友達を亡くして気づいたこと
2024年5月、私は友達を自殺で亡くしました。
この出来事は、私の人生に大きな影響を与えるものになるでしょう。
この悲しい事実に直面してどのように乗り越えたらよいのか、今もまだ模索しています。そのような状況のなかで、自分の気持ちを整理するためにここに記そうと思います。
※この記事は非常に個人的なものであり、この世の中で起きているあらゆる状況・背景の自殺に関して言及しているものではないことをご留意ください。
友達との出会い
私が彼女に出会ったのは小学生の時。一緒の学校で小学2年生の時から頻繁に遊ぶようになりました。中学・高校も同じで、一緒の委員会やクラスで何かしら一緒に活動していました。また、おうちに遊びに行ったり一緒の塾にいったり…今思い出すと、私の学生時代の風景には彼女が必ずいました。
お互いが「親友!」と呼び合うようなことはなかったけれど、勉学・部活でどこかしら意識しているようなそんな関係でした。
彼女は一人っ子で、なんというか、性格は一般的に好き・嫌いが分かれるタイプだったかもしれません。しかし、私は彼女のことは嫌いにはなりませんでした。(すごく好き!という感じでもなかったけれど)
おそらく、彼女の存在が学生だった自分にしたら当たり前で、好き・嫌いの区別をするような考えにもなりませんでした。
小学校~高校卒業まで12年間をともに過ごしました。過ごした時間があまりにも長すぎたのでしょうか。
私はいま起こっている事実を受け止めるまでに時間を要しています。
高校卒業後、彼女と私は別々の大学に進学しました。お互い県外ということもあって会う頻度はかなり減りました。しかし、成人式や社会人になってからも何度か会ってごはんを食べた思い出があります。
そして私が彼女と最後に会ったのは、地元で一緒にお酒を飲んだ時でした。
その食事会での彼女の話の中で、「仕事が大変」と言っていたのが記憶に残っています。
彼女は文系ながらも卒業後はITエンジニアをしていたようで、毎日遅くまで勉強しなくちゃと愚痴をこぼしていました。
今思うと、これがこの事実を引き起こしてしまった要因かもしれないと思ってしまいます。(あくまで私の想像でしかないのですが)きっといろんな感情があったのだと思います。
彼女と最後に話した記憶
地元で食事会をした翌日、彼女と一緒に新幹線にのって神奈川県まで帰りました。
お正月時期で非常に混んでいましたが、彼女と横並びで新幹線に乗って、現在の状況とかいろいろな話題を話したのを今でも鮮明に思い出せます。
これが最後の会話だと思わなかったな。
このような悲しい出来事が起こると、人間、たらればを考えてしまいます。
それが自分の心を縛り付ける呪いのように片時も離れません。
人生で初めてこれほどまでに 言葉が出ない と思ったのはこれが初めてです。
この事実から私は何を感じたか
彼女がなくなって2か月が過ぎました。
あっという間でした。本当に。
彼女の死がこれほどまでに自分の精神を蝕むとは思いもしませんでした。
仕事をしていてもふっと気を抜くと彼女の顔を思い出してしまうし、夜になると無性に悲しくなります。
でも現実は変えられない。それが悔しくて悔しくて。
私はこの2か月でいろいろなことを考えました。
毎日普通に過ごしているだけで、大切なものが手からこぼれ落ちていく
今、私はマスメディアで働いています。世間に情報を発信する仕事として、人々の役に立つ仕事ができているんだと思い込んでいたのかもしれません。
「世の中に貢献するため」に毎日仕事をしていたとばかり思っていました。しかし、彼女の死で自分が人の役に立つどころか、大切なひとをも救えないちっぽけな存在なんだと自覚させられました。
私は何のためにこの仕事をしているのか
この問いには答えはないことなんてわかりきっています。しかし考えてしまうのです。
この出来事がある少し前から、実際今やっている仕事について前向きに考えられない状態でした。しかし、私は彼女の死を通してある決意をします。
それが次の項でお話することです。
ちっぽけな存在だけど、ほんの少しでも誰かの力になれる可能性があるのならそれに人生を尽くしたいと思った
私はいま新しい目標に向けて毎日勉強しています。
私という存在はこの世の中からしたらちっぽけで、世界を変えるとか立派なことを成し遂げるとか、そんなたいそうなことはできないかもしれません。
でも、もしこんな私でも身近な人に幸せや平穏をもたらせる可能性があるのなら、私はそれに人生をかけたい。無駄な努力かもしれないけど、自分のためではなく他人のために生きる道もあるのではないか。
そんなことを思い始めています。
そして、この目標を本気で取り組むと覚悟を決めることができたのは、いうまでもなく彼女の死を経験したからです。今までの自分は、ある意味自分本位だったのだと思います。
起こってしまった事実は覆らないけど、でも彼女は私の心の中を生きている、そして私を次のステージに押し上げる力をくれる、そんな存在になったのかなと思います。
よく「故人は忘れられたときに本当の死を迎える」という言葉があります。
私はこの言葉の力を改めて感じています。
私の心の中で生き続ける限り、彼女は生き続けるのです。
彼女への最後の手紙
最後に、彼女へのメッセージを残して終わろうと思います。
本当にびっくりしたよ。びっくりしすぎて時間が止まったよ。
最近はあんまり会えてなかったけど、心のどこかでは「あ~また都合が合えばご飯でも食べたいなー」と思ってたよ。
あなたは私の学生時代にはなくてはなくてはならない存在だったのかもしれない。中学のときに一緒にあなたの家の近くの浜辺で犬の散歩したり、あなたのお家でよくゲームしたりしたな。
図書委員会も一緒だったよね。夕暮れ時に2人残って掲示板の仕事してたっけか。いまでも鮮明に思い出せるよ。時々けんかもしたけど、なんやかんや元の状態に戻ってたよね。
高校もなんとなく一緒なのかなと思ってたけど、ほんとにそうだったね。
高校3年間同じクラスで(2年の時はあなたは留学でいなかったけど)やっぱり私の生活にはあなたの姿があった。
本当に私の近くに当たり前に存在していたんだなっていますごく思う。
だから、このような現実になって私はあなたにとって「友達」ではなかったのかなとか思ったりしたよ。
友達から助けを求められる存在が本当の意味での「友達」なのかなと自分を責めてしまっていた。
でも、あなたの人生のなかに少しでも私の存在があるのならそれでいいと思った。
一緒にあんなことしたなーとかこんな奴だったなーとか、あなたの記憶に残っているのならそれでいい。
辛いことがたくさんあったのかもしれない。自分ではその感情をどうにもできなかったのかもしれない。
でも私はあなたを責めない。私にもそんな感情が渦巻くときは多々あるし、この世界からいなくなりたいと思ったこともある。
でもあなたの死で私は、生きる意味をすこし見つけた気がするよ。
ありがとう。私を生かしてくれて。ありがとう。25年という短い時間だったけど、そのうちの半分以上を私と過ごしてくれて。
いつか私があなたと同じところに行ったら、また一緒に浜辺を歩いてゲームしようね。そして一緒にご飯を食べよう。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?