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雑感84:もういちど読む山川倫理

雑感

「倫理」という学問と私の接点と言えば、やはりそれは大学入試センター試験であり、哲学者の名前と彼/彼女のキーワード・著作物をひたすらに結び続け、暗記し続ける一種のゲームの様相が非常に強かった。この活動そのものが面白いかつまらないかというと、面白くはない。

が、今振り返ると授業そのものは面白かった記憶がある。恐らく当時20代そこそこだった倫理の先生が、イデアの洞窟の比喩とか、アウフヘーベンとか、「神は死んだ」とかを一生懸命教えてくれた記憶がある。

一部に根強い人気のあるMBTIでも内向型と診断された私は当時からこの「倫理」という学問に対して興味というかそわそわした感情を持っていた。しかし、大学受験が終わってからはろくに読書もせず、ひたすら大盛りのラーメンを食べることに(今思うと自分でも理解できないくらい)奔走したため、倫理とは疎遠になってしまった。

読書の習慣が「戻った」というか、私に元々読書週間があったかは甚だ怪しいので「発現した」のは振り返ると数年前の育休の時か。人生初の子育てに右往左往しながらも、夫婦でシェアしながら子育てを進めるとそれなりの余剰時間もあった。ゲームをするでもアニメを見るでもなく、なぜかその時に習慣づいたのが読書だった。

急に子供の面倒を見ることになっても読書はパッと中断できるその切り替え性の良さが良かったのだろうか。アニメやゲームにも言えることだが。

アニメやゲームに比べて、読書活動は妻から批判を受けにくいと思ったのかもしれない。

前置きが長くなりましたが、倫理をもう一度学びたい方のための教科書です。倫理という学問を広く俯瞰的に眺めたい、学び直したい方に良いかと。

私自身、高校生時代に勉強した時とはいくつか違う印象を受けたり、新たな発見があったりと、非常に有意義な時間を過ごせました。

孟子と荀子

性善説と性悪説で有名な二人で、勝手に荀子にネガティブなイメージを持っていたのですが、孔子の流れを汲んだ通底するもののを強く感じました。

パスカル

「考える葦」という言葉は非常に有名ですが、なぜ人間を「考える葦」と喩えたのか、その背景を20年越しくらいに学びました。当時倫理の先生も言っていたのかもしれませんが。。。
人間は宇宙の大きさに比べればちっぽけな葦のような存在。しかし、人間は自分が弱く、やがて死ぬことを知っている。宇宙は、何も知らない。

カント

「○○理性批判」を書いた人、というイメージにとどまっていたのですが、以下の道徳原則に感銘を受けました。きれいごとと批判するのは簡単なのですが、こういう切り口で原則を生み出したことに価値を感じます。現代でも通用しますね。

「あなたの人格、ならびにあらゆる他人の人格にそなわっている人間性を、常に同時に目的として取り扱い、けっして単なる手段としてのみ取り扱うことのないように行為せよ」

ニーチェ

ニヒリズム髭おじいくらいのイメージで、過去に読んだ本でも「群畜」とか批判的なキーワードの印象が強かったですが、「超人」の説明には恐れ入りました。筆者の思いも感じます。

超人は、ニヒリズムを自分の運命として愛し、みずから価値の創造者となって無意味な世界に意味をあたえ、どこまでも現実の人生を肯定し、たくましく生き抜いていく。

ということで、勝手に印象に残ったことを書かせていただきました。私が20年前に勉強した時には教科者に出てこなかった現代の哲学者が何人か出てきたのも印象的です。リオタールの「大きな物語」から「小さな物語」へ、なども。

非常にニッチなニーズと思いますが、タイトル通り「倫理の教科書を読みたい」方はどうぞ。


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