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楽しき人生 美しい生と死と   第二章 【自己紹介Ⅱ】

こんなにも沢山の方々に読んで頂けると思っていてなかったのでビックリしています。スキくださった方もありがとうございます。
第一章に人生を綴った自己紹介分を引き続き綴っていきます。
生きているだけ、それだけで奇跡。
自分は大した人間ではないが自分を諦めたくない。失敗は自分の責任。成功は与えられた奇跡。挫折は感謝すべき人生の学び。
そんな風に思えるようになった30代の物語てす。
第一章では、弱かった自分に生きる事への強い気持ちが生まれるまでを綴りました。
今回は闘いの日々と感謝して止まない支えてくれた全ての方々や事柄について綴ります。
是非読んでみて下さい。



社長である父との闘いと絆

20才で主任になった時からスロットの設定を任されるようになりました。その当時までお客様の人数は多くて10人程度。それはスロット全般の2割程度でした。
慣れないマネージメントを勉強しなければいけない状況で、全くわからない売上、集客、利益の追求まで任されてしまい頭の中はオーバーヒートしてました。
僕がしっかりとマネージメントをできない事が原因で社長からクビにするように命じられて従った事もあります。その社員の子に解雇を告げた時に涙目になったその子の顔を当時の僕は見ることが出来ませんでした。
社長からはお客様に出入り禁止を告げる役割も与えられました。命じられたままお客様に出入り禁止を告げると怒りのままにお帰りになり地元ヤクザを連れて戻って来た事もありました。
立場上僕が対応する事になり、膝が笑い怖がってるのを隠しきれないままの対応になりました。
それでも何とかしっかりと対応しましたが、どうしたかは必死過ぎて全く覚えていませんでした。
マネージメント面でも上手く行かないなりにも何とか部下に恵まれて支えてもらいながらマネージメントスキルを身につけて行きました。
最初の話に戻りますが、スロットの稼働率が2割下回る状況で任された結果は稼働率9割超えとなりました。
タイミングや業者の方からの教えや他店での営業手法、部下の奮闘等成功に至るには色んな要素がありましたが、父である社長の存在がとても大きかったと今では思います。
僕は何としてもお客様を増やすという強い目標の元で頑張りましたが、その為の行く道を教えてくれて様々な試練を与えてくれたのが他ならぬ父でした。
その頃の僕は経営の苦労も知らず、ただお客様を増やす事だけを考えて大赤字を出したり逆に大黒字を出したりしてその度に社長に呼ばれて怒られる、役職者としての指摘を受ける毎日でした。自分の信念を曲げないと強く思いを持って社長を敬いながらも僕なりの反抗で逆らい続けました。
それは数ヶ月にも及ぶ僕が始めて親に闘いを挑んだ日々でした。
結果が伴い店は地域1番店になっていました。
社長である父は徐々に僕を認めてくれるようになりました。結局父が折れる事で親子の仲は深まりました。
その後に落ち着いてその頃を振り返った時に自分は何て子供なんだろうと当時猛省した事を昨日の様に覚えてます。
そして1番店にした事に一時は天狗になりましたが、振り返れば結局自分のした事は大した事はなく周りに助けられて得た功績に過ぎない事にも気付かされました。
自分は何者でもなく大した人間でもないとわかった時から父とは親友の様な間柄になれました。
当時の僕の1番の理解者であり友であり最も尊敬する人生の道標となりました。
その父も直後に癌が見つかり58才という若さで亡くなりました。これから父と楽しい時を過ごしながら親孝行をしよういう矢先でした。
僕は父の死を半年もの間受け入れる事かできずに道標を失いました。泣く事さえ忘れて何もない真っ白な世界が目の前に広がっているそんな想いでした。それから時は経ち今でも父の存在は僕の心の支えになっています。



