素材主義について(舞踊編)Ⅱ

皆さま こんばんは

 前回の記事では「素材主義(マテリアリズム)」の概念的な側面について書いてきました。振り返ると、素材主義とは「素材(表現媒体)の在り方を追求する思想または主義」と理解しました。続いて第二章では「舞踏」について触れたいと思います。

第二章「マテリアリズムと舞踏の身体」

 第一章では、「マテリアリズム」を定義し、その先駆的存在として「舞踏」と「アンフォルメル」を取り上げた。この本章では、舞踏の創始者、土方巽の生涯と作品の特徴を述べ、舞踏がもたらした肉体の影響、意識の変化について触れたい

第一節「土方巽の生涯と作品から読み取られること」

 第一節では、舞踏の原型を作った土方巽氏の生涯に焦点を当てる。土方巽については、多くの文献が出版され、また土方自身も多くの謎をこの世に残している。その上で、この人物を、真に理解することは難解であろう。しかし、この人物の生涯を見つめることで、マテリアリズムが浮き彫りになることを目指す。

 土方巽、本名、米山九日男は1928年秋田県に生まれる。小学生時代に、当時の日本現代舞踊の開祖とされる石井漠のモダンダンス公演に触れ、舞踊の世界を知ることとなる。石井漠も同じく秋田で活動し、舞踊における東洋と西洋を結んだ人でもある。また石井漠は「舞踊詩」という概念を打ち出し、歌詞や文学によらず自らの思想感情をじかに身体の動きによって表現することを追求した。九日男は1945年、当時高校生の頃に舞踊家、増村克子の門を叩き、舞踊の世界に入り込む。

 増村克子の舞踊はドイツのマリーウィグマンが創始したノイエタンツ(新しい舞踊)を主流としている。土方自身は、この増村克子の門を叩いた時のことを後に記しており、そこには「14年程前に私は郷里で女舞踊教師についた〈中略〉外国ダンスという言葉は私に一沫の不安を感じさせていたのでおずおずとしかもそれでなければ止めようと思いながら外国ダンスについて質問した。「私の踊りはドイツの踊りです」私はとっさに入門の手続きをすませ、なにせドイツは硬い、きっと舞踊も硬いのだろうと思った。≪土方巽 DANCE EXPERIENCEの会 プログラム≫「稲田奈緒美2008」と書かれている。ここで注目したいのは土方巽が、「硬い舞踊」に何かしらの安堵と意気を感じたことだ。すでにここで土方巽は幾何学的で動的な身体の捉え方に対して、質感的な身体の捉え方をしている。土方はここでノイエタンツ(ドイツ系)のダンスを習得する。

 1947年に上京し、1953年現代舞踊家・安藤三子のもとで活動を始める。土方は舞踊にとどまらず美術家、芸術家と交流をともにしていた。1956年には11月アンフォルメル旋風を巻き起こしたとされる「世界・今日の美術展」や、アクション・ペインティングが開かれた「ジョルジュ・マチウ展」などから、当時のヨーロッパからの“反芸術”の熱気とうねりが土方のごく身近な友人たちを包んでいた。

 1959年、《全日本芸術舞踊協会・第6回新人舞踊公演》で、土方巽と大野慶人のデュオ(禁色)を発表する。ジャンジュネの男色を主題とし、三島由紀夫の小説の主題を借用した作品。この作品は、薄い暗闇で生きた鳥を殺し、音楽は男色をモチーフとした録音されたテープであった。また、作品規定時間を超え、反則となった。この公演が観客、批評家、審査員の間で物議を醸し、全日本芸術舞踊協会から追い出されることとなる。このとき周囲からは「舞踊」ではなく「前衛芸術」のひとつとして認識され、避難されていた。 それでも土方はやめることなく《650EXPERIENCEの会》にて、2部構成からなる(男色)を発表。その後1961年《土方巽DANCE EXPERIENCEの会》で、「半陰半陽の昼下がりの秘儀」という演目を振付、演出した。その内容は、裸体に石膏とガーゼを塗り付けてミイラ状にするギブスを衣装とし、寒さに筋肉が引き攣り、痙攣を起こすような動作だったという。この様子を三島由紀夫はそのカリスマ的な文章で言葉を紡ぎだし、「筋肉のヒキツレ」と称した。これはその後の土方の身体と踊りに大きく作用したと推定することができるだろう。 1962年『バラ色ダンス』では、石膏を塗りたくった二人の男性が口にゴムホースを咥えて絡み合うというシーンがある。土方によればホースを吸うことは、物体を消すことだという。このシーンから読み取れることは、土方が身体を物質としてとらえていることだ。

