを溶かして奪われ、最後には貴女の自我すら残らなかった。これが、貴女の欠落よ」

 その言葉に、溶け流された感情の一つが蘇った。嫌悪だ。自分の核心を貶された。その嫌悪が蘇ったが、それは何も生み出さなかった。声は続ける。

「この部屋ならいつまでも自分を見つめなおすことができる。自分が何を嫌い、何を好むか。自分のことを自分で説明できるようになれば、少しは自我が確立できるでしょう」

 相変わらず言葉の意味が理解できない。脳まで溶かされているのだから。だが彼女の声は、誰にも触れられたくないこの人格の核心に悪意なく触れ、そして何かを与えようとしていることは感じられる。

「可哀そうな貴女のために、あたしの今の上司の言葉を貸してあげる」

 部屋の温度が変わった。微かな温もりが、鼓動のようなリズムで押し寄せてくる。自分の核を守るものが無いから、それが直接響いてくるのだ。やがてその声が聞こえた。

「芯を持ちなさい」

 言葉の意味は分からなかった。代わりにこの声が持つ熱が直接伝わってきた。心を揺さぶられ、徐々に熱を帯びた脈が枝分かれし、溶けて見失った四肢を形成していく。

 指先まで熱が戻った。足が地を踏んでいる。見渡せば薄明るい泥水の中にいる。

——やればできるじゃない。

 別の声が聞こえた。大人びた女性の声だった。

 闇雲から自我の一部を確立するという体験は、溶けずに残った心に響いた。得も言えぬ高揚、そして、更なる熱を求め、進もうとしている。もっと早くこの熱を知っておけば、自分は変わっていたかもしれない。

 いや、変われる。変わってみせる。具体的な成功体験を得たわけではなく、誰かに何かを肯定されたわけではない。だが理屈ではないからこそ、本物の熱量を感じることができたのだ。今までのように、自分に何かを付け足して虚しさを誤魔化す必要はない。自分をいたずらに作り替える必要はない。今しか満たさない自己偽造も、自分にしか響かない捏造も、もう必要ない。

 やがて百瀬梨乃は自分の名前を思い出し、熱い血の通った四肢で床を踏み、自分の足でこの部屋を後にした。


小林Ⅵ


「あれでよかったんですか?」

 その日の夕方、TWENTYの第二客室で小林と郷はくつろぎながらその日のことを話していた。梨乃の漂着瓶は、もう跡形もなく溶けて消えている。

「彼女は外側ばかりに執心するあまり、自分の内面を見つめようとしない。ある種のコンプレックスじみたものを抱えていたの。だから強制的に向き合わせた。そのためには第三客室が手っ取り早い。理屈より直接的で影響力が持続する。何よりあれは自分の意志で部屋を出る以外に解除方法が無い」

「百瀬さんが自分に向き合わない限り、ずっと第三客室に閉じ込められていたという事ですか?」

「そうね。でも第三客室に時間の概念はない。どれだけの精神時間が経過しても実質ゼロ時間。失うものは特になく、そこで得た体験を持ち帰ることができない。学びはあっても失うものはないのよ」

 第三客室は言わば架空の精神世界。それでも使用する相手にとってはトラウマの再発や精神への予期せぬ負荷の危険性があるため、使用には資格者の許可が必要だ。今回は遠藤が許可した。百瀬の場合は心の虚無を材料に第三客室を作り、そこに百瀬を閉じ込めた。その部屋を出るには、自分の心の虚無を解消する必要があり、その結果彼女は芯のある心を掴んだ。

 郷が彼女に何らかのアドバイスをしたというが、ただの言葉で百瀬の心に芯が生じるとは思えない。おそらく言葉だけでなく、その言葉に込めた信念が彼女に火を点けたのだろう。言葉ではなく心情だけが存在する第三客室だからこそ、その効果は絶大だ。

 嘘も偽りも誤魔化しも洗い落とす。より純粋な自分の深層心理を認識するという体験を梨乃に強制させたのだ。ステージで外側の持つ意味を奪い、第三客室で内面に向き合わせるという荒療治。それを見て小林は気づいた。彼女は本来の自分ではない外側の姿を偽造し、それをあたかも本来の自分であるかのように内面を捏造したのだ。

 偽造は今のために。捏造は明日のために。

「遠藤さん遅いね」

 紅茶の入ったグラスをいじりながら郷は言った。もう勤務時間だというのに、遠藤はまだ来ない。

「ところで少年。君は進路決めてる?」

「進路?」

「進学とか就職とか決まってるの?」

「まだ分かりません。これから決めるところです」

「ふーん」

 得も言えぬ笑みを浮かべて郷は紅茶を一口含んだ。そして部屋の出入り口を一瞥すると、こちらを向いていった。

「君の未来を結晶界隈に預けろなんて言うつもりはない。でももし君にその気があるなら私もできる限りの助力をするよ。私は霊素情報学を履修してマゼンタの力になりたい。“自分”の使い道はもう決めてる。進路を決めるというのはそういうこと」

「つまり何が言いたいんです?」

「遠藤さんも自分で“自分”の使い道を決めている。私にはその決定を覆せなかった。でももしかしたら君なら違う答えを導けるかもしれない」

「遠藤さんがどうしたというのです?」

「あの人はもう永くない」

「え?」

 ドアの開く音がし、見るとそこに遠藤がいた。長袖のジャケットを着て、そろそろ半袖が厳しいくなってきたのだろう。

「おう高千穂。学校無いなら仕事でもするか?」

「嫌でーす。帰りまーす」

 そう言って高千穂は立ち上がった。そしてこちらに振り返り、言った。

「さっきの進路の話だけど、君は人の意識に対する感性が優れている。何より自分を変化させることをいとわない。向いてるよ、セカンドシティに」

 セカンドシティ。日本のどこかにあるという結晶術によって発展した都市。政府非公認の都市で、行政機関の代わりに企業が街を治めている。彼女はそこで学校に通いながら探偵のアルバイトをしているというが、今は何らかの事件が起きてロックダウン中だそうだ。

 地図にもネットにも載っていないその街には、結晶協会本部や秘密の組織や技術が多く集まっているという。知らない自分と出会うにはうってつけだ。

「お、いいじゃないか小林。ロックダウンが解けたら遊びに行くといい。俺の知り合いも何人かいるしな」

「じゃ、またね。遠藤さんのこともよろしく」

 そう言って高千穂は第二客室を、TWENTYを後にした。—あの人はもう永くない—。高千穂が言い残したその言葉が棘のように刺さっている。こんな感情は初めてだ。目の前でいつも通りにパソコンを開き、部屋の瓶を眺めている遠藤に、もう時間が残されていないのだそうだ。

 そう、いつも通り。では、遠藤と小林が出会う前からそうだったのか。二人が出会う以前の遠藤を郷は知っていて、その郷が小林に警告をしてきた。三年間バイトをしてきた郷でさえ遠藤を救えなかったのだ。

 遠藤が自分のことを小林に打ち明けたことはない。遠藤が何を背負っているかを小林は知らない。

 僕は、貴方について知らないことが多いようだ。

 遠藤を見つめてそう思うと、その視線に気づかれたのか遠藤がこちらを見返した。目が合うより先に小林は目を逸らし、漂着瓶の品質確認作業に取り掛かった。


 第三話 完

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