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人の役に立たなければ、意味がない?

「人の役に立たなければ、やる意味がない、自分には価値がない」

ぼんやり考えていたら、まだこういう思考が自分の中に根深くあることに気がついた。



先日、草間彌生さんのアートを松本市美術館に見に行った。
大胆な色使いや形のポップさが、可愛いいし、カッコいい。
ただきれい、美しいだけで片付けられない、生命の力強さや果てしなさ、生々しさを、強く感じる。

自分自身を突き詰めた唯一無二の表現が、たくさんの人々にインスピレーションを与え、世界的に評価されている草間さん。
その創作のきっかけは、幼い頃からあった幻視や幻聴で、その恐怖から自分を守るために絵を描き始めたそうだ。

数か月前に観た宇多田ヒカルさんのテレビのインタビューでも、「自分が必要だったから曲を作った、誰にも聴かれなくても作ったと思う」というお話があり、未だにとても印象に残っている。


超ビッグネームのお二人でも、創作の原点は”自分のため”。
成功するためとか、そういう外向きの動機で始められた訳ではないだろうと思う。
自分の内面と対峙し続け、研ぎ澄まされた表現、それが沢山の人々に響くんだろうなあ。

そんなことを考えていたら今度は、ふっと、”私は書くことで自分を表現したい”と思った。
なぜそうしたいのか、明確な理由はわからない。

目立つのは苦手な方だ。
でも、そんなことは関係なしに、自分が表現したければしたらいい、そう思えた。
誰かの役に立つかもしれないし、立たないかもしれない。
人から見たら何の意味もなさないかもしれない。
ただ、自分が満たされるなら、それはちゃんと意味のあることだし、自分にとって自分は価値がある
だからもう、それでいいんじゃないか。

まさか自分がこんな風に思うなんて、信じられないことではある。
幼い頃から、発表したり、感情を表したりすることが苦手で、絵や体で表現することも恥ずかしいと思っていた、この私が?

過去を思い返すと、意識していなくても、そういう自分に、どこか窮屈さをずっと感じていたように思う。
”周りから変と思われたらどうしよう”とか、”ダサいと言われたら恥ずかしい”とか、人の目を意識して自分を抑え込む窮屈さを。

そういう窮屈さに、自分自身がもう耐えられなくなってきたというか、どうでも良くなってきた感じはしている。

noteという場を通して、他の方の表現に触れ、自分でも少しずつ表現し、そういうひとつひとつの歩みを通して、心のブロックを外してこれたから、自分を表現する行動範囲が、これまた少しずつ、広くなってきたのかもしれない。

今の私は、そういう少しずつの歩みの集合体なんだ。

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