 また土方巽はこの頃ある雑誌に記載したエッセイ「中の素材」で、《少年期のころ、よく池に落っこちたものだ。そこで糞みたいな塊と接触するとき、私は物質の起源に触れたような気になる》と述べている。これは何を意味するのか。池に落ちた、というのは未知の世界と衝突する時の、危機感、緊張感に似ている。その上で糞みたいな塊と接触するということは、身体が轟くような、あらゆる知覚を存分に身体へ浸透させるような力があるように感じられる。その時の互いの物質感は近い関係にあるだろう、土方巽が考える物質の根底には、このような思想がある。

 1972年11月、舞踏の本拠地となったアスベスト館にて〈四季のための27晩〉が上演される。ここでは土方巽は、「疱瘡譚」のソロパートを踊る。それは「衰弱体」と身体で、舞踏の完熟形と呼ばれる。そのように言われるわけは、「土方巽と日本人-肉体の反乱」が、反政府的イデオロギーに満ちた全くのアヴァンギャルドな行為であったのに対して、4年の歳月をかけて舞台に上がったこの公演では、立つことすらできない“らい者(ハンセン病患者)”を踊ったのである。それは土方巽の代名詞「命がけで突っ立った死体」と言われる身体性である。私は籟者を踊ることで、知覚麻痺の皮膚や、神経、知覚レベルで反応する素材としての身体に昇華したと考える。それは主体としての身体観をこえた姿であるように思え、なにものかに憑依し、日常秩序の身体を逸脱した姿であるように評価された。この舞台を最後に土方巽は舞踏手として舞台にあがることはなく、振付、演出に専念することになる。 1986年、肝臓癌のため死去。その後、著書は「病める舞姫」「美貌の青空」があり、また多くの作家が「土方巽」にあてた本を出版した。

 この節のまとめとして、文章を添えることとする。土方巽は、その舞踏初期(1960年代)で、肉体の解体のための破壊や暴力性に満ちたアヴァンギャルド芸術を打ち立て、後期(1970年代)で、命がけで突っ立った死体、「衰弱体」の概念を打ち立てた。それではこの土方巽が作った「舞踏」がもたらした影響について第三節でみていきたい。

第二節「舞踏というムーブメントがもたらしたもの」


 前節では土方巽の生涯と作品を大きく概観し理解した。本節では、この「舞踏」というムーブメントがもたらした「肉体的影響」をみていきたい。

 「肉体的影響」。舞踏がもたらした大きな影響と言えば、肉体の解体だろう。肉体の解体によって、身体表現における情念や思想と肉体の見事なまでの一致を可能にしたのだ。またそれは、身体内のあらゆる知覚を覚醒させ、身体の解像度を高めたといえる。また「舞踏」は意識の改革だと称する舞踏家も存在する。

 舞踏家の笠井叡は、「土方巽の作った様式をこれが舞踏だ、とただ受け取るだけでは、全然舞踏家だとは言えない。〈中略〉舞踏というのは、そういう意味で、スタイルとかジャンルではなくて、身体に向かう態度のようなものです。要するに舞踏というのは意識を変容させるものであって、形を作るものではないということです。」と語る。この意味で舞踏は、「舞踏」という概念を定義付けることに困惑する。が、これは「マテリアリズム」。つまり素材に対する意識の一つの在り方なのだ。

 また、舞踏がもたらした影響について、石原慎太郎は「いずれにせよそれは我々が日常のなかで取り逃し、取りこぼしている肉体の本来の属性と言えるのかもしれない。凝固の内に閉じ込められた肉体の動作の枯渇、とでもいうべきか。土方の奇怪な輝きは、氾濫している安手な踊りの中で、黒い本物の宝石の、黒ゆえに鮮烈な光に他ならない。」という、ここでまた土方巽の踊りの独自性と身体の深淵に辿り着いた様子が伺える。これもまた、マテリアリズムの原初に回帰するという思想が見えてくる。

 ここで、舞踏が及ぼした「肉体の解体」と評価を見てきた。この章で見えてくることは、土方巽がいかに舞踊の形式にとらわれず、独自の思想で「踊りとは何か」、「身体とは何か」を追求してきたかだ。具体的に言えば「身体の動物(本能)性」「身体の暗黒」「身体の神秘」が挙げられる。これらのキーワードを残し、次の章へ向かいたい。


ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
この章では土方巽について少し触れました。
特に感慨深いのは、笠井叡さんの言う「舞踏は身体に向かう一つの意識である」ということ。「舞踏」は身体知の拡張だとも言える。

 身体を質感として捉えることは、見世物として在る身体の「硬さ」「柔らかさ」「冷たさ」「温かさ」「明暗度」「透明度」「密度の薄さ」「濃さ」など、その状態を見つけることを可能にし、表現の可能性を広げることでもある。
 それは踊りの中で何かを伝えることをやめ、身体自体が何かを伝えているという「ダンス」を映し出すことを可能にする。
 このあたりが素材主義的である。舞踏の身体を見ていると、その状態そのものが伝えたい”それ”を表現していることを目撃することがしばしばある。

 そのような事象が1950年代あたりに美術の業界でも起こっていた。次の章では、絵画「アンフォルメル」の運動を見ていきたい。

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