見出し画像

まもるもんがなくなってきた

まもるもんがなくなってきた
これ、ほんとはラジオで喋ろうかなと思っていてメモしたテーマのひとつだった。
自分の声で喋った方が、文字より伝わりやすいかなぁって思って。
だけど、12分以内で喋りきれそうにもないなぁとも思って、実際試しに喋ってみたけど予想通り喋り切れず💦
なもんで、ここに書いてみる。
できるだけ自分の思いが伝わるように書きたい。
書ける自信もないけど・・書いてみるぞ!!!!

怖さを感じながら

わたしにとって、今の世の中は生きづらいと感じている。
(ラジオでもちょこちょこ喋ったような気がする。#22のラジオでもチラッと言ったと思う)

それは、すべてにおいて、楽しい嬉しいHAPPYと思えることがなにひとつない。
なぁんて絶望的過ぎることではない。
だいじょぶだよ!
楽しい嬉しいHAPPYを感じられる心もある。
希望だって失くしたわけじゃない。
希望も持ってる。
だけど、わたしの中のどこかに生きづらいと感じているのはほんとう。

ほんとはいつも、いつもいつも、
いろいろ発信することに怖さを感じている。
それは、ネガティブだろうとポジティブだろうとどちらも関係なく。
どこか怖さを感じながら、日記もラジオもTwitterも発信している。

いろいろ怖いもんあるけど、人間が一番怖いよね(笑)

書きながら、同時に怖さも感じてる

こんなこと書くこと自体、怖さも感じる。

わたしが書いた日記を読んでくれてる方には、
できることなら、ほっこりしたり、楽しいなって思えたり、ためになったなぁって思えたり・・そんな、わたしという微力な人間でも誰かの心のエネルギーに少しでもなれたらいいなって思ってはいるんだ。

だけど、わたしが生きてる中で感じるものの中には、ネガティブっぽいというのかそういうモノもある。
そういうのはヤダなって思う方もいるかもしれないよね、と思う怖さや、ほっこりだったり楽しかったり役立つような発信じゃなくてごめんねって思いもある。

また、わたしを応援して下さる方には、心優しい方がいてくれて、こんなこと書くと心配させてしまうかもしれないなとも思う。
(でもわたしは強い子なのでだいじょうぶです!ふふふ(笑))

そんな風に思うことから、こういうの書くことに全く抵抗なく書けているわけじゃない。
抵抗も怖さも感じながら書いてる。

だけどね、わたしが苦しんでいる時、わたしと同じような思いをしたり考えたりしている人がいるんだ、ってことがわかって、わたし、救われることがあったんだ。

わたしが救われたように、もしかしたらいるかもしれない、わたしと同じように思ったり考えたりしている方を、救うとまではいかないにしても、小さな力になれるかもしれない。とも思う。だから、書く。

いわゆるポジティブな内容じゃないけど、思うこと、書きたい。書くね。

ネガティブが悪いこととは思わない

わたしはどこかネガティブが悪いとは思ってはない。
一般的に、ネガティブよりポジティブな方がいいね、ってのはわかる。
し、わたしだって、ぱっかーんとキラキラポジティブシンキングでいつも、いつだっていられたらいいのになって思う気持ちだってある。

でも、心だけじゃなく、身体だって毎日違って、時に身体がしんどい時があったり、どこか痛かったりするのと同じように、心だって、しんどくなったり、元気なくなったりすることだってある。
それを良くない!!って頭ごなしにポジティブシンキングがいいのだ!って決めつけることは、ちょいと虐待みたいじゃないかい?って思う。

わたしは、ポジティブだろうと、ネガティブだろうとどっちでもいいんじゃないかなって思う。
自分がこっちがいいって思って本当に欲してたら、そうなる思考に自ら変えようとするかもしんないし、ネガ・ポジどっちもあったっていいし、ネガティブや悲劇のヒロインが心地いい人だっているだろし。

