科学に対する考え方について拙いながらも意見を

AKIRAです。
本日は一般の方にこそ読んでいただきたい内容になります。


論理性にこだわらない

数学という分野は、人類が自らの手で魔法ともいえる技術を制御するために必須となる学問です。
車が走るのも飛行機が飛ぶのも高速で線路上を走る乗り物を御せるのだって、科学技術のたまものであり、その根底には数学の学問(いわゆる論理的な学問の例として)がそれを支えているからこそのものです。

しかしだからといって、科学や数学的論理思考が万能なものでないことは、素人であろうとプロであろうと誰だって承知のことのはず。
生物学ともなるとそれが顕著になります。

しつこいくらいに同じことを繰り返しますが、科学技術は万能ではありません。当然、生命科学だって論理的な思考が机上の空論になることも珍しくない。
もし、ありとあらゆる事象に対してそれがまかり通るなら、すべての論文は高インパクトファクターだし、limitation(研究の限界)を論文に書く必要もありません。なぜならば、論理的思考において導き出された科学的結論はすべて万能のものだから。でも実際は違いますよね?

それでも、論理性が重視されるのは、情報を整理したり日々の考え方の方向性を決めたりするのに必要なものだからです。
私が問題にしているのは、いわゆる「論理性信者になっているのでは」ということです。ワクチン推進の背景にはこのタイプの問題が一つのトリガーになっているように思います。

基本を押さえていない

これは、どちらかというと専門家に言えることなのですが、ワクチンに対して批判的な見方ができないパターンとして一番多いのが、「基本を理解していない」ということになるかと思います。

ワクチンの問題の場合、「免疫学の基礎を理解していない」「従来から揺らぐことのないワクチンのコンセプトからの逸脱」「統計学重視の的外れ論法」など、様々なツッコミポイントがあるのですが、私が特に指摘したいポイントは「遺伝子発現制御に関する基本的知識の欠如」です。

「分子生物学」や「細胞生物学」などといったタイトルの教科書があります。これらは基本的に遺伝子発現解析を研究する人間にとって、最も最初に読むべき教科書なのですが、mRNAワクチンの技術はこの教科書の知識を持っているとミスコンセプションであることがよくわかります
はっきり言って、「意味のない技術」なのです。

その意味の無さは前回、こちらの記事で紹介しました。

ここに書いてある知識のほとんどは、「分子生物学」の教科書に載っています。mRNAワクチンの何が問題なのかは基礎的な知識さえあれば十分理解できるのですが、不思議なことに研究の世界の人間でも基礎的なことさえ理解できていない始末です。
いやはや、本当に不思議ですねぇ。

論文を求める前に基礎的な知識を

私がなぜ、論文をNOTEで積極的に取り扱わないのかというと、論文を読むためには生命科学の専門的な基礎知識が必要だからです。
逆を言えば、その基礎知識がある人間であれば論文の重要なポイントや検証されている内容の幅、矛盾点、研究の限界を過不足なく正確に判断できなければならない。
しかしその知識がなければ、論文だから信じるなんて言う訳の分からない判断基準になってしまうのです。

その前提で一般の方に必要な情報は何かと問われたとき、私は迷いなく「教科書レベルの基礎知識」と答えます。教科書は、いくつもの学術論文で数多の再現性を示した信頼できる化学現象が記載されています。

そして、そのレベルにおいて「本当にこれを技術化していいのか」ということに疑問をもたないことに私は非常に強い疑義を覚えます。

「誰が言っているのか」は基準にならない

専門的な意見が欲しいとき、皆さんはその道のプロに質問すると思います。

身近な例では、お医者さんとか。
病院にかかったとき、必然的に医師の診察を受けると思います。

研究の世界も同じで、研究のことは研究者しかわからないのは当たり前です。しかし、だからと言って著名な人の言っていることが常に正しいとは限りません
極端な話、私の言ってることも頭から鵜呑みにしてはいけません。大事なのは、本当のところはどうなのか、です。
それを確かめるためには多くの専門家に話を聞く必要があります。

医者でいうところのセカンドオピニオンみたいなものです。


失礼ながら、日本は「有名なあの人が言ってるから」という発言者のネームバリューで物事を判断する傾向にあると私は感じています。
この世に一般普遍的なことなんて数えるほどしかないのに、有名だという理由で、その人の発言がすべてこの世の心理のように思いこむ。
まさしく悪徳宗教のごとき洗脳だと言えるでしょう。

一般普遍なことを聞いても身にはならないです。

「自分自身にとってどうなのか」「自分を取り巻く他者にとってどうなのか」「それは本当に本質的なことなのか」

大事なポイントなんて、端から決まっているじゃないですか。
発信している人間のパーソナリティなんて後付けでしかありません。

結局、そういったネームバリューを理由にしていたら、その後の判断が誤ったときに「だってあの人が言ったから」と発信者に責任をかぶせてしまうことにつながりかねないでしょう?
得た情報をどのようにとらえ、どのように扱うかは、情報を受け取った側の責任です。そこを区別できないなら、其れこそ科学的でないと言えるでしょう。

「動く」前に「考える」

私は、ワクチンのことに限らず、何の調べもないままに動けば、それだけのリスクを背負い込む羽目になると思っています。

時にはそのリスクが目に見えないものであることもしばしばで、一時の気の迷い、浅い考えが身を亡ぼすこともあります。

ちょっと前に、コンビニの冷凍庫に体を突っ込んでいる写真をSNSにアップして炎上した事件があったと思います。
あれも、少し考えればそのリスクがあったはずなのに、結局やってしまったから起こった事件なのです。

ワクチンも同じ。
ワクチン推進派には、世の中で起こっているワクチンに対する少なくない疑問を「考え方のおかしい人間の騒いでいること」と思っている人もいるかもしれませんが、事態はそんなに単純なものではないです。
「動く」前に「考え」なかったから、今のような騒ぎが起こっているだけの話です。
ワクチン戦略は大失敗だった。

今、コロナ(対策)禍を見直さなければ、未来はないです。少なくとも我々市井の民は、それを適当に流してはいけないのです。


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