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「障害のある人が生きやすい社会」と「やる気がない人に寛容である社会」は繋がっている

昨日はお声かけいただき、Schooさんの生放送授業「僕らの哲学座談会」に出演してきた。テーマは「障害と教育」。

1時間、インターネット上で授業を受講くださっているみなさんのコメントを見ながら問いを設定し、それに対して対話をしていくスタイル。

「障害」や「教育」に初めから関心のある人向けに講演をしたり、お話ししたりすることは多いけれど、より一般の方と広く話す機会はなかなかないため、非常に興味深い時間あった。

「障害」をどう捉えるか?がテーマの中心にあったが、それに対し困難さの原因は個々の人にあるのではなく、社会の側にある、ということをお話しすることから始めた。これは、Forbesの記事にも書いた通りのこと。

一人ひとりに医学的な診断名としての「障害」があるからそこに困難さが生まれるのではなく、今の社会がマジョリティ向けにデザインされた社会だから、生きづらさや困難さが生じる。環境が、社会が、より人間の多様性に耐えられる社会であれば、そこに困難さは生じない。ここでいう「社会」や「環境」は制度的なものもあるし、文化的なものもある。

そう捉えた時に、医学的な診断名があること=生きづらい、困難さ、ではないし、医学的な診断名がないこと=生きやすい、困難さがないことでもない。


昨日は多くの受講者から「それは障害か個性か?」や「それは障害か甘えか?」「障害かやる気がないだけなのか?」など、コメントをいただいたが、正直私は人間同士の関係性においては、診断名がつこうがつかまいが、どっちでも良いのでは、と思っている。人には誰でもやる気がない時もあるし、甘える時だってある。それでいいじゃんって思う。その人に「障害」というラベルがつこうがつかまいが、やる気が出ないのであれば、でる環境を一緒に探したり、でる方法を一緒に考える。それだけ。

もちろん、診断名がつくことにより、福祉的なサービスの受給などの制度を活用できる、などはある。が、それはその人に周りの人がどう接するかを規定するものではないし、人間同士の関係性を規定するものでもない。

昨日のコメントで、「やる気が出ないから半年で会社やめました」って人もいた。いいじゃん、って思う。(つい「そういうの大好き!」とか言っちゃった気がする)むしろその会社でやる気が出ないことを半年で分かったなら、自分のこともよく分かって、それで良いのでは。次はやる気が出る場所を探したらいいし、食べていけるならしばらくフラフラしたっていい。

ただ、「やる気が出なくて、自分でもどうしたら良いかわからない」人もたくさんいる。そういう人が自分からリーチしないとサポートを得られないのも困る。一緒に経験してみたり、考えたり、ただ近くにいてみたりできる資源が誰にでもあるとよい。

「やる気を出せ」「甘えだ」って言われて、やる気がむくむく湧いてくる人に対してはそう言ったらいいと思うのだけど、私自身も含め大半の人はそんなこと言われたからと言ってやる気が急にむくむく湧くわけじゃない。それよりも、思わず心に火がついちゃうような経験や、思わずやりたいと思っちゃうような経験をしてみる方がよっぽど効果があると思う。

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まさかこんなに深いところまで話せるとは思わなかったので、本当に楽しかった。社会が作っている「障害」は自分から遠いところにあるのではなく、身近にある。実は自分自身がその不寛容さを作っていたりもする。

今の環境でやる気が出なかったら、別の環境に行ってみたらいい。もしくは、ちょっと海外でも行ってみちゃったらいいかも。もしくは、しばらくぼーっとしてみたらいい。

個人攻撃に陥らない、自己責任に陥らない。ひとりを糾弾しても本質的には解決しない。自分を責めてもしょうがない。

よりインクルーシブな社会のために、制度を変えていく。仕組みを変えていく。もちろんそれは絶対的に必要。同時に、自分のものさしで許容できるハードルを少しだけ低くできたら、少しずつみんな生きやすくなるのでは。

昨日ファシリテートくださった角田さんの団体「こども哲学おとな哲学アーダコーダ」さん


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