そして、ネガ・ポジは、両極端にあるように思えるけど、ある種、わたしは似たモノ同士にも思える。
相反することはどこか繋がっているように思う。
例えば、愛憎とか。

わたしは、自分自身にとって一番心地いいチョイスをするのがいいんじゃないかなぁって思う。

どこか、嫌われてもいいと思ってる

わたしは、人から好かれたいという願望がないわけじゃない。
そりゃ、嫌われたり、無関心より、好かれた方が嬉しい。
嬉しいに決まってるじゃないか!!(笑)

だけど、
人から嫌われないように、誰からも好きになってもらえるように、気に入ってもらえるように・・
そういうことのために、自分がほんとうは思ってもないのに、着飾ったような言葉、万人受けする言葉、自分のメリットのためだけの言葉を使いたくない。

シンプルでありきたりな言葉、拙い言葉だとしても、
自分がほんとに思ってる血の通った正直な言葉を使いたい。
それで嫌われるならそれでもいい。
あまのじゃくかな(笑)でもそうなの。

嫌う人とも仲良くなれる自信がある

そしてわたしは、
わたしに対して無関心な場合は残念ながらどうしようもないんだけど、
わたしを嫌う人が、物申したいとか何かわかんないけど、わたしと会って喋りたいと思って喋る機会作れたなら、
今、わたしのことを嫌ってたとしても、
会って喋るうち、わたしはその人と仲良くなれる気がする。
どっからその自信が来るのかわからないけど、なんとなく、わたしは仲良くなれる気がするんだなー。

昔、付き合ってる人と壮絶な(笑)喧嘩をして、
その時に、身も心もばっしばしに砕かれるような酷い言葉を吐かれまくったけど、その言葉たちを聞きながら、
それでも此処に居て、わたしに酷い言葉吐きまくるってことは、なにかしら興味があるってことなんだなって思った。
本当にどうでもいいと無関心や、本当に縁を切ろうと思っているなら、
黙って知らぬ間に出てくチョイスもできるし、
わーわー怒鳴らずに、冷静に淡々と終わりにしよう、
とかさ、すぐにでも交流を絶ち切るチョイスもあるわけで。

わたしに対して、長い時間、怒鳴って酷い言葉吐きまくるパワーあること自体すごいな、と思ったの。

そう思えた自分の思考に自分でびっくりした。
若い頃のわたしには、こんな思考回路微塵もなかったし、
そんなパートナーこっちから願い下げだ!って若い頃ならなってた(笑)

まぁこのことだけで言うわけじゃないんだけど。
無関心以外、“好き”じゃなくて“嫌い”だとしても、そこにはなにかしらのパワーがあるような気がして。

だから、ってのもヘンテコな言い分だけど、会って喋ったら、仲良くなれる気がするなぁ。
実際どうかはわかんないし、相手にもよるけどさ(笑)

鎧を纏うひとたち

わたしの性格が歪んでる、と言われてしまえばそれまでで、実際、歪んでるのかもしんない。歪んでるんだろう。歪んでます(笑)

そんな歪んだわたしの眼からみて、中には、自分がほんとうは思ってもないのに、着飾ったような言葉、万人受けする言葉、自分のメリットのためだけの耳ざわりのいい言葉しか発信しない人もいるなぁと思う。

わかりやすいところで言うと、一部の政治家とか。
政治家の場合は、腹黒い見せかけの綺麗な鎧纏っちゃってんの、バレてたりもするけど。

近しいとこでは、わたしがその人の裏の顔というのか、プライベートで言ってたことと、公に発信していることとの差を感じた時に、嘘っこ言ってんなぁと思う。

人には、気分みたいなものだってある。わたしもある。
だから、もしかしたら、その人は、その時その瞬間の気分で本当にそう思ってた可能性もあるなとも思う。

だけどいつも、わたしの感覚でいうところの当たり障りのないことや、かっこいいこと、本当はそうは思ってないことを、体裁良く、差し障りなく、綺麗な鎧に纏って発信してるのをみると、わたしは・・・って思う。
すごいなぁと思う。
気持ち悪さを感じないのがすごいなぁって思う。

