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私の写真半生1 高校から写真大学入学まで

今回から数回に分けて私の写真人生を書いていこうと思います。
私がどう写真と関わってきたのか、どんな写真人生を送ってきたかをある人に話したところ、「そんな人生送ってきたの!?なんか、、、想像を遥かに超えてきたわ。それはもっと皆に知ってもらったほうがいい。」と言われました笑
なので、今回から数回に渡り私の写真人生を紹介していこうと思います。
ざっくり言うと、
・高校から大学入学まで
・大学から大学院まで
・大学院後、とある写真家のアシスタントをした1年の話
・アシスタント後、就職した広告撮影会社の話
・フリーランスフォトグラファーとして独立してからの話
といった感じです。

まずは写真を始めた一番初期、高校時代の話からですね。
それではどうぞ。


写真への道:高校から大学入学まで

実は私の写真人生は写真ではなく、映像からスタートしています。

そんな私の写真(映像)人生は、中学1年生から高校1年生までの間、父の仕事の都合で住んでいたアメリカ、サンディエゴから始まります。当時の私は、日本人が比較的多い地区に住み、現地校に通っていましたが、日本人の友人たちとばかりつるんでいました。そのため、英語がなかなか上達せずにいました。。。

奇跡的にアメリカ時代の写真が見つかったので貼っていきます!
通っていた学校で撮った写真。ハロウィンイベント前に貼られていた絵が、超珍しく降った雨によりとんでもないことになっていたので思わずパシャリ。
ちなみにタイトルの写真は友達に「クールな俺を撮ってくれ!」と頼まれたら何故かゴミ箱ジャンプをとらされたっていういい思い出w

サンディエゴでの転機

アメリカに住んで2年目、中学3年生になった頃です。英語がなかなか話せるようにならない自分に、このままではいけないと感じ始めました。「このままではまずい、もっとアメリカ人と過ごすようにしよう。」と思い、行動に出ます。

ある日、アメリカ人の友人ケリー(男)に「ランチはどこで食べているの?」と尋ねました。彼は「〇〇教室で食べているよ」と教えてくれました。昼休みに行ってみると、その教室はロボット関係の授業が行われており、その隣の教室では映像制作の授業が行われていました。放課後には部活動も活発に行われており、ケリーはロボットと映像、両方の部活に参加していることを知ります。

ちなみに私は父親がエンジニアはということもあったのでしょうね。自分もロボットには興味がありました。また、家にカメラが沢山ある環境で育ちました。父親が壊れたカメラを安く手に入れ、直して使うのを趣味にしていたんです。家にカメラが普通にある環境で、そちらにも興味があったんです。

ケリーとのランチをきっかけに私も両方の部活に参加することにしました。
ロボット作りも楽しかったのですが、特に心を奪われたのは映像の部活でした。放課後、学校で行われるバスケットボールやアメリカンフットボールの試合をライブ配信するという活動に取り組む中で、私は映像制作の魅力に引き込まれていきました。また、映像を始めたことをきっかけに家にあるカメラを父から借りて写真も撮るようにもなっていきました。(それで写真はちょくちょくのこっていたんですね)

映像の部活のことですが、当時は1999年から2000年。今でこそライブ配信って当たり前に行われていますが、当時はまだYouTubeがやっと出始めたくらい。ライブ配信技術はまだ珍しく、プロフェッショナルな機材を使って3カメで配信を行う技術の高さに驚きました。アメリカの教育環境が日本と大きく異なること今振り返ると感じます。


教室で編集している様子
機材リスト作ってるケリー
撮影時に使うケーブルを整理するテイラー

映像制作の楽しさ

私が特に得意だったのは、試合中のボールを追いかけて撮影することでした。スポーツの試合を配信するのですから、もっとも重要なスキルですよね。でもこれ、意外と難しいんです。相手の動きを先読みしてカメラをパンしたり、選手がするフェイントの動きにも引っかからないようにしなければいけません。なぜかわからないのですが、自分はカメラとすぐ友達になり、うまく操作して追いかけることができました。英語があまり話せなかった私でも、その技術を周りが認めてくれたことが本当に嬉しかったのを覚えています。おかげでどんどん映像にのめり込んでいきました。部活中は英語のみの環境です。撮影中のディレクター役の人からの指示も無線を通して英語できます。なので英語も自然と上達していきました。