兄との確執

兄が会社に入ったのは僕が入社して店長になった後のある年でした。跡継ぎという立場で専務として入社しました。
父とは反りが合わず、父と向き合う事さえ拒否していた兄は会社で孤独の道へと向かって行きました。26才で結婚して子供2人に恵まれた兄は自分の家族だけにしか心を許さなくなっていきました。
そんな折に父が癌で倒れて兄が若干27才で社長を務める事になります。苦労を知らず経営を知らず店舗運営を知らなず人望にかける状況で13億円の年商を上げる会社の社長になったのです。
日に日に天狗になり人を見下すような態度は世間でも馬鹿にされるようになりました。
近い方々からは兄貴が突然帰ってきて社長やって悔しくないのかと僕に問いただしました。当時の僕は自分を騙して良い人ぶりましたが、今思えば内心は悔しくてたまりませんでした。
社内外からの評価は僕に向き、それに嬉しさを覚えて店長業務から経営まで担当した業務は全てに至りました。
自ら率先してやっていたにも関わらず、当時の僕は兄に対して大きな不満をいだきました。それは、日に日に大きくなり兄とは少しのキッカケで殺し合いに発展するのではないかというところまで悪化しました。業界の規制等で赤字に転落した際も月々1500万円の資金繰りをしていました。今思えば一緒にやって欲しいとか助けて欲しいとか言葉にすれば良かったのですが、兄への恨みが大きくなると同時に先代の父や母の苦労を知りました。当時の僕はまだまだ心の弱い人間です。働き詰めの毎日と兄への恨み、体と心は限界を超えていました。25才で不眠症になり、28才で躁鬱になりながらも休む事もできず体と心を痛め続けました。躁鬱になってた時に兄からかけられた言葉は酷過ぎる書けない言葉でした。恨みの感情は増すばかりでした。
助けてくれたのは母でした。
融資を受けれるように計らってくれて、僕の異変にも気付き対処してくれました。母がいなかったら僕は兄を殺して自分も死んでいたと思います。
父が亡くなり兄と僕の力不足、業界規制もあり会社は負債2億で倒産しました。
倒産する際も僕をほぼ無償に近い金額で助けてくれた税理士先生と弁護士先生に感謝しかありません。破産者となり僕たち家族は大阪へと拠点を移してそれぞれでの暮らしが始まりました。
その後、兄とは縁を切り今でも会うことも連絡する事もありません。



新天地での未来への希望と絶望

地元の方々に顔向けできないと考えていた僕は母と父の遺骨だけを連れて夜逃げの様に夜に出発して大阪へと拠点を移しました。33才でした。
兄家族と妹家族も大阪で暮らしていました。
大阪での出迎えは妹1人でした。母と僕がキャリーバッグ3つと父の遺骨を持って改札に出た姿を見て妹は号泣していました。
父が築いた資産を守れず文無し状態で母にもこれから苦労をかけてしまうという申し訳無さと潰されそうだった重荷から開放された想いとが交差していました。
僕はとりあえずこれまでの経験を活かしてパチンコ店でアルバイトから働く事にしました。
でもそのすぐ後に母が自転車での1人事故で病院に搬送されてしまいます。それを知った僕は心臓の病気を発症してしまい仕事ができなくなりました。母は足を切断する程の大事でしたが運良くその道の名医と出会い難手術でしたが治して頂き1年入院しました。僕は心臓の病気が発作的に出る為に仕事ができずに一ヶ月半を5円しかなく過ごししました。その上顔面麻痺にもなりました。鬱も心臓も顔面麻痺も過剰なストレスが原因だったと判明しましたが、心臓の方は原因が分からなかった為治療の手立てが見つからず発作を起こす日々でした。
中級階級で生活してた翌日には無一文。
肩書もお金も無くなれば、人も幼馴染1人を除いて全ての方々が一瞬にして僕から去っていきました。
一ヶ月半ぶりに食べたまともな食べ物が始めての吉野家でした。泣くほど美味しかったのを覚えています。
生活保護を受けてようやく生活が少し落ち着いた頃は僕は毎日母の病院へと通っていました。時間が合う時は兄など誘いましたが兄にも僕や母への恨みの感情があったようで母に会う事を拒まれました。
僕は病気の状態を見ながら社会復帰を目指して就職活動を始めました。しかし、就職しても上手く行かずお金も生活も心も体もボロボロになって行きました。母と2人でお互いを支え合いながらの日々てした。闇の中で辛さの余りふと自殺未遂も起こしてしまいました。
でも、父が生きていた時に心の中に湧いた自分を諦めないという炎は僕の心の中で消えずに燃えていました。父が語りかけようとしてくれてる。
そう思える日もありました。
この頃から死を恐れる事が無くなり、死についてても考えるようになりました。
就職しては上手く行かずの繰り返し。
色んな職を経験しました。個人で稼ぎに出た時もありました。
もがいてもがいて経験と学びを得て知識を得て生きる上での大事な事を知る為の30代を必死に生きました。結婚もして子供を授かることないまま離婚も経験しました。
物質的に言えば何もかもを失って体と心を壊しながらもそれ以上に得た経験と学びという財産を僕は手にしました。
今思えば、全てが自分を成長させる大切な時間でした。その1秒たりとも無駄な時間はないのです。
気持ちの上では自分を諦めたくない。未来を諦めたくない。その想いが強く刻まれています。
生きるとは何なのか。答えは出ずとも人生の歩みを止める訳には行かない。その思い1つでした。
亡くなった父と母と出会った全ての方々、起こった全ての事柄が恩人であり先生であり心の中では感謝が溢れています。
誰しもが何からの役割や使命、課題を持ってこの世に生を与えられて何かを成し遂げた時に死した後にこの世に記憶や思い出として語り継がれて残っていく。そんな気がしていました。


第2章はここまで。
第3章では40代の生活とここまでで得た人生感、人生哲学について綴ります。
生と死とは素晴らしく美しいという答えにたどり着いた現在までと現在とこれからの生き方と考え方です。
また次もご購読頂けましたら幸いです。
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