でも、否定する気持ちはない。
変えた方がいいのに、とも思わない。

だってそれは、その人が、選ぶ選びたい生き方なんだろなと思うから。
その生き方にどうこういうつもりは毛頭ない。

そして実際んとこ、裏の顔みたいなものを知らない人にとっては、それが鎧だなんてわからない。
いわゆるポジティブで綺麗でいいことしか発信してなければ、みえてるそれらが全て。
多数に好かれるだろうし、敵も作んないだろし、その人にとってはメリットしかない。
鎧ってバレなきゃいい。

例えて言うなら、完全犯罪の浮気に近いのかもなぁ。
彼氏が浮気してても、完全犯罪でバレないようにしてたら、彼女にとっては浮気してないってことになる。
彼女にとっては、いい彼氏で幸せ。
彼氏は浮気して楽しんで、彼女にも幸せな気持ちを与えてあげられてて責められることもない。いいとこどり。
完全犯罪の為に証拠を隠す労力が多少いるとしても、ほぼメリットしかない。

正直でいたい

メリットしかないから、そういう生き方を選べる人、そうできちゃう人を、わたしはどこかで羨ましいなって思うとこもある。
わたしはめちゃくちゃ不器用な人間だと自分で痛いほどわかってる。

だから、世渡り上手っていいなぁ羨ましいなぁって思う。
羨ましいと思う気持ちも確かにあって、そうできれば、もっと生きやすくなるんだろうなって思う。
本来の意味とは多少ズレるけど、わたしの感覚的な言葉のニュアンスでいうと、パリピ。フットワーク軽く、ぴょいぴょい~ってさ。

過去、一度、そういう生き方をしてみようと試みてみたことあった(笑)
だけど、ぜんぜん無理だった。わたしはやだった。望まないものだった。
どうしてもわたしは、そういう生き方したくない。

マジョリティからすると、わたしはおそらく頭のおかしな人間なのかもしれない。
わたしには黒いモノだっていっぱいいっぱいある。歪だよ。そして重い(笑)
でも、自分でいうのもなんだけど、ものすごくピュアだと思う。
悪魔で天使だと思う(笑)

だから、こういう意味で汚いのはやだ。気持ち悪い。嘘はやだ。おべんちゃらもやだ。正直でいたい。メリットなんかなくても、たくさんに好かれなくても、自分に正直でいることを選びたい。
そう思う気持ちの方がわたしは強い。

そしてちょっと余談なんだけど、どんな人でも、きっとひとりは、あなたを大事に思ってくれてる人はいる。
あなたの味方、きっとひとりはいる。
そう思う。
わたしにもいる。
おかあさん。
きっと。たぶん。

ほんとの言葉を発信してる人もいる

鎧を纏う人たちのことを書いたけど、ポジティブで綺麗でいいことを、自分の体裁とか気に入ってもらうための発信ではなくて、ほんとうに思って書いてる人もいる。
わたしはそういう人たちは素敵だなって思う。

鎧纏ってるかどうかの違いって、自分とちゃんと向き合えてる人なら、自分自身が一番、鎧纏ってるかどうかわかることなんじゃないかなぁ。

みんなあるんじゃないかな?黒いモノ

そして、わたしは、当たり前だけど、生きてる人全員のことなんてわかるわけない。

わかんないけど、たぶん人間は、大なり小なり黒いモノ、
いわゆるネガティブ感情(負の感情)や、
人には言えないような部分なんかは、みんな持ってるんじゃないかぁと思ってる。

絶望、体裁、損得勘定、自己保身、おべんちゃら、嫉妬、嫌悪、恨み、悔しさ、憎悪、愛憎、怒り、不安、軽蔑、殺意、空虚、失敗、恥ずかしさ、性癖、見下す、罪悪感、悲嘆、拒絶、うんざり、傷つく、弱さ、逃げ、苛立ち、哀愁、後悔、腹黒さ、否定、焦り、退屈、媚びる、攻撃、恐怖、苦悩、負い目、心細さ、萎縮、焦り、呆れ、悩み、落胆、苦労、みじめ、失望、憂鬱、戸惑い、孤独、哀れ、嘆き、辛さ、痛さ、喪失感、情けなさ、寂しさ、文句、不愉快、不機嫌、我慢、ストレス、辛抱、諦念、じれったさ・・などなど。