部活に夢中になって1年が経った頃、英語でのコミュニケーションもかなり上達してきて、ケリーに話かけた頃から考えるといろんなことがいい方向に行ったなと思っていましたし、この部活を卒業まで続けたいと思っていました。

しかし、悲しい知らせが。父の赴任が終わり、私たちは日本へ帰国しなければならなくなったのです。私だけアメリカに残る選択肢もありましたが、その場合は私立の高校に転校しなければならず、映像の部活を続けられないことがわかりました。続けられないなら帰国しようと決意し、父と共に日本に戻ることにしました。

日本での新たな挑戦

帰国後、高校2年生から実家から電車で1時間ほどの英語科のある高校に通い始めました。映像の方はというと、以前より写真を撮るようになりました。現在では技術が進み一人で映像を作ることも可能かもしれませんが、当時は一人でやるのは機材や、作業量など色々と無理がありました。一方、写真ならカメラが1台あれば一人でも成立します。そこに魅力を感じました。

転機となったのは、姉が見つけてくれたアルバイトでした。少年野球や少年サッカーの試合を撮影する仕事で、通う高校の徒歩圏内に事務所がありました。ちなみに高校はバイトOKの学校でした。このアルバイト募集で高校生が応募してくるとは事務所側も想定していなかったみたいですが、アメリカで映像の部活でスポーツを撮っていたことを伝え、写真のアルバイトをしたいと熱意を伝え、無事に採用されました。

それからは毎週金曜日の放課後に学校から歩いて事務所へ行き、撮影する大会の情報やフィルムを受け取り、土日は撮影に出かける生活が始まりました。(ちなみに当時はまだCANONのEOS 10Dというカメラがでたばかりの頃でデジカメが普及しはじめる頃でした。アルバイト先の事務所はまだまだフィルムがメインでした。)

土日は朝早くから撮影のために新幹線や電車を乗り継ぎ、場合によってはタクシーをつかって大会の現場に到着。そこから開会式や試合を撮影して家に返る。月曜日の放課後に事務所へフィルムを出しに行くという動き。高校生としてはかなり特殊な経験をしていますよね。色んなところに足を運び、写真を撮る。自分にとっては素晴らしい経験となりました。

写真を始めたのはアメリカでの映像がきっかけではありましたが、アルバイトをしていく中で自分は「カメラをうまく使いこなして撮る」という行為自体が好きであることに気づきました。映像でなくても、写真で自分がやりたいことはできる。どんどん写真にハマっていきました。

バイトをはじめてしばらく経った時、あることが判明しました。実は私は小学生の頃に少年野球をしていたんです。大会の集合写真とバッターボックスで構えている写真がセットになったフォトフレームが家に飾ってあったのですが、よく見るとバイト先の社名がプリントされていました。 そう、数年前には自分がお客側として商品を購入していたんです笑 色んな意味でご縁のあるアルバイトだったんだなと思います。

決意と進学

写真にハマり、このアルバイトを通して、私はプロのスポーツカメラマンになることを決意しました。それくらい熱中していました。

高校卒業はカメラマンになる方向で進学をしようと考え、最初は写真専門学校に通うのがいいだろうと思っていました。しかし、進路相談で担任から「写真の大学ってのもあるようだし、大学に行けるならそちらの方が良い」とアドバイスされます。そのことを親とも相談して写真の大学へ進学することにしました。こうして私は、東京工芸大学芸術学部写真学科に進学することになりました。

そんな高校生にプロのスポーツカメラマンになると決めて入学した写真の大学。しかし、その方向性は大学での生活で大きく変わっていきます。


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あ、そうそう。英語に関しては全然使っておらず、どんどん忘れてきています。。。。日常会話がなんとかできるくらいかなぁ。。。。
勉強しなおさなきゃな。。。汗


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前島聡夫/空飛ぶ写真家
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