似たような言葉も書いちゃったかもしんないけども、
こういう気持ちがあったりすること、何もおかしなことではないし、
あるものをないことにはできない。
自分に嘘ついたり、蓋したり、みえなくしても。
そして、公には隠せてたとしても。
あるものはある。
みつをじゃないけど、人間だもの。
あると思う、誰しも。

わたしの中にも黒いモノはもちろんあって、その“ある”を、“ある”って認めて受け入れてる。
きちゃなさ、弱さなんかも自分の一部なんだから。
そんな自分も受け入れた上でどうしていくか。
向き合うこと、考えること、多面的だったり、その奥には何があるのか、変わることも含めて、自分と向き合うこと、わたしはやめたくない。

若い頃、昔自分にあった まもるもん

若い頃のわたしは、若さゆえの尖りのようなモノがあったなぁと、今となっては思う。
虚勢張ったり、かっこつけたり、今のわたしから見ると、あらあら、かっこつけちゃってーぷぷぷと笑っちゃうような。
それらは、わたしがわたしをまもっていたモノだなと今は思える。

また、自分をマジョリティ、いわゆる、“普通”だとか“一般的”といわれるよな枠組に、自分を入れなきゃいけないような、じゃなきゃ受け入れてもらえないような、目に見えないモノに縛られていた感覚もあった。
それも、まもるもんのひとつだったと思う。

わたしは著名人でもなんでもないけど、俳優という舞台に出演したりする、ある種、表に立つ仕事でもある。
作品や役をプレーンな状態で観てもらえるよう、わたしが無色の方がいいかなぁと思ってたこともあった。
そのために、あんまりにもプライベート過ぎることや、わたしの人間性がみえ過ぎてしまうようなことは控えようと、まもってた時もあった。

まもるもんは徐々になくなってきてる

まもるもんがまだ色々ある時は、ブログ(日記)もやってなかった。
だけど、徐々にまもるもんが剥がれて、ブログをはじめてみるようにもなった。
それでもまだ、今よりまもるもんは多かったけど。
時間をかけて、どんどんまもるもんはなくなってきてる。

なもんで、わたしが“まもるもんがなくなってきた”のは、今にはじまったことじゃない。
生きてくうち、徐々徐々に、どんどん、わたしのまもるもんはなくなってきている。

黒澤世莉さんとの出会い

徐々にまもるもんがなくなりつつある中で、
小劇場ではご存知の方多いと思うけど、黒澤世莉さん(2016年に解散した時間堂という劇団の主宰していた方)と出会ったことが、わたしにとって大きい。

世莉さんには、わたしの感覚でいうと、あなたはあなたのままでいいよーみたいなウェルカム感があった。

わたしは、歳を重ねた今もそうだけど、今以上に、自分が思うことを言語化することが超絶ヘタクソだった。
その自覚があったから、思ったことを聞かれて発言することの怖さがあった。
自分の拙い言葉が恥ずかしいと思う気持ち。
まともな言葉を言わなきゃって思う焦りもあった。

だけど、世莉さんはそういうわたしを理解してたのかどうかはわからないけど、大丈夫だから怖がらずに言ってごらん、って言ってるような感覚があった。
リアシュアランス!
だからわたしは、ちゃんとしなきゃ!とか、マジョリティ、普通、一般的でいなきゃ!っていうようなまもるもんが、またひとつなくなった感覚がある。

まるままでいることの怖さ

だけど、あるわたしの出演した公演で、ポストパフォーマンストークのようなものがあって、出演者が出ることになってわたしも出た。
まもるもんがまたひとつなくなってきたとは言え、やっぱりすごい緊張と怖さがあった。
で、案の定、うまく喋れなかった。
その時わたしは、天然だと言われたことに凹んだ。
わたしは自分で天然だと思ってないし、天然じゃないのに違うのに‥うぅぅ‥って。

今振り返ると、え?そんなことで?って今の自分は思えるし、別にいいじゃん、凹むことじゃないじゃんって思えるんだけど、その時は、わたしがわたしのままでいたらいけないのかも・・怖いなぁ、みたいな気持ちになってた。

今年入って更にまもるもんなくなってきた

そんな風に思ったりしたことも経て、いろんなことや環境の変化、失敗、反省、後悔ありながら、まもるもんを少しずつ剥がしていった。
感覚的に、わたしはその方がいいなって思ったから。

わたしは、今年入って暫くして、色々と環境が大きく変わった。
コロナの影響もある。
約8年いた劇団を抜けたこともある。

そんな環境の変化に伴い、より一層まもるもんがなくなってきた。

もしかしたら、わたしの一部の書いた有料日記や、ラジオなんかでわたしのちょっとした変化を感じた人もいたかもしれない。

今まで環境や立場などがあって、言いたかったけど言えなかったことも、どんどん言ってこうと思うようになった。
ある種、今までより、一層捨て身というのか投げやりというのか(笑)、更に、まもるもんを剥いでいこうって思うようになった。

とは言え、秘密だよって言われたことはちゃんと守ります!わたしは。
((あと、自分の線引きにはなるけど、さすがにこれ不特定多数に読まれるのはちょっとなと思う内容は、有料日記(簡単に読まれないようわざと高値(笑))に書いてる))

怖さはどこから来るのか

最初に書いたけど、わたしはいろんなことを発信することに怖さを感じながら発信してる。

怖さを感じるひとつには、自分の自信のなさもあると思う。
わたしはわたしなんだからいいじゃん!って堂々と闘う強さがあったら怖くなかったかもしんない。
いいこともそうでないことも、言いたかったら言ったらええさぁ~って余裕ぶっこける強さがあれば怖くなかったかもしんない。
100人いて90人の味方がいたら、もしかしたら怖くなかったかもしんない。

あともうひとつ、怖さを感じるのは、迂闊に喋ることが赦されない世の中だなぁとわたしは感じているから。

昔に比べたら、いろんな人が好きなことを発言、発信しているようにもみえる。し、実際そうだろうな、とも思う。
だけど、その分、SNSの普及で顔見えない状態で、いとも簡単に人を傷つけることができてしまう。

問題、おかしいと思うこと、自分と意見が違うこと。
それを、ただ乱暴な言葉で罵ったり、否定したり、こいつはダメだと攻撃したり。
感情的にしか捉えられず、ぷいってしたり、ちゃんと対話しようとしない。交流しない。
怖い世の中だなって思う。

もちろんそんな人ばかりじゃないことも知ってる。
優しくて暖かい人もいるのもわかってる。

だけど、たくさん怖いは溢れてる。

‥こんなんでいいの?‥

最近でいうところの、木村花さんのこと、わたしはニュースで知り、いくつか記事を読んだだけで彼女自身を詳しくは知ってるわけではないけれど、ある部分で、彼女が、死を選択しまうほど精神的に追い詰められていた痛みが、わたしにはなんだかわかるところあるなぁと思った。
わかる、なんて簡単に言っちゃいけないって思ってる。わかってる。
だけどそれでも、簡単に言うわけじゃなく、わたしはほんとにわかるとこあるなぁって思えた。

心配してかけてくれた言葉に傷ついた

わたし、自分では思ったこと言いたいことを正直に伝えたいって思ってる。
だけど、自己主張が強いとは思ってない。

相手や周りを何も考えないで好き勝手なんて言ってない。
自分の思うことが絶対正しいとも思ってない。
ラジオでは何度か喋ったことあるけど、わたしは、なんでなんで病があるから、自分と思考が違うと、何でそう思うんだろう?って興味を持つ。
自分の意見を曲げないわけでもない。
今、自分が考えてる思考も変わる可能性があると思ってるし、実際、今のわたしの思考は、昔の自分にはなかった思考だったりする。
相手が変わらない、相手を変えることはできない、ってことを、痛いほどわかったことがあって、自分が変わるしかないと思って変えたりもした。
今の自分は、まだ変わる可能性あると思ってるし、自分でもびっくりする自分が出てきたりもするし、自分ってあやふやだなって思ってたりもする。

“自己主張強めだから心配だ”って。
わたしと、会ってまともに話したこともない人だけど、わたしを心配して言ってくれた言葉だった。

だけど、わたしはこの言葉に酷く酷く傷ついた。
わたし、そんなことないのに、って思って。
心配して言ってくれてたことはすごくありがたいことなんだけど、だけど、わたしはものすごく悲しくなって泣いた。

その人には、会って顔見て腹割って喋って、もっとちゃんとわたしを理解しようと、わかろうとして欲しかった。

わたしは、自分が、実際に会ったり喋ったりせず、まともに付き合ってもない人の、噂やSNSでの発言だけで、その人を決めつけることはしたくないって思ってる。
もちろん、噂やSNSでの発言を耳にしたり、目にしたりもするから、自然とそれを受けての印象はある。
だけど、やっぱりちゃんと実際会って喋って付き合ってみないことにはわかんないなって思ってる。

実際、わたしは、会ったことも喋ったこともなかったけど、人から、ある人のあまり良くない噂を聞いた。
ふーん、そうなんだね、って思ったけど、それを鵜吞みにはしなかった。
実際、そのある人と会って接したわたしの印象は、噂とは違うなって思った。
もちろん人間だから、すべてはパーフェクトではなくて、そのある人の弱さや、わたしから見てこうしたらいいのに、って思ったことはあったけど、基本的には全然いい人だった。
噂で耳にした高飛車わがままな人ではなかったよ(笑)

例えていうなら、食べログで高評価のお店だとしても、実際自分が行って食べてみなきゃわかんない、ってことをわたしは言いたい。
高評価じゃなくとも、自分が行って食べて美味しいって思うお店だってあった。
なんでも、自分で実際やってみなきゃわかんない、ってことをわたしは言いたい。
‥そんな例えいらないって?わかりやすいかなぁって思って(笑)

だからわたしは、心配してくれての言葉なんだけども、まともに会って喋ったこともないまま、わたしを決めつけられてしまったことに悲しく思った。

まぁそれはほんと、わたしの願望であり、単なるわたしのわがままでしかない、ってことも思う。

そう思う人もいるってことがわかって、心配してくれてありがとう、
それだけを思えればいいんだけどさ。
だけどわたしは、まともに会って喋ったこともないその人を、わたしは大切に想ってて、だからこそ、わたしをわかって欲しい欲が私の中ではむくむく大きいかったんだよね。

自分にとってそこまで想ってはなくて、遠い人だったら、伝えてくれて心配してくれてありがとう、で終われたかもしんないんだけどね。

わたしの仮説

わたしは、生きてる人たちみんな、ほんとのほんとんとこは、
みんな仲良く暮らしたいって思っているんじゃないか、と思っている。

これは、わたしの勝手な仮説。

だけど、いろんな、人間ならではの弱さみたいなものが邪魔してたり、どうしたらいいか方法を知らないからそうなってんじゃないか、って思ってるとこある。
自分自身を大事にすること、それはとても大事。
だけど、自分以外の人に対しても大事に思うスペース、相手を受け入れてあげられる余白みたいなものがあれば、変わってくるんじゃないかなぁって思ってる。

わたしは、人間みんな違うって思ってる。
似てるとこや同じ思考や価値観があるとしても、ひとりとして、同じ人はいない、って思ってる。
あなたはあなたしかいないし、わたしはわたししかいない。

また、人と人はわかりあえない、とも思ってる。
まず、自分の心にあるものを、言葉、声、行為、行動、絵、歌、作品、ごはん、物‥いろんなのを駆使して伝えるツールはあっても、自分の心にあるもの、まるまますべてを1mmの狂いなく伝えることってとても難しいと、わたしは思う。
その場では、ぱっと言ったことが、あ、ちょっと違ったやって思うこともあるし。

そして、自分がそうなら、相手もそうで、もちろん伝わるものもたくさんあるけれど、なにもかもすべてまるままわかりあえる、ってことはなかなかどうして難しいとわたしは思う。

みんな違って、人と人はわかりあえない、
だからこそ、自分も相手も、お互いに違うことを認めて、相手を受け入れるスペース持って、伝わるように伝えようとしたり、時間やエネルギーを使って、相手と関わろう、交わろうと、わかりあおうとするんじゃないかなって思う。

それってば、もんのすごくめんどくさい。
わたしも人間の一味だけど、
人間って生き物は、超めんどくせー生き物だなぁって思う。
だけどさ、そのめんどくささが愛おしかったり可愛かったりするんじゃないかなぁって。
そして、そんな、超めんどくせー人間って生き物は、かけがえのない生き物なんじゃないかって。
そんな風にわたしは思う。

そしてわたしは、完璧な人間はこの世にひとりもいないんじゃないかとも思う。
心理カウンセラーとか精神科医とか僧侶とか、
人間の心の理解が深い人でさえ、プライベート、人間関係、自分自身、とかいろいろ、悩みがあったり、生きる中で多かれ少なかれ、もがいてるとこあるんじゃないかって思う。
わたしほどは、もがいてはないと思うけどね(笑)

わたしが傷つくのと同じように、あなたも、相手も、みんな傷つく。脆い。いろんなことに怖さを感じる。弱い。
強そに見える人だとしても、きっと心許せる誰かには弱さを見せてんじゃないかな。
そういうの、みんな一緒と思う。

自分が完璧じゃなくて、それでもどこか赦してあげれて生きているように、相手も完璧じゃないことを赦してあげられるスペースがあれば隙間があれば、もう少し優しい暖かい世の中になるんじゃないかって、わたしは思う。

誰一人傷つけない不快にさせないものなんてないんじゃないか

わたしは自分の発信することで、誰かを傷つけたいとも攻撃したいとも思わない。

だけど、問題提起、疑問、わたしが思ったことなんかを正直に書いて、わたしはわたしなりに考えて発信したりしてても、
わたしの感覚とは違ったり、
許容範囲レベルが違ったり、
言葉の意味自体も同じ言葉だとしても受け取る言葉のニュアンスは、人によって多少変わったりもすると思っていて、わたしはどこか言葉のあやふやさがあると思っているから、わたしの伝えたい意味と全く同じように受け取られるとは限らないなぁと思っているし、
そもそもわたしを快く思ってなかったり、
本当の意味でわたしとの付き合いがそんなに深くない人だったり。
いろんな要因で誤解されることがあるかもしれないと思ってる。

わたしなりに一生懸命考えて気を配りつつ、
だけど、自分が思ったこと、できるだけ歪まないよう、嘘にならないよう、考えて発信してはみるんだけど、
それでも、不特定多数のよくわたしを知らない人に読まれる可能性があるってことは、わたしの思いとは違う風に伝わってしまう可能性はある。

それはわたしに限らず、そうだと思う。

そして、極論。
世の中に発信されることで、例えば、結婚報告、出演情報、支援、誰かの応援、Twitter数珠つなぎ、お金あげます、笑いのネタ・・とかとか。
悪い発信じゃなさそうにみえることだとしても、誰かにとっては、傷ついたり、不快だったり、しんどかったり、妬ましかったりする可能性はある。

どんなに素敵だなぁって思えるようなニュースでさえ、「はぁ?」って、なにかを見つけて叩いたりする人は、悲しいことだけどいる。

この世に、絶対に、誰一人傷つけない、不快にさせない、なんて発言、発信は、なにひとつないんじゃないか。
そんな風にわたしは思う。

だからって、いい子ちゃんでいて、世渡り上手の思ってもない着飾った嘘の当たり障りない言葉と、人を叩くだけの言葉が溢れる世の中はいやだ。
人の目気にし過ぎて、何も言えなくなる居心地の悪い世の中はいやだ。

曲げることが大人ならわたしは大人になりたくない

少し前、わたし、知り合いじゃないけど知ってはいる人が、ご自身の思うことを発言してどうやら叩かれたようで、
影響考えないでツイートすべきじゃないと反省されていて、でも思ってることは事実で、自分を曲げることが大人なのか、
的なこと呟いているのを見て、あぁぁ‥って思った。

わたしも自分の発信することを、わたしなりには考えて気を配ってはいるんだけど、影響力ある方は、より一層気を配る必要があるのかもしれない。
だけど、わたしはそれを見て、自分を曲げる必要はないよ!って思った。
その方なりに気を配るところありながらも、どんどん自分の思ってるほんとんとこを呟いて下さい!って思った。
曲げることが大人なら、大人になんかならんでいいんじゃないかって思った。

影響力ある人だって同じ人間なんだよ!
影響力ないからって、気を配ることなく、なんでもかんでも好き放題言いたい放題、暴言、罵倒、バッシングしていいってことはないんだよ!
と、わたしは思う。

こういうのを見ても、どうして、自分と同じ考えが当たり前ベースで考えてしまうんだろ、って思う。
みんな違うのが当たり前って思えてたら、わかってたら、
相手がなんでそう思うのか?ってお互いがお互いに興味持って、
相手を受け入れるスペース持って、
ただ攻撃したり叩いたりしないで、
優しさや暖かさを持ってお互い喋ってさ、
そしたらきっとそっちのが、ほんとはお互い心地いいはずなのに。
(これは、わたしの仮説踏まえての意見だけど)

創作現場でも

創作の現場でも、わたしは演出家、出演者、スタッフ、できることならみんなフラットに迂闊に物言える現場がいいなって思う。

歳上年下先輩後輩売れてる売れてないステータス?んなもん関係ない。くだらない。そんなものはわたしにとってはどーでもいい。

作品創るために集まった人間同士ってだけ。
必要なのは、作品に向かうみんなの情熱と努力とアイデアと健康。
みんながお互い尊重して、安心して、迂闊に物言える現場だと、クリエイティブになりやすいんじゃないかなって思う。

よく、居酒屋だと喋りやすいけど、稽古場だとあんまり喋れないとかさ、その言ってる意味はわたしもわかる。
今、コロナの影響もあり、稽古後毎回飲みに行ってた方もそうもできないかもしんない。
稽古場でも、居酒屋いる時みたいに迂闊に喋れる環境だったらいいんじゃないかって思う。

ちなみにわたしは、年下年上先輩後輩などなど関係なく誰でも、わたしをあだ名で読んだり、呼び捨てだったり、ため口で喋ってもらっても、全く構わない、というか、その方がいいと思ってるくらい。
もちろん、相手がそれに抵抗あるってんなら、どっちでもいいけどね(笑)

で、わたしは・・

めちゃくちゃ長々書いてきたけど、そんなこんなで、
いっぱいいっぱい考えて気を配って発信しても、叩く人がいる今の現実は、変わって欲しいと祈るし願ってはいるけど、今の現実は受け止めるしかない。

さっき書いた、大切に想ってる人から心配でかけてくれた言葉もらった時、わたしは一層怖さを感じて、もう日記もラジオもTwitterも一切合切発信するのやめようかなってことも過ぎった。
その方からしたら、わたしがそんな風に思うなんて思いもよらぬことかもしんない。
でも、わたしにとっては、それほど酷く心を抉った。

だけどやっぱりわたしは、自分の思うことを、わたしなりに考えたり気を配りつつも、発信してこうって思った。

今のわたしは、まもるもんがだいぶなくなってきてる。

わたし(百花亜希)をサポートしたい✱応援したい✱力になりたい✱と思って下さる方へ♡ありがとうございます♡ note経由(会員登録必須)のサポート、 Amazon欲しいものリスト→https://x.gd/cm64Iからのサポートもできます。 お気持ち ありがたく受け取ります♡